活動報告/クオリア京都
第11回クオリアAGORA_2014/~今、改めて「ものづくり」を考える
ところで、「琳派400年」って何なのでしょうか。 特に、デザインの話がクローズアップされがちなんですが、実は、琳派というのが、絵師、工芸といった境や枠を超えて、本格的なものづくりが生まれた原点ではないだろうかと考えるわけです。
ものづくりが、改めて問われている今、この400年前に思いをいたすことで、これからのものづくりを考えるきっかけになるのではないか、ということで、標記のテーマを考えさせていただきました。
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スピーチ1 「琳派―新しい造形とデザインへの展開」
京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授 美術工芸資料館長 並木 誠士
琳派400年ということを言い出すようになって、特に、俵屋宗達という人は、よくわからないことの多い人なので、何を持って400年と言っているのか、いぶかしく思っていたのです。 そのうち、本阿弥光悦が、徳川家康から鷹峯の土地を拝領して光悦村を作って400年ということを聞き、そういう考えもあるかと納得した次第です。 きょう、お話しするのは、私は、美術史が専門なんですが、歴史的に細かいことを詮索するのではなくて、むしろ、大学でデザインの学生たちに教えている時に、造形とか形の面白さということで琳派について話をすることがあるので、そのあたりをコンパクトにして三題噺風にお話ししてみたいと思います。 まず、当たり前といえば当たり前の前提を少しお話すると、絵画というのは、ある時期までは、基本的には自然にあるものを、何とか二次元的な紙や布に再現しようという試みであったんです。 もちろん、抽象絵画なんかが出てくると、これは、自然にあるものではなく抽象的なものを描くわけですけども、それまでは、犬や鳥や花や、そういう自然にあるものを何とか二次元平面に置き換えようという努力であったわけです。 つまり、そこには、立体をどう平面化するかという問題が出てくるわけですけれども、その辺りが、実は琳派の造形を考える時の一つのポイントになるのはないか、というところで、こういう、大雑把な図式から話を始めて行くことにしました。 まず、「鶴」の話からしていきたいと思います。
この左側に映っている鶴は、牧谿という中国、南宋時代の画家が描いた鶴の絵です。 これは、大徳寺にある有名な国宝の絵で、「観音猿鶴図」といい、観音と猿、鶴の三幅でセットになっているんです。 そのうちの鶴だけを持ってきたわけです。 この牧谿という人は、非常に繊細な筆使いをして、後ろの竹藪も含めて何とか、鶴の形を平面に立体的に表現しようとしたんですね。 例えば、こういうところに微妙に線を入れることによって、鶴の体のまるさを何か表そうとしている。 そういうふうなことを考えるわけです。 このように、牧谿という人は、繊細な筆使いで立体感を出そうとしていた。 で、この右側の方は、日本の16世紀の画家である狩野元信が描いた鶴です。 これは、妙心寺の霊雲院にあります襖絵の一部分です。 牧谿の絵は13世紀に描かれて、15世紀には日本に入ってきていて、日本の画家はこれをお手本に描くわけです。 で、元信の絵も牧谿の絵を見て描いたことは明らかなんですけれども、だが、実際には、牧谿のような立体感を獲得するまでにはちょっと至っていない。 でも、何となく立体感を意識して、非常に細かいタッチで鶴を表していくんです。 だから、これは、鶴の実物を見て描くというより、牧谿の絵を写すというところがあったんですけども…。 それが、例えば、狩野永徳、元信から見ると孫に当たる桃山時代の有名な画家ですけども、永徳が大徳寺の聚光院に描いた「花鳥図」になりますと、同じように鶴を描くんですけれども、さらに形態が単純化するんです。 例えば、こういうふうに、細い線を引きながら立体感を何とか出そうとしていたものが、もう、一本の線を引いて形をとらえようとしている。 というように、かなり単純化したうえで鶴をとらえる。 それでもやっぱり、立体を何とか平面化しようということをしていくわけです。 永徳の絵というのは、他の絵でもそうですが、どちらかというと単純な線で形をとらえてダイナミックに画面を作り上げていくというのが魅力ですから、最初の牧谿のような繊細な筆使いはもうなくなってきている。 それでも、何とか、画面を立体化していこうという風に考えている意識はあります。
牧谿の絵が13世紀で、16世紀の元信、その後半の永徳、というこういう鶴の描き方を見ていった時に、画面のこういうものが出てくるんです。 (資料)これは、俵屋宗達の「鶴の下絵の和(わ)歌(か)巻(かん)」というもので、先ほど紹介のあった本阿弥光悦が書を書いています。 これ見ていただいてわかるように、金と銀だけで鶴を表しています。 つまり、鶴を立体的に表現しようということは、端から考えていないんですね。 非常に平面的ではあるけれども、誰が見ても鶴にしか見えない、という造形をします。 そうすると、牧谿が、一生懸命細かい筆使いで立体的に表そうとしていた鶴というのが、実は、ほんとに単純な「色面」でとらえられる。 これが、琳派の造形の一つのポイントだと思うんです。 で、一つは、ここに「料紙装飾」って書いてありますけども、要するに紙の装飾で、つまり、本来、鶴の絵がなくても、光悦の書いた和歌があればいいわけですけども、紙を装飾して一種こう、魅力あるものにする。 これは、今のデザインに非常に近い。 和歌自体の目的からすれば、和歌が読めれば、それでいいんだけども、でも、紙を装飾したいという発想の中で、こういう装飾が施された。 それは、デザイにもちろん通じるんですけど、それ以上に、鶴に関して言いますと、非常に単純化された形態で、ほとんど同じ形で鶴が飛んでいる。 それから、平面性、さらに、連続することでリズム感が生まれている。 こういう要素で絵を作り上げていくというのは、宗達以前には全くなかったことです。 何とか自然を再現しようとして、周りに木を描いたり、なるべく鶴を何とか立体的に描こうとしている。 宗達は、そういうことは全く考えずに、非常に平面的に単純化している。 それでいて、誰が見ても鶴にしか見えないというものを作る。 ここに、宗達の造形の面白さがあると思うんですね。 で、ちょっと切っていますけど、そのパターンを見ていきましょう。
明らかに、鶴の姿を単純化して、しかも、それを繰り返して、ある種のリズム感を場面に出していく。 しかも、舞い立つ鶴、降りていく鶴、水辺に佇む鶴―というような、さまざまな鶴の姿態をとらえるんですけども、それを、立体的に、かつ空間を再現しようとすることは全く思わない。 そういう面白さを1600年ぐらいに始めたというところが、宗達の非常に新しい造形。 つまり、同時代の人は、何とか空間を再現して、そのダイナミックな空間を襖に描いて、ある部屋を自然とつながるような空間にしようと考えるわけですけども、宗達の場合は、そういうふうな感覚で絵を描いてはいない。 ここに新しい感覚がある。
これが、一つ目の話になってくるわけですけども、最初の牧谿と比べると、宗達の鶴の造形っていうのは非常に明らかになると思います。 つまり、牧谿が一生懸命、細かい影をつけたり、毛描き、つまり鳥の羽の様子がわかるように墨の調子を変えて描いている。 これに対し、宗達は、こういうことを全くしないで、金と銀の非常に単純化した色面で表現している。 しかも、これ、どちらも全く鶴にしか見えない、そういうものを作っている。 こういう、牧谿の絵が室町の絵画に影響を与えて、これに追随して絵を描いていく時代の中で、突然、この宗達の絵が現れる。 これは、非常に新しい展開だと思うんですね。 そういう意味では、宗達の発想の面白さってのは、この鶴なんかに見ることができると思います。
宗達の後を継いだ尾形光琳、後を継ぐと言っても、血のつながりがあるわけじゃないんですけども、光琳にも鶴の絵があります。 (資料)これもやはり、鶴をこう、黒から白にいくグラデーションで描いたりして、色面としては、決して宗達の鶴のような単純化ではないですけども、ただ、やはりこれも色のパターンとしては、単純ですし、鶴も単純化された形で繰り返していく。 しかも背景は、決して自然景を再現しようとしないで、ほとんど金の地の上に鶴がならんでいる。 ちょうど、デパートの包装紙のような感じで、非常に平面的な、つまり奥行きがない空間、ていうか、むしろ空間を表そうとしない発想があります。 それは、こういう背後の水を見てもそうなんですけれども、宗達から光琳につながっていく造形の流れに、そういう平面的な空間づくりというのがあって、一方で、琳派以外の画家たちが何とか空間を再現しようとしている中で、全くそうではない造形のあり方が琳派の中に認められる。 この辺りが非常に面白いところだと思います。
もう一つは、カキツバタの絵です。 これは、みなさんもご存知のように有名な絵で、尾形光琳の「燕子花図屏風」。 (資料)これも国宝で、根津美術館にあります。 カキツバタが群生して咲いている様子を描いたもので、金箔の地に、ちょっとくすんでいますが青と緑だけで描かれています。 非常に単純化された色彩。 それで、この絵を学生に説明する時に、いつも比較をする作品があるんですけども、これは、長谷川等伯という、狩野永徳と同時代に活躍した画家の「松林図屏風」です。 これも国宝の絵です。 「燕子花」とほぼ、同じ大きさの六曲一双の屏風で、これは、墨の濃淡だけで松林を描いている。 こうして並べてみますと、ある共通点が、当然浮かび上がってまいります。 それは何かというと単一のモチーフ、つまりカキツバタだけ、松だけを描く、それから、色彩を単純化している、そして、ある種のリズム感というものが連続の中で生まれている―です。
この三つは共通するんですけれども、ところが、この二つの作品からわれわれが感じる空間の感覚というのは、全く違うんです。 光琳の「燕子花」は、ある種の平面的な紙の上にカキツバタが並んでいるという感じを受けます。 それに対して等伯のほうは、墨の濃淡を使いながら、松林の奥行き感と、松林のもやった様子を表そうと考えている。 つまり、自然の情景をなんとか再現しようとしている。 もちろん、光琳も、自然の状態を再現しようとしているのですけれども、その現れ方が全く違うわけですね。 ここにも、琳派の造形の特徴を見ることができます。 さっきの鶴の絵のように、色彩を単純化し、形態を単純化し、繰り返す事によってある種のリズム感を生み出していく。 こういう連続性は、紋様のパターンに通じるものであって、いわゆる自然の再現とは、ちょっと違う方に行くわけですけれども、そういう点で、「燕子花」の絵っていうのは、「松林図」と比べていくと、空間把握、空間を再現する手法というのが全く違うということがわかります。 こういう描き方も、琳派の特徴の一つとして、しばしばわれわれは見ることができる。
で、あの、さきほどの「鶴の下絵」と「燕子花」の絵っていうのは、巻物と屏風で大きさは全然違います。 しかし、同じ単純化した形態を並べるというのは同じで、同時代の他の絵師たちには全く見られない独創的な空間づくり、作品作りをしているということが、どちらからもよくおわかりになるかと思います。
まあ、「松林図」は、紙の上に墨だけで、5、6段階の墨を塗り分けて、もやに煙った松林を描こうとしているんですが、突出した絵で、同時代にこれだけ水墨表現をうまく使いこなした作品というのは数が少ないのですけれども、これと比べると、宗達、光琳の造形がいかに特徴的であるかということが見て取れるということです。
三つ目の話は、クジャクです。 クジャクは、日本にいなかったわけではなくて、クジャクの絵は描かれたりするわけです。 これは、光琳の「孔雀立葵図屏風」に描かれたひとつがいのクジャクです。 (資料)背景が金箔に地になっているという点で、現実的な空間の表現とは大分違うのですけれども、それだけではなくて、右側の方にカーブしている黒いのは岩なんですけれども、これも決して岩を立体的に表現しようとしていないわけですね。 その後ろに、形の面白い枝ぶりの梅が描かれている、ということで、これ、まあ、クジャクが庭に放たれているところだといえばそうなんですけれども、具体的な、現実にわれわれがその場にいることができるような空間を再現しようというふうな感覚ではない。
それは、次に映す、例えば、こういう絵を見ていくと、よく特徴わかってくると思います。 これは円山応挙の「孔雀図」です。 (資料)光琳のちょっと後に活躍した京都画壇の源になる画家ですけれども、応挙の特徴は何かというと、「写生」ということなんですね。 で、とにかくものを見て描く。 ま、写実ともいいますけれども、応挙は写生といい、普通、「写生画派」といわれるんですけども、とにかく写生をする。 この孔雀図にしても、実際にクジャクを見て克明に再現しようとしているんですね。 で、やはり最前の牧谿ではありませんけれども、何とか立体感を表そうとする。 で、岩がちょっとゴツゴツした感じに見えますが、応挙の有名な言葉に、「岩に三面ある」というのがあります。 どういうことかというと、岩というのは必ず上の面と前の面と横の面がある。 つまり、岩というのは立体なんだと応挙はいうわけです。 で、この絵がそう見えるかどうかというのは、技術の面もありますけれども、少なくとも「岩には三面あり」という風に言うぐらい立体感を意識したかたで、しかも、写生を重んじますから、当然、できる限り実物がそこにいるかのよう絵を描きたいというのが、応挙の一つの考え方だったわけですね。 それで、応挙以降、円山四条派という画家の集団が、京都画壇の中心になっていくわけです。 近代で言うと、竹内栖鳳という人もその流れを汲むわけです。
では、この応挙の「孔雀」が、実際のクジャクをできる限り「再現」しようとしているとすると、光琳の「孔雀」は何なのか、っていうことを考えてみたいと思います。 で、こうやって比較をすると、確かに感覚は違います。 で、もちろん、明らかに両方ともクジャクにしか見えないわけですけども、応挙のほうは、立体感を追求して、写生を突き詰めて描こうとしたのに対して、光琳のあり方は、ま、若干違うというふうに言うことができる。 ただ、実は、ほんとにそうなのかというと、決して、必ずしもそうではないというのがぼくにはあるわけで、例えば、写生というのがベースにあります。 実は、光琳も、すごく写生をしているんです。 なかなか、さっきの「燕子花」のような平面的な絵を見ると、彼は、写生をしないでいきなりデザインをしているんじゃないかと、いう風に思うところがあるかもしれないんですけども、実は、光琳も極めて細かい写生図を残している。 二人とも、写生に基づくけども、絵にする時に、応挙はできる限り三次元的な絵を描こうとした。 ところが、光琳は、いろんな表現なんかを見ても、そこを狙ったわけではないんです。 ただ、そのベースには写生があるっていうことは知っておくべきですね。
これは、円山応挙の写生帳です。 (資料)ま、セミとかコオロギとかいろいろ描かれていますが、例えば、セミを見ていただくとわかります。 明らかに、セミも「3面ある」というふうに描いています。 上、横、下から見たセミの絵です。 つまり、一体感をもって表そうとすると、1面だけ見ていたのでは描けない。 いろんな側面からセミを見られなければ描けない、という風に描いていて、これ、ハチなんか珍しいですけど、正面向きのものが描かれています。 バッタやコオロギもそんなふうです。 応挙は、そういう形で、対象を見ながら、おそらく虫をひっくり返したり、いろいろしながら描いたんですね。 これ、さっきのイナゴとかのアップですけれど、これが雄だとか雌だとかまでも書いています。 まあ、応挙が活躍した時期は、博物学的な知識が江戸で流行りますから、そういう背景はもちろんあるんですけれども、対象を克明に描いて、それを描き分けるってことに腐心した画家であったわけです。
一方、尾形光琳も写生帳を残しています。 (資料)これは、光琳のいわゆる本画、作品になったものではなく、手控えのようなものですけれども、克明に構想を非常に細かい筆使いで描いている。 これだけ見ると応挙の絵の延長のような気がするが、光琳は、こういうことをしながら、作品を描く時には、あの燕子花のようなものを作っていく。 ただ、その背後には、こういう写生があるということは、考えておかなければいけないことですね。 墨だけで描く場合、色を添える場合、実は、光琳も写生では、実物に則した巧みなものを描いています。 実際に、こういう、種を描き分けて、さらに、部分的にはこれはどういう色だったという注釈までつけて、実際にものを見て描こうとしている。 光琳もそういうことをしているんです。 尾形光琳は、実際にクジャクも描いているわけですけども、だけど、応挙のような表現は、最終的にはしない。 ここに、光琳、あるいは、琳派の造形のひねりというか、造形化した時の、一つの工夫というものがあるのだろうと思います。
面白い言葉がありまして、神坂雪佳という京都の、近代の琳派といわれた明治の画家というか図案家、まあ今でいうデザイナーです。 その神坂が「光琳の絵画と蒔絵」という文章を残しています。 大正時代の文章ですけれども、「光琳の意匠図案について見るに、鶴、千鳥、紅葉とか梅、独特の造形で評判だ。 その光琳は、昔のことを勉強し、その努力をしたばかりではなく、例えば邸内に草花を植え、その写生を一生懸命したためである。 ただ、応挙の生き方と違って、写生を踏まえて新しい造形に向かった。 そこに、光琳・琳派の面白さがある云々」というように、神坂雪佳は、光琳の自身の見方を持って写生に努めたと指摘しているわけです。 応挙の3面から描く写生も新しかったのですが、二人の行く方向が違う。 光琳の方は、どちらかというと、平面的な絵にしていきながら、今の感覚でいうデザインに近いようなものになっていく、ということが言えます。 あらためて二つ並べると、その違いというものが見えてくるかもしれない。 こうやって見ていきますと、「鶴」と「燕子花」と「孔雀」というものから、非常に単純化した話ですけれども、琳派の造形の特徴一つの方向性というのが見えてくると思います。
最後に、近代、現代の展開という形で作品を見ていきますと、これは、先ほど文書を引用しました神坂雪佳の図案で、それをもとにして作った蒔絵の箱です。 (資料)これは、光琳の鹿の絵に影響を受けている。 光琳は、非常に写生をするんですけれども、もう一方で、非常に単純化した線で形をとらえていく絵を残しているんですね。 これは「光琳百図」といって、後に、酒井抱一という人がまとめた本の中に入っているんです。 (資料)これは、尾形光琳が、写生を踏まえて形をよく把握した上で、単純化した線で形を再現してみせる、ということをよく示しています。 それに影響を受けた神坂が、ちょっと形は違いますけども、同じように鹿を描いている。 これは明治の後半の作品ですけれども、琳派的なものが明治にも息づいている事がわかります。 それからこれは、加山又造という昭和の日本画家が描いた「群鶴図」です。 (資料)これも、光琳の鶴の絵のイメージがなければできないものだということがわかります。 光琳の金を銀に変え、鶴もタンチョウヅルに変えていますが、明らかに両者には通じるものがあるんですね。 加山は、その作品の中に、琳派だけでなくて日本の伝統的な料紙装飾なんかのイメージも再現していますけども、やはり、琳派が、近代から現代の作家たちに、ある、こう一種のインスピレーションを与えていることがこういうものからわかります。 さらには、グラフィックデザイナーの田中一光の有名な「JAPAN」というポスターのデザインです。 (資料)これは、平清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」の鹿をモチーフにしています。 この平家納経を、江戸時代に俵屋宗達が修復をしたんですね。 非常にシンプルで、なおかつ鹿のポーズをよくとらえていて、宗達独特の形態感覚が見られるのですけれども、現代のポスター作家の田中が、これを日本を象徴するイメージとして「JAPAN」というポスターにしたわけです。
こうした直接的なものばかりでなく、もう少し間接的な影響とか、もっと琳派の影響を受けたものはいっぱいあると思いますが、きょうのお話で、単純化した形態、色彩、そして連続したリズム感の面白さ―そういった、言ってみれば突然、1600年前に宗達が始めた造形っていうものが、光琳に引き継がれ、さらの江戸の後期の酒井抱一、鈴木其一へとつながっていって、神坂雪佳、そして現代のポスターへと脈々と続いてきているということがわかっていただけたかと思います。 非常に大雑把の話でしたが、琳派の造形の面白さの一つのポイントは、1600年前に突然現れた「鶴の下絵」から始まった、というふうに考えて、直接つながりはないけれども、私淑をして自ら制作していった光琳につながっていく―これが、琳派の流れだということです。 で、それが、現代はどうなっているか、これから、お二人にお話を引き継いでいただきたいと思います。
スピーチ2
染色作家 森口邦彦氏
今の並木先生のお話は、すごくユニークといいますか、琳派を説明するのにこういう説明の仕方があるのかと、とても、感激して聞いておりました。 特に、ぼくは、田中一光さんっていうのは、現代の琳派ではないかなと思っていたんですが、この「JAPAN」の鹿のことは、実は知りませんでした。 それを知らずに、平面性とか色の配置の仕方とか、世界に通じる独特の造形性について、この方をこそ琳派というべきであって、よくそのようにいわれる加山又造先生は、亜流にしか過ぎないと思うんです。 その思いは、並木先生もわかってはると思いますが、今の「群鶴図」を見てもですね、光琳のものは、しっかりと二つの群れが対峙してですね、描かれてないものをちゃんと描こうとしているけれども、加山さんのは一方通行なんです。 視線が向こうに行ってしまって、そこに目がとどまらない。 画家ならば、そこに目を止めさせようとするべきであると思うので…。 関係の方がいらっしゃったらお許し頂きたいんですけれど、有能な開拓者であっただけに、いつのまにかああなられたのは、何かに取り込まれたんだと思っています。
それで、琳派のことを話すのに、これ私の父の作品なんですけども、(資料)実は、うちでは光琳さんと「さん」付けで呼んでましてですね、光琳と呼び捨てにするのが、どうもぼくには不自然なんですが、父もやっぱり、琳派にすごく憧れていて、平面でしかありえない三次元性、琳派の特色である、紺碧の平面であるのに、そこにある立体感というのは、応挙のそれでもなく、また、牧谿のそれでもない。 いわば、非現実的な現実といいますか、そういうものを求めていたんですね。 そういう父の仕事を見ていまして、この人も琳派と呼んでいいのかなと思ってきました。
並木先生もお話になったように、琳派の、美術の歴史の中で、突然に生まれてくるクリエイティビティに、ぼくはとても惹かれています。 ぼくのやっている友禅染というのは、350年ぐらいの歴史ですが、その中で、父と私の仕事の世界を紹介した文化庁の記録映画がありますので、それを少し見てください。
「蒔糊」の技法とか見てもらいました。 こうやって仕事をするんですけれども、私の基本的な姿勢というのは、伝統の技を引き継ぎながらですが、自分がどこにあるのかというのを常に探したいという思いがあります。 私は、実は、フランスに留学して、もう、日本には帰らず、あちらで生活する手立ても、学校を卒業してできていたんですね。 でも、ある人物に、「どうしても帰りなさい」と言われて日本に帰り、父の跡を継ぐことになったんです。 その人物はフランスで出会ったバルテェスという画家で、「自国の文化の継承に、命をかけてほしい」と強烈にアドバイスしたのです。 この7月に、京都市美術館で回顧展がありますが、もし、彼と出会っていなかったら、今のぼくはいなかった。
これは、最近作、一昨年の伝統工芸展に出したもので、(資料)私も、こんな自然の作品もつくるんですが、さっきの並木先生のお話にあったように、自然の写生は、必要欠くべからざる作業でありまして、禅宗のお坊さんが座禅を組んでいるみたいな感じで、自然とぼくが一体となって、目と手が自然を写すという、その時間が、自分をニュートラルにする、ぼくにとっては欠くべからざる時間なんですね。 こういう素材や技法を駆使してものをつくる時は、思いきり自分自身でいよう、という対比の中で制作してきたつもりです。 友禅染っていうのは、京友禅という言葉に代表されるように、大変オーソドックスな造形世界を持っているんですけれども、私は、こういう、幾何学的な造形を提案しますが、何ていいますか、琳派を見ましてもそうだと思うんですけれども、先人がやりあげたものをただ継ぐんじゃなくて、先人たちがやろうとしていたができなかったことを見出して継いでいかなきゃ、と思っているんです。
この作品は、文化庁がコレクションしたんですけども、(資料)凄くスタイルのいい男勝りの実行力のある人に着て貰いたいと思って作りましたので、和紙造形作家の堀木エリ子さんに頼んで着ていただきました。 私の直線的な紋様というのは、決して図形のための図形ではなくて、女性の体を覆った時に微妙な曲線をとして美しく表出させるための手段でありまして、模様そのものは、女の人がお召になったら、もうなくてもいいのかも知れません。 例えば、「きのうどっかで、黄色と黒の着物を来たきれいな女の人に会うたわ」という印象だけが残れば、ぼくの仕事は終わりやというふうに思っています。 つまり、二次元で、展覧会でみていただく作品世界では、ぼくが思いの丈を形と色に託している自分があるんですけども、同時に、ぼくの着物は、着てもらうことによって第二の生命を得てですね、その世界では、ぼくが、もうそこにあんまりいない方が、着ている人が生き生きと美しく見えることが、大切なことなんです。 で、ぼくの着物は、多分、堀木さんを選んでいるのはですね、あれぐらい強いキャラクターの人でないと着られないと思います。 ぼくの思いが強いだけに、着られてしまうという現象が起きうると思うんです。
まあ、私は、日本には二度と戻らないというつもりで留学をしたわけなんですけども、さっきもいったようにバルテュスという人に「もどって、自分らしさを自分の文化の中で探しなさい」と言われて日本に帰って来たわけです。 とても尊敬する先生にそう言われ、ただただそれだけで帰ってきたわけです。 それで、帰ってきて1週間目ぐらいでしたね、おやじの梅や菊、流水、鶴といった闊達な筆使いの作品を見るにつけ、しかも、発想がとてもユニークで、写実性を備えながら非常に面白い造形をする人でしたが、このことがわかって、とても、これを継ぐことはできないという結論をつけました。 帰国したのは1966年の暮で、正月にかけて日本にまだ独特の雰囲気が残っている頃のことでしたが、その1週間で、帰ってきて良かったなあと思う反面、さっき言った仕事ぶりを見て、例え10年経って自分がこれをできるようになったとしても、その時にはおやじはさらに先にいってしまっているだろうと空恐ろしくなったんです。 それと、4人いました内弟子の人たちが何でも教えてくれ、一から十まで助けてくれ、このままでは自分がダメになるのではないか、と不安になりました。
それで、父に、「あなたの絵の真似はできません」と宣言しまして、それから、4カ月かけて拙い技術をデザインでカバーする作品に取り組みました。 定規とコンパスで図案を考え、内弟子の人たちに助けてもらいながらフリーハンドで模様を描き、幾何学模様を染めて、1967年の第14回日本伝統工芸展に出品いたしました。 すると、それが、見事に入選しました。 展覧会で多くの人に褒められ、おやじも喜んでくれ、特に、私の仕事を不思議がりながら手伝ってくれたお弟子さんたちが、自分のことのように、とても喜んでくれたんですね。 その顔を見た時、こんなふうに、新鮮な感動を提供することが自分の仕事ではないかと感じたんです。 これが、私がこんなに変わった友禅をし始めるきっかけでありました。 まあ、とりあえずこんなところで、お話は、後の討論に続けたいと思います。
スピーチ3
釜師 大西家十六代当主 大西清右衛門氏
では、ビデオを見ていただきながら、お話をしてまいります。 まだ、髪の毛があるころ、20代か30代のころのものですけれども、溶けた鉄を鋳型に流し込んで造形しています。 鋳型の素材はドロですね、日本家屋の土壁のような。 平面図を描いてから木型というものをつかって、土壁のように荒い物から順番にひいていって、これは最終のクリーム状の泥を巻いて、釜の逆さまのものを作らなきゃなりません。 正確に出すには、荒い泥から始めてこのような細かい泥まで4度作業します。 荒い泥から細かい泥まで、炭火で素焼きにする作業を4回繰り返して鋳型を作っていくわけです。
釜には、ぶつぶつの表現があるわけなんですが、連続模様を作る場合は、「霰」というものがあって、これを使います。 私は、実は、この技術を、おやじからは教わらなかったので、これ、生まれて初めてやった時の映像なんです。 上からやるのか下からやるのかわからない。 まあ、釘のような箆で鋳型に押し付けると、くぼみができ、鉄を流し込むと浮き出た表現になるのです。 よく見ていただくと、人間の押したものですから歪みがあります。 こういうものを350年前に先祖が作っております。 私はそれをあらためて復元しているわけです。
先ほど、並木先生が立体を平面に起こすというお話をなさっていましたが、私どもは、逆に平面を立体に起こすっていうようなことをします。 前に彫刻のような釜を置いておりますが、まず、下絵を描かなきゃなりません。 ある家元が描かれた絵を彫刻しているわけですが、こういう箆も全部自分で作ります。 こうやって抑えた分だけが、レリーフとして浮き上がってきます。 これは、「寶」という文字なんですが、視覚的に俳画のようなもので、書き順とかいうものではなくて、できあがった時に、その文字がどう表現できるかを想像しながら作ります。 だから一点一点変わります。 私は、実は細かい彫刻を得意としております。 右の部分は、こういう原型が伝わっておりまして、また、自分でもこういう型を作ります。 これの周りに土をかぶせていって、雌型をつくるわけですね。 これを素焼きにして、鋳型の中に埋め込んで鉄を流すと一体となった釜ができ上がるわけです。
次は鶴の表現。 「鶴丸」という意匠が江戸期にありますが、こういう、鶴の意匠を立体的に表現したものも、釜としてございます。 これは350年前の釜を、私が復元したものです。 それで、なぜ、琳派のお話で私が出てくるかということなんですが、実は、江戸時代、同じ時期に先祖が琳派の人と仕事をしています。 狩野探幽との交流があったんです。 江戸での話です。 表千家の四代江岑宗左からですね、「小田有楽が持っている釜を見せてほしい」と私どもの二代浄清が言われます。 その時、浄清は「織田有楽でなく、今は、狩野探幽が持っている」と答えるんですね。 浄清は狩野探幽と合作をしておりまして、それで、釜、「口四方」と書くんですが、小さい釜を淡幽から借りてきて、その写しをつくるということをして、京都にいた江岑宗左のお父さんである宗旦に、京都で使っていただいたという話が、表千家の「逢源斎書」という文書に出てきています。
そして、私が、その後に、こういう仕事をするのですが、最初は、外に出ることなしに、ただただ、工房の中で作ることだという風に思い込んでおりました。 父が、昭和62年頃に脳梗塞で倒れた時に、私が25、6歳。 高校を卒業して、ずっと父の仕事を見て覚えるということをしていました。 それだけで、何も教えてもらっていません。 それで、倒れてしまってからは、見よう見まねで、まず父のもの、したことをなぞったりして、そうしますと、400年前の仕事っていうものが、教わったこととは、全然違うんですね。 400年前というより、3代前ですね。 3代前までは、私も森口さんと一緒で、職人さんから教えてもらったことなんですが…。
実は、うちの職人さんは、森口さんのところとは違って結構ひどくてですね、最初に工房に入った高校生の時、りんご箱をポーンと投げられて、それを潰して、自分で作業用のイスを作れと言われました。 どうやら、職人さんは、私がどういうものの作り方考えているか見たかったようなんですね。 試されたんです。 そういう中で、なかなか仕事をさせてもらえなかった。 一日、金槌を叩くような作業とかを、ひたすら見ていたのです。
これが、20代で初めて作った彫刻のある釜です。 全然、手が動かなかった。 ていうのは、絵を彫刻にして、逆さまに放り込むということがわからなかった。 私は、3年仕事をしてから、美術館を作るために大阪芸術大学の彫刻科に行きました。 でも、こういう表現はなかなかわからなかった。 思い出しますね。 正月の1週間、夜中に、彫刻の釜がどうしてもできない。 すると、張っておいた紙の下絵がとろけ、冬だというのに、かびてくるんです。 もう途方に暮れました。 そうやって結構苦労しながら、やっとできるようになったのでした。
では、ちょっと、釜を見ながら、400年の歴史をさかのぼります。 父が東山魁夷と合作した釜、そして竹内栖鳳と祖父の合作で利休形の釜。 他にも、橋本関雪とか、京都独特の人間関係というのがありまして、そんな中で、新しいものを作っていくという時、古い型の中に絵師の力を借りて新しいものを盛り込んでいくんですね。 これは「ふた口釜」。 中に仕切りがありまして、日月を表すんですね。 上から見るとアフリカの仮面かロボットの顔みたいです。 こっちの口で徳利の燗をして、もう一方でお湯を沸かします。 三日月の方で「落とし」がついている、ここでお菓子を蒸して、片方でお湯を沸かして、お茶を飲む。 これは、出雲松江藩の松平不昧公好みで、江戸期にこういうものが流行ったんですね。
ここに「肌」があります。 これは何なのかというと、時代が経っていくと、モノが朽ちていくということが鉄で表現されたものが釜の「肌」なんです。 私どもは、千家十職といって、千家の職人として生業を立ててるわけなんですが、400年前に、千利休が辻与次郎という三条釜座にいた釜師に、肌を欠かせる指導をしてるんですね。 ものが朽ちていくという表現、これもそうなんですが、割れたような破片があります。 わざと「羽」を金槌でうち欠いて、それを楽しんでるんです。 現代美術のフォンタナとかが、キャンパスを切り裂くような行為をしていますが、釜の世界では、400年も前に、そんなことはしているんです。
これは、二代浄清の作品。 前においているのも350年前の釜です。 この時には、大西では、武家の釜を多く作っているんですが、それにも羽の部分に肌がある。 それが、朽ちた表現とこういう霰とでミニマムな表現を楽しんでいる。 そして、口元に巴がある。 二代浄清は、大西でも一番技術が高い作り手なんです。
それから、ナマズとつまみは瓢箪を逆さにした意匠です。 大津絵にもあって、そういうものも釜の意匠として取り入れています。 つまり、400年前から、徐々にいろんな価値観のものが作られているんですね。 ただ、お湯を沸かすものなのに。 それで、琳派の影響を受けているかどうかなんですが、確かに、流行のものを取り入れるというところがあります。 そして、釜の中に、たくさん装飾を入れるのは難しいので、単純なデザインを入れるというのは、400年、500年前にやっておるんです。 これは、500年前の九州の釜ですが、福禄寿釜。 彫刻の技術が大変高いです。
私が使っている道具ですが、これは、天保6年に使われていた木型。 この釜は、私が作ったものですが、400年前の鉄と現代とを合体させたものです。 桃山城の門の八双金具をスライスし、叩いて肌をつけ、鋳型の中に埋め込んで、古い金属はくっつかないのでしめつけるようにしてくっつけたのです。 これは、実は、「ゆるみ」という技法で、古くから日本の仏像の技術にあります。 これを取り入れて新しい釜の技法を考えだしたのです。 上の蓋も、甲冑を作る鋲止めの技法で八双金具をくっつけて作っています。 この肌合いが一つの表現なんですね。 本体はできるだけおとなしい肌にして、一方蓋は、雨風の当たった八双金具が400年経って朽ちた味わいを出しています。 まあ、そういう面白さと、逆に瀟洒な絵柄を入れるものが、既に350年前に混在しているんですね。 利休の「わび」、小堀遠州の「きれいさび」です。
これは、銀閣寺に伝わる釜で、特殊な形をしております。 二代浄清の弟が、オランンダの釜を模して「オランダ釜」というものを作っております。 真似たせいかローマ字が逆さに入っていますね。 こういう造形的なものが、350年前に作られていますが、この浄清のものを私が復元したのがこれです。 技法がわからなかったので、20年もかかっています。 また、500年前の技法を復元することで見つけたんですが、蝋で俵を彫刻し中型をつくるという技法を使って、俵屋さんの依頼の釜を作ったこともあります。
私の仕事の基本は、建築の仕事に似ています。 ちょっとお願いして、どうしてもやりたかった漆の「葦手絵」の技術を使って遊ばせてもらったりしたこともありますが、基本的には施主に喜んでいただくように作るんです。 これまで、私の作品とは何なのかというよりも、私は、どちらかというと家に伝わっている技法を伝えるために仕事をしてまいりました。 そうしていると、展覧会のたびに見に来る人が、もっと自由にしろ、もっと自由にしろといわはる。 自分の中では、いろんなことしているつもりなんですけど、変化が見られない。 だから、どんどんエスカレートして、先ほどの時代の違う金属を合体させたり…。 一方で、美術館にあります釜を、全くそっくりに昔の技術で復元しております。 破れたところ、ヒビ割れまで作っています。 すると、そこから、新しい発見が生まれてくるんですね。 精度出すためには、ジュラルミンの木型を使ったり、卍のはんこをつくって模様をつけたりしてやっておりますが、これらは、技法も全く教わったものではありません。 すべて、古いものを手本にすることで考えだしていくのです。 350年前のもの、200年前のものの痕跡を見て修得し編み出していくんです。 教わることでは、最初にもいいましたが、せいだい3代前までぐらいのことしか想像つかないと思います。
それから、鋳造の技術のことですが、昔から、「たたら」というすごい技術があります。 私は、1600度まで、温度を上げて鋳造していて、新しい素材でも作っています。 たたらの鉄より、耐熱性と耐腐食性を増すためにクロームとかチタンとか使うので、そうなると冶金の技術が必要になります。 これまでの「勘―直感」の世界から、現代の科学的なものを取り入れてやっている部分もあるんです。
それで、余談ですが、自分の仕事でも、鉄を溶かしていると、その火を見て興奮するんですね。 これをどう表したらいいかと、いろいろ考えて、写真を媒体として表現してみようと思ったんです。 昨年春、京都で開かれた写真フェスティバルというのに出品した作品ですが、鉄を流した後に撮ったものです。 これは炭を起こした時の炎です。 それと、以前に、民博で「民博×十職」という展覧会が開かれたんですが、その時、収蔵庫にあったバヌアツ共和国のミイラの強さに魅せられて、それと一緒に、私は釜ではなく、鋳型の素材で造形物を作って出品しました。 バヌアツは、溶けた鉄のような溶岩を最も近くで見ることができるんですね。 まあ、見よう見まねで先祖の釜を研究し、復元しているうちに、釜だけでなく鉄の表現として、どういうものが伝えられるかと…。