活動報告/クオリア京都

 


 

 

第8回クオリアAGORA_2014/世界言語としてのマンガ



 


 

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第8回クオリアAGORA 2014/世界言語としてのマンガ/日時:平成27年1月22日(木)17:00~20:30/場所:京都大学楽友会館会議場-食堂/スピーチ:竹宮恵子(京都精華大学学長、漫画家)/【スピーチの概要】日本のサブカルチャーとして、海外から高い評価を得ているマンガ、マクルーハンは1960年代にこのマンガを「クールなメディア」と位置付けています。 マンガは「分かる」ではなく、「クール!」「イケてる」という表現がふさわしいようで、ビジュアルコミュニケーションとしてのマンガは、グローバル社会の言語としてより高く評価されそうです。 第8回は、世界に注目される日本マンガの道を拓き、昨年春からは京都精華大学学長として次代を担う若者と向き合う竹宮恵子さんをスピーカーに迎えます。 /【略歴】竹宮恵子(京都精華大学学長、漫画家)1950年徳島県生まれ。 1968年「週刊マーガレット」新人賞に佳作入選した『リンゴの罪』でデビュー。 代表作『風と木の詩』『地球へ...』で小学館漫画賞受賞。 2000年に京都精華大学教員となり、マンガ制作の技術指導、カリキュラムや教材作成などマンガ教育の体制づくりに尽力。 文章では理解しにくい情報をマンガで描く「機能マンガ」や、史料性の高い複製原画「原画'(げんがだっしゅ)」の研究などを行う。 2008年マ ンガ学部長、2014年学長に就任。 紫綬褒章受賞。 




≪WEBフォーラムはコチラ≫

 


長谷川 和子(京都クオリア研究所)


多彩な方々が、ここに集まって立場を超えていろんな議論をして気づきを持って帰っていただこうと、始まった「クオリアAGORA」ですが、きょうは、漫画家で京都精華大学学長の竹宮恵子さんをお招きいたしました。 竹宮恵子ファンがたくさんいる中で、今夜、こんなふうに、竹宮さんを独占していいのかなという思いでおります。


京都クオリア研究所の事務所が京都精華大学が運営されているマンガミュージアムのちょうど向かい側にありまして、時折お邪魔しているのですが、いつも外国人が大勢訪れていらっしゃいます。 日本語なのに、マンガをくいるように見ている。 この光景は、まさに、きょうのテーマである「世界言語としてのマンガ」を実感いたします。 


きょうは、京大の総長山極寿一さんも「マンガなら、忙しいけれども」と参加をしてくださいました。 談論風発の楽しい一時にしていきたいと思います。 まず、竹宮さんのスピーチから始めていただきます。 


※各表示画像はクリックすると拡大表示します。  

スピーチ 「世界言語としてのマンガ」

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漫画家/京都精華大学学長 竹宮恵子氏

漫画家/京都精華大学学長
竹宮 恵子 氏


きょうは、いろいろな方がいらっしゃるということで、マンガのお話などでいいのだろうかと思いつつ、まあ、私が知っていることはマンガのことしかないということで、マンガについてのお話をさせていただこうと思います。 


タイトルは「世界言語としてのマンガ」と書いておりますが、マンガというものが、先ほどマンガミューアジアムの話をしていただきましたけれども、ほんとうに、知らないうちに世界中に広がって、今では、もう「manga」という横文字が、そのまま「マンガ」という発音で世界中に流布しているというような状態になっています。 それが示すとおりに、一体、どこで、どのようにして、その人たちがマンガという認識を得たのだろうか、というお話をさせていただきたいと思います。 マンガは、世界言語にほんとうになりうるのだろうか、ということと、そして、「マンガリテラシー」というものも、実はあるんですね。 日本のマンガというものは、今、最先端。 非常に、大きく伸びた木々の先端部分のように、細かく小さな枝分かれをしています。 とても表現も豊かです。 そういう状態なのですが、それが、マンガのリテラシーをどうして育てているのかということにもなるかと思います。 



勝手にグローバル


画面には、「勝手にグローバル」と書いてありますが、ほんとうに、世界に通用する言葉になっているのですけれども、マンガっていう日本語が世界に通用しているということは、マンガが非常に特殊性が高いという証明にもなります。 ほかの言葉では言い表せないということですね。 他のものと似てもいない。 だから、カテゴリーとしてマンガっていうものにしかならない。 そういう認識で流通していると思われます。 非常に地域的でかつパーソナル。 それぞれのマンガは、ほんとうに作者一人の感覚で紡ぎ出されていまして、日本の地域的な、日本だけの文化の中で育ってきたということ以外に、一つ一つの作品が非常にパーソナルです。 個人の感覚から、個人の言葉として紡ぎ出されているというものなんですね。 私の大学でマンガの教育をしておりますが、とにかくパーソナルなものなので、一人ひとりに、その人ならではの表現方法があります。 ですから、それを教師側が理解して教えていかないと、その人の発展にならない、というような難しさがあります。 


そんな状態であるのにも関わらず、言葉もわからない外国の人たちがどうしてそれを読むようになってしまったのか、ということですね。 とにかくそこに絵がある、ということで、絵の表現力が豊かであり、明らかなストーリー性を持っている、ということによって、言葉がわからなくても漠然と、実は理解できるわけですね。 見開きのページで見て、なんかこう、話がつながっているらしいということはわかるわけなんですね。 それが、2004年頃から、海外でいろいろな人たちが話題にするようになって、マンガブームというようなものが起こりました。 それに乗っかって、出版社がアニメと抱き合わせでたくさんのマンガを、外国に輸出するようになりました。 その間に、すごくコアな、マニアなファンといってもいいんですが、そういう人たちがたくさん増えまして、それを読んでいるうちに、今度は、日本というものが何ものなのかということを不思議に思い始めるようになったわけです。 日本独自のものがそこには描かれているからです。 絵で表現されていることが、感覚として日本独自のものであるということを、理解できるわけです。 


それによって、「ジャパニーズ・スタディズ」という言葉が、今、大学の中では非常によく使われています。 日本について、マンガを通じて学ぶというようなことが、ほとんど当たり前のように行われています。 実は、マンガ研究科は、ほとんど留学生といっていいくらいで、かなり多国籍です。 そういう中で、日本人の学生が、留学生から着付けを教わって、浴衣を着せてもらって、京都のお祭りに行くっていうような状態が作られています。 日本人の学生は、逆に、小さい頃は別にして、浴衣に袖を通したこともなければ、着付けをするなんて分からないっていう状態なんです。 マンガの輸出 というものに対しては、最初、非常に消極的でした。 すごく地域的、日本の国でしか理解され得ないものだと、出版社も漫画家もみんなそういうふうに思っていましたので、余りにも特殊で、海外には全く目を向けていなかったと言えると思います。 なので、強くコマーシャルをすることも、もち
ろんしませんでした。 ダメだろう、出してもっていう感覚のほうが強かったといえます。 その中で、大友克洋さんが「AKIRA(アキラ)」という作品を描いて、それを出版する時に、アメリカン・コミックス的な色合いの装丁をしまして、わざとそういう感覚でアメリカに輸出してみよう、ということがあったんですね。 でも、それが本当に火を付けたかというと、マニアな人たちには有り難いことだったんでしょうけども、むしろ、最初は「だめでもともと」という感じで出したわけです。 


輸出には消極的だったのに?


マンガが結局どこから広がっていったかというと、フランスなんですね。 転勤で、サラリーマンの家族がフランスにいかなければならないという状況が生まれ、高校生とか子どもたちのために、輸出したわけです。 ですから、日本語のまま日本語の書店に並べられていたんですね。 すると、そこに、フランス人の女の子たちがやってきて、なぜか、日本語のマンガを集め始めるということが起こり始めました。 それは、「AKIRA」のように大々的に出したものではないのですが、その女の子たちがやったのは、自分で探し、ほしいものを選び取るということだったと言えます。 


このように、読者が選び取る形にするというのは、そこに、赤い字で書いておりますように、実は、「マンガの中に隠された秘密兵器」のようなものなのです。 その下に、小さい字で「マンガの極意」と書いていますが、「説明的でないのにちゃんと説明され、考えようとしてないのに考えさせられ、あくまで答えは読者が発見し、そして、読者が必要とする結論に行き着く」というように構成することがまさにマンガの極意なんです。 そして、それが仕掛けられていることを、読者に気づかれてはなりません。 そういう考え方からいけば、海外の読者が「選び取ってくれた」ってことは、それが無意識に奏功し、最初の杭がうたれたってことだったんだと思われます。 


マンガ・リテラシー


「マンガ・リテラシー」(G4)というものがあると、先程いいましたけれども、マンガは絵です。 文章の部分は、外国の人たちには読めません。 日本語を知ってる人は少ないので、読めないと思うんですけれども、見るっていうことは、人間の普通の感覚として、とにかく何かを理解しよう…あるいは、そこに意味があるのではないか、と必ず思う。 それが「見る」ということだと思います。 図というものが、何かを理解する、「解く」というようなことにつながって、リテラシーが起動するのだというふうに私としては感じています。 意味を紡ぐ。 意味っていうのは、頭のなかに主語、述語ができて、文章的な意味を持たせるということになるんですけれども、マンガのリテラシーでは、理解が先に起こるんですね。 何か意味を紡ぐ前に、見たことによって、何らかの形での理解が起こる。 それは、全員一緒ではなくても、そういうことが起きるということです。 


画面にも出ておりますが、知能が高い動物であれば、そういうことは自然に起きることなんですね。 「見る」ということをほとんどの動物がするわけで、中に、知能の高い動物、例えば、ゾウとかですね、あるいはチンパンジー、ゴリラなど、そういうものであれば、当然ながら、その意味をことばの形でなくとも理解するってことが起きると思います。 もちろん、全てではないと思いますが、そういうことが起きるものだと思います。 飼っている犬とかでも、起こります。 ヒトの表情を読むというようなことをする動物は、結構いるわけですね。 そして、「解」が次の意味を求めて、文章にならないようなイメージの中で、自分自身が行動するような感覚につながっていくわけですね。 そういうのが、マンガのリテラシーなのかなっていうふうに思ってます。 


それは、映画にも文学にもない 。 つまり、読み解く―全ての人が一緒の読み解き方ではないのですが―ってことをすることが、コンピューター的な言い方で言うと、双方向的なメディアになっているのではないかなと思います。 映画はそのまま流れていってしまうし、文学は、高い読書力がなければ、なかなか、それをほんとうの意味でイメージにできる人は、意外と少ないかなと思います。 読書をして、本の中にあることを自分のイメージにするっていうのは、また別のことだと思うんですね。 必ず、それを読まなければ、同じ気持になれないとかですね。 そういうことがあると思うんですけれども、そのあたりが、文学にも映画にもない、マンガの奇妙な部分だというふうにいえます。 誰もが同じ読みをしない。 つまり、読者の勝手なんですね。 勝手であればこそ、読み解こうと思う積極性が生まれてしまうということです。 


映画にも文学にもない


マンガを読み解く楽しみってことなんですが、これは、実は、個々の作品の何が好きとか、この漫画は評価が高いから、とかっていうこととは、まったく関係がありません。 非常に稚拙なマンガでも、それをわかろうとすること、その中から、何か意味を汲み取ろうとする心の動きがあって、ほんとに下手なマンガであろうとも、理解はできるんですね。 それは、別の楽しみです。 うまいマンガ、上手なマンガを読んで、ああ面白かったっていうのとは、また違う面白さなんですね。 読み解くのは、自分自身。 だから、自分の話であるとさえいえるのです。 その「読み」っていうのは、実は、作者は知らないところで起きていることで、ほんとうに自分が描こうと思ったことと同じような読み方をされているかというと、それはまったく違う問題だと言えます。 なので、読み解くのは自分自身、そして、自分の話だと思い込むことすらできます。 そういうところに、海外の 読者も今は気付いているんだと、私は思っています。 だからこそ、マンガが、ここまで広がってきた。 


海外の読者も描き始めた


それが、私の中で、完全にはっきりと形作られたのは、この本ですね。 「ニューヨークの高校生、マンガを描く」 というタイトル。 マイケル・ビッツという先生の書かれたものです。 この人は、教育学の先生で、マンガを描くっていうことを高校の授業の中に導入したんですね。 この高校っていうのが、マーチン・ルーサー・キングの名前が冠された学校で、コミック・ブック・プロジェクトというものが行われたのです。 このプロジェクトに参加してきた生徒というのが、ほとんど、移民してきた子どもたちなので、言葉の教育ももうひとつうまく進んでいない。 そのため、ちょっと取り残されがちな子どもたちなんですが、マンガを好きになっている。 そういう、孤立しているがゆえにマンガが好きになっているというような人たちを集めて、「コミック・ブックを作ってあげるので、自分の物語を描きなさい」というふうに勧めたわけです。 それで、子どもたちは、自分の憧れているマンガというものを、いかにして描くかということを自ら勉強し始める。 


先生の側は、マンガの描き方は知りません。 でも、この子どもたちが、マンガをどれほどまでに好きかは知っていた。 そして、教育的プロジェクトとして動き出すわけですが、それは、10年間で5万人にも達し、もう、全米を巻き込んだ教育プロジェクトとなっています。 この本が出されたのが2011年です。 日本でも出版されることになったわけなんですけれども、これを読んで、私は、泣きたいぐらい感激しました。 こういうふうに、マンガは使えると漠然と思っていました。 けれども、実践したのは日本の人じゃないってことに、ものすごく驚いたし、感動しました。 まったく日本のマンガのことを知らず、日本のこともあんまりよく知らないけれども、マンガが教育に役に立つんだということを思った。 漠然と感じていた私も、そこまでは考えていなかったのですけれど、実際に行動を起こして、実際に本をつくるところまで至ってしまった。 


これは、子どもたちの描いた絵です。 もちろん、プロの描いたマンガのようにはうまくはないですけれども、自分の言葉を相手に伝わるようにマンガで説明するっていうことを、マンガに対する敬意故にがんばったっていうことなんですね。 それができる、幼くて、まだよく何もわかっていない人ですら、それができる、っていうことが、マンガのツールとしての能力っていうのをすごく証明しているように思います。 マンガは、不特定多数の読者に、見知らぬ人に、自分自身のメッセージを届けたいという気持ちにさせる。 そして、それが、自分自身を写してしまうことになるわけですね。 で、その作品は、主人公も全く自分自身ではないし、違う人に託されているわけですけれども、それでも、自分自身を写しているということを、自覚的に作者が描いているということです。 webで、まったく見知らぬ人とつながることができるのと同じようなつながり方がマンガを通じてできるっていうことが、マンガのツールとしての有用性っていうのをほんとに示しているなと思います。 


その中で、マンガというものを誰も選んでほしいと言ったわけではないのに、例えば、うちのマンガの研究科に、たくさんの多国籍な人たちが来る。 ほんとうに、マンガがちゃんと訳されているのだろうかと思うような国からも来ます。 そういう人たちは、非常に自分のしていることは特殊だと、非常に数が少ないということを自覚しているんですけれども、それよりもなお、マンガを使うことに、すごく期待を寄せているんですね。 自分の表現としての期待を寄せているといえます。 そういう人たちにとって、最も大事なのは、自然に流れるようにスルッと入ってくるマンガを描きたいということで、みんなそう言っています。 どうしても日本に来なければならない理由は、海外で一生懸命たくさんのマンガを読んで学ぶには、無理な部分がどこかにあるっていうことを知っているんですね。 どういうふうにすればそれが得られるかっていうことを、すごく強く感じている。 言葉のように描きたい、つまり、母国語のように描きたいというふうにいえると思います。 で、こう思わせることが、日本のマンガの特徴でもあり、スタイルとしてだけでなくて、機能の面でもね、他の国のマンガに比べてアドバンテージがあると言ってもいいようなポイントなんですね。 


そういうところ、先ほど、「マンガの極意」というふうにいいましたけれども、その極意を得るため、どこがどう違うんだろうかと確かめるために、わざわざ日本に来ているといえます。 これは、真似たりすることでは、習得できることではないんですね。 それはなぜかというと、まあ、言語、つまり日本語とマンガがものすごく密着して表現の方法として開発されているからなんです。 日本語が上手にならなければ、上手に日本のマンガを読むこともできない。 自分が、英語に訳されたものを読んで理解していたのと、日本語をちゃんと学んで日本語が分かる状態で日本のマンガを読んだ時と比べると、流れの作られ方とかっていうのが、まったく理解が違うだろうというふうに思います。 だから、日本語を勉強しなさい、あるいは、マンガをたくさん読みなさい、と。 これ、どっちでもいいです。 たくさんマンガを読めば日本語がうまくなるし、その逆もまたあります。 というようなことで、それを進めているわけです。 もちろん、その人の日本語がうまくなると、私は、何しろ英語ができないものですから、ことさら学生に言葉の大切さをいうのですが、それだけじゃないです。 ほんとうに、日本語がわかると、マンガの構造がわかる、と言ってもいいわけです。 


コマの流れの問題


それで、次 を見ていただきたいですが、マンガを表現するには、いろんな問題があります。 まず「コマの流れの問題」ですね。 一番初期のマンガを調べてみますと、そのころは、全てのコマに、「コマ・ノンブル=ナンバー」というものがついています。 1コマ目はここです、次は下に行きます、あるいは横にいきます、とか、1、2、3、4とノンブルがついていました。 上から下にでも渦巻状によませることも、コマ・ノンブルさえあればどのようにでも読ませられる。 そして、間違いを起こさないようにしようということだけじゃなく、絵として面白く構成するために、このコマ・ノンブルというものがついていました。 しかし、それが、時代を経るごとに、もう、不要になる。 つまり、こう読むのが当たり前でしょうというリテラシーが培われていったわけです。 で、読み間違わないように矢印を付けたりしてですね、コマが、今、みなさん思い浮かべることができるかどうかわかりませんが、マンガのコマっていうのは、今、横に読んだらいいのか、下に読んだらいいのかわからないようなコマ割りの仕方は、漫画家のほとんどの人がしません。 それをしてはならないということが、描く側の認識にちゃんとあるからですね。 読み間違いが起こるようなコマの割り方をしない、というふうになってますけれども、だからこそ、今、ノンブルがついてなくてもいいわけですね。 


昔は、ずっと縦に、まったく同じ大きさのコマが並ぶというようなことがあったので、矢印かノンブルをつけるかして、行く方向を間違わないようにしてあった。 つまり、描き手が工夫していた、編集者も読者のために描き手に注意を促していた。 ところが、今は、もう描く側も読む側も認識が一致して、リテラシーが完全にできあがっているといえ、そういう状態なのでノンブルをつけることがありません。 また、そのまま輸出され、印刷されても、あんまり問題が起きないわけです。 


オノマトペの問題


もう一つは「オノマトペの問題」 。 留学生の多くは、オノマトペをどう書いていいのかわからなくて、ものすごく悩みます。 例えば、ドアを開ける時「ガチャ」だったり、そうではなくて激しく開ける時は、「バンッ」って書く人もいます。 で、そういうふうに、場合、場合によって、オノマトペって種類が余りにもたくさんあります。 で、使用する局面も非常に多いので、留学生はどう覚えたらいいのか分からない。 これ、日本人の学生にとってみると、言われても、何が難しいのかわからない。 生活に密着した日本語の多様性をそのまま使っているから、何の問題もないわけです。 それから、留学生が困るのは、衝撃音とともに場面転換をするシーンですね。 多分、映画が最初に始めたことだと思うんですが、マンガが、それを使いはじめました。 例えば、「ドン」という言葉です。 場面転換の場面で、主人公が大きくアップで出てきた時、「ドン」って書きます。 「ドン」って音じゃないですね。 しかし、それが音として書かれている。 映画の場合は、衝撃音のようなショックのある音を入れます。 マンガは、それを使い始め、言葉で書いたんです。 それが、今は当たり前で、主人公を印象付けようとする時にはみんな「ドン」って書くんですね。 


こういう工夫があり、長い背景があるオノマトペなので、留学生が正しくオノマトペを覚えようと思っても、それは無理な話なんですね。 なので、私は、その全てを説明して、「これは創作の範囲なんです」と教え、自分の国の言葉でどういう音であればベストかを考え、作って書いてほしいと言っています。 自国語の領域で、音や状態ってものを表せるはずなんですね。 例えば、中国語だったら、これなんて書きますかって聞きます。 そうすると、こう書きますと、漢字で状態を表してみたり、発音で表したり、いろいろな方法で工夫していますので、とにかく、このまま、自国語の領域でもっと発明をたくさんしなさいと言っています。 どんなものでも作り方は自由で、発音記号とかを使ってもいいのですけれども、ただ、基本は理解してもらえるということが大事で、「こうであろう」という推測が成り立つことを前提に、日本のマンガにとらわれることなく、どんどん、独自のオノマトペを作り、発展させていってもらいたいと思っているんです。 


吹き出しの問題


「吹き出しの問題」 も、いろいろあります。 日本語は縦に書く時期が長かったので、横書きも、最近は、教科書なんかで、当たり前のようになっていますけども、日本語は縦に書く時期が長かったっていうことと、マンガは右から左へ流れる。 つまり、綴じのせいで、日本語のマンガの場合は、右から左へ流れて行きます。 だから、吹き出しの言葉も、縦書きが自然に読めるんですけれども、横書きにするとですね、こう読んでこう割って…、流れは逆で、マンガを読んでいく時、非常に妨げということになるわけです。 なので、縦書きの方がスムーズ。 そして、書く時に、文章の切り方がありまして、日本語は、言葉が大体「五七五」のリズムになっているので、これを活かしやすい。 読者も、心の中で、そのリズムを作りながら読んでいますので、そのリズムに沿う形がいい。 セリフを書く時「行変え」っていうのをするんですけども、それが、五七五のリズムにうまく乗っているところで、きちんと助詞まで入れて切る、そして、行を変えるということを、マンガを描く人たちは、当たり前のようにやっています。 


しかし、そのことを外国人は、意識していないことも多いんです。 例えば、中国語はどうかと聞いてみましたら、吹き出しの中に入るのであれば、できるだけ四角くして、収まるようにして入れると答えました。 ただ、私が、行変えというものが、読むリズムを決めるっていう話をしましたら、中国の学生たちは、「なるほど。 では、変えようと思います。 3文字、行を変えて次は5文字いれます」というようになりました。 そのほうが、読み流しがいいと知ると、当然、使おうと思うわけですね。 それを、ネットの中で、マンガの仲間に流す。 私が言ったこととして流していいよ、と私も言ってるわけですが、こうして、それぞれの国の言葉にふさわしい吹き出しの形が広がっていく。 できるだけ、その国の言葉に則した新しいマンガの言語が作られていくことを願っているんです。 


こういうわけで、吹き出しは、コマの流れと視線誘導に一役買っているわけです。 


、その中で今、日本のマンガで一番多くある誤用、ですね。 日本語から見ても、これはうまくないよっていうような吹き出しの作り方があります。 基本的に尻尾が付いてないですね。 尻尾っていうのは、口から出る言葉だから、口の方向へ向けて描く、そっちに向けて尻尾はつけるんだということが、昔のマンガ、初期のマンガを見ると、みんなしゃべっている人のほうにちょっとだけでも、尻尾の先が曲がっていて、ああ、そっちから声が出ているんだなと、わかるように書かれています。 それが最初の流れだったにも関わらず、今は、全部の吹き出しに尻尾がないので、推測しなきゃいけないんですね。 読者は、自分のリテラシーを駆使して、誰がしゃべっているのか、どんな語調でしゃべっているのかを、自分の中で組み立てながら読まなければいけないので、最近のマンガは、読めませんという方も非常に多いです。 それについては、私は嘆かわしいとちょっと思っていて、それだけはやめてほしいなと思っているところなんですけども、ほんとに、読者のリテラシーが高ければこそ、それが許されている。 編集者も、それに何らの注意をしないっていうふうなことが今は起きています。 それが枝葉末節になっている、これを日本のマンガの状態としていいのか悪いのかっていうのが、非常に疑問です。 


読みと書きが流れを作る


で、ここ に、「読みと書きが流れを作る」と書いています。 ここの「読みと書き」は文章の「読みと書き」ですね。 それが流れを作っている。 マンガは、それを基調に作られている。 つまり、言葉っていうものを綴るっていうことから来ていますので、マンガは、極めて言語的であるといえると思います。 ということは、各国のマンガのリテラシーというのは、各国語を基調に作られないと、うまくは育たないという事になります。 日本のマンガを真似ている状態では、そのまま読める人は、ほんとに好きな人に限られますので、それでは、そういう人同士のマンガしか作れない。 そうではなくて、自国語にふさわしい、小さな子どもでも読める人のマンガを作っていかないと、マンガは広く普及していかないだろう、ということになります。 そういった研究を、実は留学生たちはやっています。 母国語のようにマンガを描きたいということでやっているんですけれども…。 


これは、日本語で描いたページです。 右から左へ流れていきます。 同じ主人公が10年後こうなりましたという最後のコマがあるようになっています。 それが、これは完全にひっくり返して、ミラー化と呼んでいるんですけれども、つまり、逆印刷ですね。 こうやって、日本語も裏返しになっていますけれども、ここに中国語を入れるわけですね。 そうすると、左から、こっち、右へ読むっていう形になるわけです。 中国語はいいんです。 まだ、縦書きができますから。 中国語も、基本は今、横書きになっているらしいですけれども、マンガの場合は縦書きにしているようです。 それは、日本のマンガをもともと真似ているからですね。 縦に入れた方がいいということになっていますけれども、翻訳の場合、こういうふうに、ミラー化して訳すという形が最初の形です。 リテラシーを作る動きとして、画面の反転が最初にありました。 全てのマンガ、あの、綴じを逆にするために、つまり、右から左へ読むんじゃなくて、左から右へ読むっていう綴じ方に変えるために、画面を全部反転しました。 すると、オノマトペが逆。 つまり裏返しになってしまうので、オノマトペも貼り付ける形で、例えば、外国的なというか、アメリカン・コミックス的なオノマトペを入れたりして工夫を最初はしていました。 そこの国のリテラシーに合わせようとしてやったんですね。 ところが、次の段階では、オノマトペの翻訳をやめちゃうんです。 やめた方がいい。 絵を壊してしまうから。 読みに逆らうような形になってしまうので、やめようということになって、さらに次には、画面の反転も綴じの変更もやめてしまう。 つまり、日本のマンガは、右から左へ読むもの。 せっかく流れができているのに、それを妨げることはやめましょうという動きが、今度は起こりました。 セリフだけ、横書きにしましょう。 英語にしましょうというのが最終的には形としてできたわけです。 


しかし、縦長ですよね、日本語用の吹き出しは。 それに、横書きの英語を入れるというのは、ちょっと考えても、あんまり適さないですよね。 音韻的にも段落的にもすごく不都合な感じになってしまいます。 ところが、日本のマンガみたいなものを真似たいと思った外国のマンガファンというのは、わざわざ縦長にするんです。 自分が描く時も、日本のマンガっぽいからという理由で、横長の吹き出しを選ばずに、縦長の吹き出しを選んでしまう。 で、無駄な空間のある吹き出しが使われるということになります。 読み方向と違う流れに吹き出しを使うと、違う流れになるので、ホントは横長の吹き出しを使って読み手に負担をかけないようにしなければいけない。 


そこを、新たな挑戦として考えだした人がいます。 販売している翻訳マンガとは違って、ミラー化だけではなくて、言語に対して適切な読み順や吹き出しにして、オノマトペにも対応するんだと。 で、コマと絵の位置、そういうのも調整します。 絵の損失を抑えて、吹き出しの形をセリフに沿わせるようにする。 本人は、まだまだ、ストーリーや目線のリードには問題が残りますと言っているんですが、それがこういうふう になります。 左側が日本語。 右側が中国語に変えたものです。 絵の方向自体は変えていないのですね。 ちょっとだけコマを並べ替えたりしてですね、実際に作った絵を使って、何とか工夫をしている。 中国の人は、ほとんどが、デジタルでマンガを作リます。 ペンで描く部分っていうのは紙に描きますけれども、最後仕上げする時は、全てデジタルでやります。 なので、ここに見て取れるように、絵とまったく関係ない吹き出しの違うものが、こういうふうに縦横に変えられて載っていますが、これは、レイヤー化してあるからできることですね。 デジタルの中でレイヤー化してあるからできるということになります。 


日本語の見開きのページ


これも、次のページ ですが、これは日本語の見開きのページ。 次 に中国語の方にいきます。 左から右へというふうに流れますけれども、同じ絵を使うと、どうしても読み流し方が違うだろうと。 例えば、このページ、ここから始まって、その次のコマに行くわけですが、方向としてですね、逆側のほうがいいんですね。 左から右へ流れるのであれば、主人公がここで出てきたのであれば、こっち側へ向かって走っている絵を描くほうが流れはいいわけです。 そういったことを考えなくてはいけないので、それは、本人も自覚はしているんですね。 どう工夫すればそれができるか、ということを感じ始めているというふうに言えると思います。 


中国語の見開きのページ


まあ、できない相談では、もちろんない。 まず、文章の「書き」の流れを確認して、その国にあった流れを確認して、閉じ方を決定し、オノマトペをどう入れていくか。 つまり、こっちへこう流れるんだということを意識しながら、人物の向きとかも考えなくてはいけないですね。 オノマトペも、どっちから入るのが流れに対していいかどうか考えなければいけない。 まあ、吹き出しの位置とか、形っていうものを流れの方向に添わせて、どっちが認識しやすいかということを考えながら、並べ方を作らなくてはいけない。 そして、吹き出しの中の文字も、音韻的、段落的ということは、その国の人じゃないとわかりません。 ネイティブじゃないと、それは、どこで切るかって判断はできませんけども、そこを、その国に合わせて、読みやすく調整すべきってことですね。 


まあ、しなければならないことが、かように、いっぱいあるわけですけども、ページを縦長にするか横長にするかも最終的には考えてほしいと思ってます。 横長の文字が当たり前の国では、横書きのほうが、もしかしたら、いいかもしれないので、これからは、それを考えていってほしいと思っています。 マンガっていうのは、基本言語に沿って作られるべき。 翻訳物はしょうがないけれども、表現としてマンガを選ぶんであれば、リテラシーも同時に、描き手、読み手が育てていくべきだなと思います。 マンガは、基本「野」のものなので、誰かに舞台を作ってもらったり、外国から来た形をそのまま使うんではなくて、自らそれを行うべきであろうと。 そして、児童のために教育的なマンガを作るのが、一番マンガのリテラシーを育てて、いわゆるコミュニティーみたいなものが育っていくと思うので、自国の言語に沿って、そういうものを育ててほしいなと思っています。 本気でやれば、3年ぐらいあれば、ある程度のリテラシーを持った読者が育つのではないかと私は思っているんですけれども、そういうふうにして、自国語に沿ったマンガを各国の漫画ファンに育てていってもらいたいと思っております。 





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