活動報告/クオリア京都

 


 

 

第2回クオリアAGORA_2014/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

龍谷大学経済学部教授・農学部設置委員会委員長

末原 達郎 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院理学研究科教授

山極 寿一 氏



上智大学経済学部教授

鬼頭  宏 氏




長谷川 和子(京都クオリア研究所)




鬼頭先生のお話の最後の方で、人口の減少、停滞の時期というのは、価値観が変わり、新しい文明が生まれてくる時いうお話がありました。 では、次は、この人口減少期にどう新しい文明をつくっていくのかというところも含めてディスカッションをしていただきたいと思います。


きょうは、人口問題を議論するには実にもふさわしい方々ばかりですので、とっても期待しております。 ファシリテーターは山極さんにお願いしております。 では、よろしくお願いいたします。 





山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)




新しい文明がつくられていく時に人口が急増するという話と、鬼頭さんが最後にお話になったこととは非常にマッチしておりまして、この中に具体的に語っていただいたと思うわけですが、いろんな問題点が指摘されておりました。 たとえば、産業経済の構造と人口は密接にリンクしているとともにですね、出生率と子どもの生存率は逆比例するという話ですね。 少子化は、1975年以降、先進国ではどこでも起こっている現象であって、いくつかの社会のストラテジー微妙な差があるということでした。 では、まず、鬼頭さんの長年の盟友であります高田さんから一つご意見をお願いしましょうか。 



高田 公理(佛教大学社会学部教授)




日本の人口の波動的成長をめぐって教えてほしいことがあります。 


まず、BC2000年から同1000年の間に人口が減っています。 この時期は縄文時代が成熟した時代でしょ? ついでAD1000年から1200年ぐらいですか。 この時期は古代文明が成熟した平安末期と重なるのでしょうが、平安京では鴨川の河原に死体がゴロゴロしていて、それを犬が食っていたりする、いわば地獄絵に描かれたような、まさに「末法の時代」ですね。 さらに三つ目は江戸時代でしょう。 そして21世紀の初頭あたりからも人口は減少傾向を辿り始めている。 


だとすると、徐々に人口が増加し始めたのち、増加率が急速に高まり、やがてプラトー、つまり高原状に達したのち、それが停滞するというS字カーブが、過去4000年余りの間に4つ、描けるのではないかと思うのですが……。 そのS字カーブのつなぎ目の部分で、社会構造というか、文明のパラダイムが大きく転換した。 そんな風に考えていいのでしょうか。 





鬼頭  宏(智大学経済学部教授)




まあ、江戸時代までは、日本列島の中だけで、生活が成り立ってましたけれども、現在はぜんぜん違うわけですよね。 地球規模で、資源、食糧とか考えなきゃいけない。 ですから、日本列島の中で、日本人をもっと増やしていくということは、多分、できないと思うんで…。 国連の推計でも、世界人口自体、2100年が近づくとフラットに近づいてくるといっていますから、それぞれの地域が、もっと人口を増やしていくというのは難しいと思いますね。 ただ、ゼロサムゲームで、麻雀やってるみたいに誰かが、ガーッと点棒を稼いで、あとは沈むというような変動があれば別ですけれども、地球規模で見てもフラットになるということですから、日本も、当然増やせないという状態にはなるんじゃないかなとは思いますね。 



高田


さきほどの話を少し別の方向に進めますと、こんな見方もできそうですね。 つまり、現代までの文明は、ひたすら物質の豊かさを追求してきた。 この点に関しては、水準こそ違え、農業社会も工業社会も同じだと思います。 その上で現代の生活水準を捉えてみると、かなり豊かになった日本をはじめとする先進地域において、今後も一層の物質的な豊かさを追求する必要があるのかどうか。 むしろ代わりに、何か生活のなかに楽しみのようなことを求める方が大事なんではないか。 そんな気がするのですが……。 


こう考えてみると、この先は人口が増え、経済が成長し続ける必要はないのかもしれない。 そうしたことが必ずしも社会の発展に結びつかない、そういう時代に、われわれは逢着しているのだとも考えられそうです。 


さきほど鬼頭さんは、1974年あたりに、そういう兆しがあったという意味のことをおっしゃったように思うのですが、その少し前、1970年でしたか、ローマ・クラブが『成長の限界――ローマ・クラブ人類の危機レポート』を発表しました。 それは、さまざまな自然資源をはじめ、地球の環境容量のある種の限界性を、初めて話題に取り上げた論考でした。 


ところが、その後も石油などの化石燃料が、つぎつぎに発見されて、その埋蔵量は増え続けてきた。 という意味ではローマ・クラブの指摘は当たらなかったかのように思われがちですが、今後の人類文明を超長期の視点で考えてみると、やっぱり、もうこれ以上の資源浪費を続けていけば、保たないのではかという気がすます。 


だとすれば、1970年代半ば以降、日本の人口が増えなくなったのは、いわば人類全体の未来に対するイマジネーションを先取りした結果かもしれない。 そんな風に、ぼくは今日の鬼頭さんのお話をうかがったのですが、いかがでしょうか。 



鬼頭


そうですね、今、図を作りなおそうと思ったんですが、時間もなくそのままいきますけれども、おっしゃったように、これ、対数の目盛りになってますよね。 (資料)これを、普通の十進法の目盛にすると、きれいなカーブになって、そして、国連の将来予測をくっつけると、ちょうど蛇が頭をもたげているような感じ、こういう形になるわけですね。 ですから、人類史の上で、世界人口だとローマ帝国からしか推計できてませんけれども、ビラバンという人は、もっと古い旧石器も出しているんですが、そういうのを見てみてもですね、人類というのが、ある種の壁に、もうぶつかっていると言えなくもないのかな、と。 全く異なった生活様式を求めていけば別ですけれども、高田さんがおっしゃった通りに、石油に基づいた文明ってのは、もう限界ではないだろうかと思いますね。 で、もし、他の資源を使っていったとしても、例えば、再生可能エネルギーを開発していったとしたらどうなるかといったら、もう、人口はそんなに増やせないんじゃないでしょうか。 あのう、今日あたりの新聞でも、ミドリムシ―ユーグレナを使って、その油で飛行機を飛ばそうということで、ANAもそういう会社に出資するんだという記事が出てましたけれども、そうすると、そのための、エネルギーを作るためのスペースが必要となってきますから、人間をそんなにやたらと増やせないと思うんですよね。 再生可能エネルギーに転換しいていった社会であればあるほど、人口は増えにくくなってくるというふうに思いますね。 



山極


エネルギーの問題が出ましたが、その前に、農学者の食物生産ということで末原さんがお見えになっていますので、食物生産についてどう思われるか、ご意見をうかがいたい。 



末原 達郎(龍谷大学経済学部教授・農学部設置委員会委員長)




食糧生産の話になると、急に、われわれは、年代とともに、直線的に食料を増産しそれを消費し尽くしてきたと捉えていたわけですが、先ほど、鬼頭先生がおっしゃったいくつかの波があるというのが、お話を聞いていて考えどころだなと思いました。 たしかにそうだなと思います。 急に増える時期があれば、また、ちょっと減る時期もある。 そうして、次のシステムへ変わっていくのじゃないか。 そこを、文明という言い方で語られたと思います。 


そしたら、食糧さえあればということで、最初の頃は、食糧さえあれば生きていける。 いまのわれわれの時代では、もう、食糧は、基本的に有り余っているという話ですね。 日本のレベルで見ても、食糧は、たいへんたくさんある。 実際どのように、それを手に入れるか、買ったり、作ったり、いろいろ方法はありますが、全体としては多い。 世界全体で見ると、食糧全体としてはものすごくある。 ただ、地域間ではずいぶんバランスが悪くなっています。 場合によっては、穀物をエネルギーに変えていこうという試みもあります。 例えば、トウモロコシをエタノールにしていこうというようなところが出てきていて、まあ、われわれの世界観としては、食糧さえ足りれば人口が増えるという枠組みでないところで、考えていくしかないだろうと。 確かにそうなると、人口が増えるのがいいのかどうか、あるいは、食糧の量が増えるのが単にいいのかどうか、いうことも考えられたらいいと思いますね。 



山極


今のことで、私も思ったんですけど、少し前の説では狩猟採集から農耕へ、農耕社会から都市文明へ、技術の改良があって、インフラが変わって、長寿社会になって人口が増えたという話だったんです。 が、今の考えはですね、人口が先に増えて、その人口圧によって、新しい技術や新しい文明ができたというシナリオになっている。 そういうことでよろしいですか。 



鬼頭


えっと、経済学者の考え方ですと、例えば、その典型といえるかもしれませんが、ボズラップという、もう亡くなった女性の経済学者ですが、彼女は「技術発展というのは人口圧力が大本だ」という命題を設けて研究したんです。 要するに、今までのやり方では食っていけなくなった時に、初めてその技術開発に乗り出す。 これ、食べ物だけでなく、工業生産についても同じことをいうんですね。 で、今までのやり方だと、もうこれ以上やっていけない、多く作れないとか、資源がなくなったので、次の別のものを利用しなきゃいけないとか、そういうことを広い意味での人口圧力、と彼女はいうんですが、農業発展はまさにそれなんですね。 何も、畑を耕し、種を撒いてやろうなんて苦労なことはしたくない。 焼き畑でいけるんなら、それでやったらいいじゃないか、と。 それで、彼女は、アフリカあたりの焼き畑農耕の調査から始めて、技術がないからとか、技術が貧しいから焼き畑農耕でとどまっていて、人口密度が希薄であるのではない。 逆に、人口密度が少ないので、贅沢に土地を使えるから、日本でやってるような労働集約型の農業なんてやる必要がないんだ、と説明していますね。 むしろ、余暇、レジャーを大事にするという時代、社会があるんじゃないだろうか。 これは、先ほどの、高田さんの質問と関係してくるかもしれませんが、ま、経済学者は、大体そういふうに考えてますね。 



高田


ところで、鬼頭さんへの冒頭の質問の内容を踏まえて、ポンチ絵を描いてみると、つぎのような図になるかもしれないと思います。 



この図を描くに当たってのヒントは、梅棹忠夫さんの「情報産業論」という論文にあります。 「情報産業」というと、1981年に出たアルビン・トフラーの『第三の波』を思い出す人が多いと思いますが、梅棹さんは、その20年ばかり前に、より包括的で刺激的な議論を、この論文で提起したんですね。 


この図は、そのことを思い出しながら描きました。 要点を言うと、人類文明は狩猟採集社会から農業社会と工業社会を経て情報産業社会に向かうという、一種の発展段階説なんですが、今日の鬼頭さんの話を参考にしながら考えると、どうも農業社会には2つの段階があるのかもしれないと思わされました。 


最初は、野生植物を栽培して穀物生産を始めた段階です。 ここでは大地の深耕と大規模潅漑が重要な役割を果たしました。 ところが、たとえば日本を例に取ると、室町時代から江戸時代にかけて、その生産性を高める、いわば第二次農業革命とでも呼ぶべき変化が起こる。 その直前に人口停滞が起こったのかなあ、などと考えてみた次第です。 


さらに明治以降の近代化の過程では工業化が進んで、化学肥料生産や農業機械の普及などが起こり、農業の生産性は高まるのですが、それ以上に工業それ自体の生産性が高まっていくんですね。 その結果、明治から昭和まで、人口増加が進むのですが、ちょうど今、工業社会が成熟段階に差しかかったことで、新たな人口停滞が始まっている。 そういうことではないのでしょうか。 


ところで梅棹さんは「農業社会」とは「腹の足しになる文明」に支えられ、その後に来る「工業社会」は「筋肉(労働)の足しになる文明」に支えられたのだと考えました。 すでに触れたように、工業の発展は農業生産性も高めたのですが、それはそうとして、その後にやってくる「情報産業が基幹産業になる時代」は、簡単にいうと、「腹はふくれた。 筋肉労働から解放されて体も楽になった。 で、今後は、脳と神経系を遊ばせ楽しませる時代なんや」とまあ、そんなことを主張したかったのだろうと、ぼくなんかは考えている次第です。 



山極


まさしくそうだと思うんですけど、この話をすごく乱暴に言ってしまうと、ある生活様式で、人口が増えていく。 ところが、大きな気候変動があって環境が変わり、それまでの生産様式では食えなくなる。 それで、新しいやり方に移行する。 それで、豊かになるから…、というんだけど、狩猟採集と農耕を比べると、同じ条件では農耕の方が豊かじゃないんですよ。 工業社会もそうで、農耕社会と比べれば、圧倒的に時間を生産に取られるわけで、全然豊かじゃない。 それに現代は気付き始めたんじゃないかな。 つまり、今、自己実現とかいっているのは、自分の時間を取り戻そう、と。 ミヒャエル・エンデの小説『モモ』に「時間泥棒」という言葉がありましたが、個人の自由な時間が見直されてきました。 ただ、食料生産や家族のために時間を使うんじゃなくて、自分の時間を大事にしましょうということが、グローバリズムの時代になって改めて問題になってきたんですよ。 それまで、食べること、親族のことなど、身の回りのことにとらわれてきたのが、視点が大きく広がりました。 恐らく、大きな質的転換の時代に入ってきたといえるんじゃないか。 



高田


今のお話を労働時間との関係で考えてみると、面白いことが分かってきます。 


まず、20世紀に生き残っていた狩猟採集民のデータによると、彼らの年間労働時間は800時間ぐらいで済んでいるんですね。 ところが、潅漑農耕民の場合は年間労働時間が1100時間以上に増えます。 さらに工業社会では、その時間がずっと長くなる。 たとえば日本の高度成長期の勤労者の年間労働時間は最大で2400時間ぐらいにまで達しました。 それが以後、徐々に減少してきて、現在は1800時間前後で推移しているようです。 ただ、ドイツなどは1400時間程度まで減少しているんですね。 


こうしてみると、今後とも生産労働から解放された時間は増加する傾向を辿るでしょう。 じゃあ、その時間に何をするのかというと、楽しく遊んで過ごそうではないか――そういうことにならざるを得ない。 ところが実際には農業と工業の時代の続きで、「もっと働いて、より豊かになろう」という強迫観念が人々の背中を押し続けている。 ぼちぼち、こうした価値観というか生活感から降りたほうがいいような気がするのですが……。 



山極


未来の話もでましたけど、末原さんは、「スローな農業」とか、いろんなこと提案されていますね。 これまでの食物生産、農業からみれば、最近、政府は農協もやめてしまえなんてことを言っていますが、どういう、食糧生産が、農業も含めてですね、今の日本人の暮らしに合ってると思いますか。 






末原


今、非常に効率のいい農業になってきたわけですよね。 でも、今の農業はね、とても工業的なシステムで動いているわけです。 農業社会から工業社会へ移っていってるとは思いますが、例えば農業をするにしても、工業的なシステムでやってる。 ということは、工業的に効率のいいもの。 キュウリでも曲がったものは箱にうまく入らないわけですから、真っ直ぐな方が効率がいい。 そういう形になってしまっている。 だけど、工業社会でも農業やっている人がいるわけです。 狩猟採集をやっている人もいるわけです。 それは、なぜかというと、社会構造が全体として変わってきたとしても、狩猟採集とか農業は、常に残り続けるもので、情報産業社会であっても、機械を維持していくという、そういうのがある。 これは、効率的な仕事であるか、どうかというのとは違うんですね。 自分の中で、自分の生き方として、そういうものを組み入れていくような選択肢が取ることができるようになってきた。 つまり、車を作っていくのが好きなように、魚釣りが好きであるように農業もできる、というふうな形に変わってきたと思うんです。 


日本の場合は、第二次世界大戦までは、有史以来ずっと食糧不足ですね、それが、1960年代まで続くんですね。 60年代の半ばになって米の需給バランスが取れ出すわけです。 その時は、大体1200万トンあれば、外から輸入する必要もなかった。 今は、米は、その半分でいいんですが、麺を食べたい、小麦を食べたいというふうなことになっているわけですけれども…。 逆にいうと、最も、効率のいい農業のピークというのがこの60年代なかばにあったともいえます。 ありとあらゆるところを水田にしてしまって、効率的に生産性の高いものをつくって、それで何とかバランスを取って、食糧問題を解決してきたわけです。 


でも、そうではない仕組み、狩猟であろうと農業であろうと、これからもずっと続いていくだろうというふうな社会の仕組みっていうのを、私は考えています。 



高田


ついでに、今の話の尻馬に乗って言いますと、1970年代以降の特徴として、ダイエットという言葉の爆発的な流行があるように思います。 それは本来「食餌療法」を意味した言葉です。 だから、1970年代以前には、「よりたくさんのカロリー、脂肪、タンパク質、ビタミンを摂取しましょう」ということを標榜していた。 それが1970年に、がらっと変わり、「カロリーを押さえましょう。 そして積極的に、新たに『第六の栄養素』と呼ばれるようになった食物繊維を摂って排泄を促しましょう。 汗をかきましょう」と言うようになった。 こうした状況下で、今時の若い人は、「ダイエット」というと「痩身」だと信じて疑わない。 そういうことになってしまっています。 


これって、効率的な農業生産が可能になって、ようやく半世紀ぐらい前に十分な食糧供給が実現した途端に、今度は「食べ過ぎたら、あかん」という時代がやってきたということではないのでしょうか。 



山極


ちょっと話を移しまして、現在、例えば、政府の国土計画では2050年というのが一つの区切りの年になっていて、その時に、多分、日本の3分の2の地域は、人口が半減するだろう。 それに、3分の1、いや、20%でしたっけ、人口がなくなってしまう、と。 全くの無人地帯になってしまう、といわれています。 その時、例えば、都市と地方の関係とか、地域共同体がどういうふうに維持できるのか、といった話が大きな問題として関わってくるわけです。 政府は、女子の労働力を伸ばそうとか、高齢者を、労働者に組み入れ労働に従事してもらって、年金給付年齢をもっとあげようとか、移民をどんどん奨励するとかいろんな「骨太の政策」を打っているんですが、これは、人口の専門家の鬼頭さんから見るとどうなんでしょう。 



鬼頭


きょうここに来て、ちょっと、高田さんの顔とかみて話していると、30年ぐらい前に戻ったような気分になってくるんですね。 どういうことかっていいますとね、少子化が始まったころの1980年代なんですけれども、日本医師会に呼ばれて、出生率の低下についてどう考えるか、講演させられたことがありました。 そん時のタイトルが、今、思い出すんですけども「少子社会への期待」というものだったんですよ。 それで、骨組みとしては、しょうがないんだ、と。 出生率が下がっている、そういう状況なんだ。 文明史的にそうなんだ、ということだったんですが、叱られましてね。 ガンガンいわれたってわけじゃないんですけれども、質疑応答の時に、「そうはいっても、これから、産婦人科医はどうするんだ」というような、まあ、絡まれたというか…。 だけど、ぼくは、その時の純粋な気持ちを、もっと保っとくべきだったなと、と今あらためて思いました。 


つまり、高田さんがおっしゃったように、成長期というのは、人口を追っかけて、がむしゃらにモノを作んなきゃいけない、開発しなきゃいけない時代だったと思うんですね。 ところが、70年代とおっしゃったけれども、江戸時代だって吉宗の時代を過ぎてくると、がむしゃらには働かなくてもいいというふうになってきて、実際に農民の社会の中でも、「遊び日」っていうんですかね、これが、どの地方でも増えているというんですよね。 それから、伊勢参りにいくような連中が出てくる。 あるいは、余暇に川柳や俳句作ってみたり、歌舞音曲やってみたり、そういう、西山松之助さんが言う「行動文化」、物見遊山にいったりするようなことが出てくるのが18世紀ですよね。 特に、半ばぐらいの田沼期ってのは一つのピークじゃないかと思うんですよね。 これが、特に文化・文政時代になると、もっと、都市や農村でも行われていく。 それから、ある研究者が「野の舞台」という本を出していますけれども、農村のあちこちで、お能にしろ歌舞伎にしろ、自分たちがやったり、役者を呼んだりして楽しむようになってきますね。 


そういう遊びを重視した、余暇を楽しむ局面に、どうも江戸時代の後半って入ってきている。 私も、21世紀って、そういうふうに考えるべきなんだろうと感じたんですね。 きょう、ここに来て、初心に帰ったような気になってきましたね。 実は、ちょっと反省してる面があるんですよ。 今、行政の仕事に関わってたりすると、ぼくは、人口を増やさなきゃいけないとは思っていないんですが、どうしても、「人口減少を止めるにはどうするべきか」なんて旗を振らなきゃいけない。 でも、今、初心に帰るべきだと思いました。 


では、どう考えるかっていうと、今の政府が1億を維持しようっていってることなんですが、確かに、今のままだと2100年に、4000万人台までいってしまうといわれていて、そうなると、いろいろ大変なことが起きると思います。 しかし、私は、大事なのは1億を維持するかどうかってことじゃなくて、人口が、どこの水準でもいいから安定すればいい。 安定すれば、みんな困ることはないんで、そこで土地利用とか考えたりすればいい。 ですから、今の政府の1億というのは、ぼくは、ちょっと間違ってると思ってるんですね。 それよりも、あまりインパクトはないかもしれないけど、2・07の出生率を目標にして、人口が増えも減りもしない状態を作ろうということなんです。 要するに、1974年に政府が言ったことを、これから実現するってことですよ。 仕上げる段階ですよ。 今まで出生率落としたんだから。 それを元に戻して、人口を少し減らした段階で安定させるっていうのが一番の目標だと思います。 


じゃあ、その時に社会をどうするかってことですけれど、当然、どの時点までいけばいいのかってのは、なかなか難しいんですが、今の政府は、ちょっと急ぎすぎですね。 合計特殊出生率は、2030年までに、今の1・43を、2・07に引き上げなくっちゃあ、50年に1億人の人口は維持できない。 これは算数でわかるわけです。 はっきりいわないけれども、ちゃんと書いてありますよね。 2030年頃までに、2・07に戻しましょうって。 これは、しかし、現実的ではないですね。 よっぽどドラスティックな変化がないと。 それで、現に、1974年から2005年まで出生率は落ちてきて、今、徐々に回復しているんですけども、この勢いをそのまま維持したらどうなるかって、先月試算したんです。 そうすると、2・07になるのは、大体2050年の半ばなんですよ。 そのぐらいのスピードです。 去年までのでいくと、2040年頃。 いずれにしろ、今のペースでは、21世紀の半ばにならないと2・07ってのは取り戻せないと思いますね。 よっぽど、無理をしなくちゃいけない。 


その無理をするとどうなるかというと、とんでもない話で、国は、女性はもっと社会に進出して、いろんなトップとか代議士とか教授とか、30%、管理職のような仕事を占めなさいというのを目標にしている。 その一方で、もっと子ども産んでくださいね、と。 これ、大変な話ですよ。 まあ、ただ、これ、どうすべきかというのは、女性自身、あるいは夫婦、家族にまかせるべき問題であって、自然のままで、むしろいいのではないかと、私は、今、思っているんですけれどもね。 でも、まあ、神奈川県にいくと、また違ったこといわざるをえないかもしれませんが…。 



高田


なるほどねえ。 実際に政府は、このまま人口減少が進めば、自治体の20%ぐらいがなくなってしまう、などと言っているようですが、そんなふうになるほかないのですか。 というのも、たとえば江戸時代には、日本の人口が3000万程度だったのに、ちゃんと人口は全国にばらまかれていたんでしょ。 ですから問題は、人口が過剰に都市部に集中したことにあるのであって、それを政策的な誘導で再分配すればいいのやないのかなあ。 


だって現在、大都市の人口維持力は確実に低下しています。 東京にだって、ちゃんとした仕事はなかなか見つからないわけですし……。 それに対して、農業や林業や漁業などに労働力が移動しうるような産業政策を採用すれば、都市から離れた農山漁村地帯に新しい産業を興すルことは不可能ではないような気がします。 


必ずしもすべてが奏功しているわけではなさそうですが、たとえば藻谷浩介さんの「里山資本主義」といった考え方などには、大きな可能性があるように思います。 


さあそこで、先の梅棹さんの文明の発展段階説を別の視点で敷衍すると、つぎのような見方ができませんかねえ。 それは、「文明の段階が一段階あがると、直前の時代の基幹的な仕事が遊びになる」という法則性です。 実際、狩猟採集社会では、狩猟や採集は生存に必要不可欠な仕事でした。 それが、農業社会に推移すると共に遊びに変化します。 ついで工業社会が始まると、農業の真似事としての園芸が遊びになる。 そして今日、情報産業社会への推移が始まると、工業生産の真似事としての物作りや手仕事が遊びになっている。 東急ハンズやロフトなどという流通業は、工業生産の真似事のための道具や素材を売っているじゃないですか。 


むろん農業も、都市では遊びとしての資質を獲得し始めている。 農業というよりは園芸に近いのでしょうが、都市生活者の間に広がっている家庭菜園などは、その一例です。 それに諸外国の例を見ると、例えばドイツで消費される野菜は、10%が「クラインガルテン(市民農園)」で作られているのだと言われます。 日本でも、こうした趨勢が広がっているように思うのですが……。 もっとも日本の都市とその周辺には、潤沢な土地がないためか、なかなかドイツのようには行かないようですね。 実際、土地を借りてする家庭菜園には、結構な金がかかる場合があるという話を聞く機会もすくなくないようです。 



末原


でも、都市でも、農業ができる時代なんですね。 そこら中、ビルの上、マンションの横でもできる。 育てるというのは面白いんですね、植物は。 手をかければ報われる。 人間関係の場合は、そうはいかない。 やっぱり、ぼくらの青春時代から見ても、農村から都市に出てくるエネルギーというのはあって、惹きつける都市的な何か、文化といいますか、食べ物であったり、音楽であったりまあ、そういうものが都市にあったわけですが、それが、日本中に広まってしまった。 米山俊直さんがいった「都市列島日本」ですね。 どこに行っても都市的な生活スタイルが入っている。 別に、農村の子は里山のことをよく知っているわけでもなく、塾に行ってゲームを楽しんでいる。 だから、逆に、農漁村的な生活ってものがありうるだろう。 


ぼくは、大学の先生になって、夏休みというのがすごいモチベーションだったんですが、だんだんなくなってきましたね。 なぜ、日本の社会には夏休みがないんですかね。 フランス人なんて、バカンスがありますよね。 何はともあれ、どこか違う所に行って、都市的な生活とは違うことをやっている。 



高田


そうそう、フランス政府は1980年代に、それまでの「青少年・スポーツ・余暇省」を解体して「自由時間省」を作りました。 で、従業員にきちんと自由時間を保障しない企業にさまざまな規制をかける。 同時に、そうして生まれる自由時間の受け皿として、地中海沿岸のラングドック地方に巨大なリゾートを開発した。 結果、人々の自由時間が増え、余暇産業が発展し、失業者が減少したわけです。 



山極


日本でもやろうとしたんですけどね、「産休」を取れ、特に、父親にとらそうとしたんだけど、ほとんど実現していない。 しかも、夏にまとめて1周間以上休み取りなさいといってるんだけど、自分の代わりがいない、ということで難しい。 企業では、営業を止めるわけにもいかず取れないというのが現状でしょうね。 



鬼頭


江戸時代の伝統を引き継いで、明治、戦後にそれぞれ形を変えながら、非常に労働集約的な生産にあった社会を作ってきたわけですよね。 それが、今までの日本を支えてきた。 それと集団主義っていうのがあって。 今の余暇の問題でいうと、日本人は、集団性っていうのを重視するのか、一人一人が勝手に休むっていうのを非常に怖がるし、取らせない。 だから、国が率先して休みを作っちゃうわけですよね。 8月に「山の日」を作るとか…。 



山極


しかもね、(日本人は)余暇を、一人では過ごせないという悲しい現実がある。 



鬼頭


それでね、先ほどの高田さんの図に触発されたわけではないですが、きのう急きょ入れたグラフです。 (資料)人口が減ったらどうなるかという話なんですよ。 これ、縄文なんですが、小山修三さんが都道府県別に推計されているんで、それをベースにして、人口の分散度を計算してみたんです。 それぞれ都道府県の面積と人口との関係で、どれぐらい人口が集中しているかを見ました。 ハーフィンダール指数ってのは、これを引き出してやるんですけども、これは、企業の集中度を示す時に、経済学者がよく使う指標なんですが、何通りかの方法でやるんですけど、パターンはみんな一緒です。 どういうことかっていうと、この棒が長いところは集中度が大きいんですね。 短いのは、集中度が低くて人口が分散するっていうことなんです。 



縄文時代っていうのは、人口が減るんですけども、今まで集まっていたところの人口が減るわけですから分散していく。 西日本の方から、人口が入ってきたり、あるいは、気候が悪くなった時、西日本は減らない。 むしろ、増えていて、分散化が進んでいく。 これが、縄文ですよね。 弥生から、奈良、平安、その末期ですけれども、あまり変化は大きくないですが、奈良の時期と比べると、人口が増えていく時代は集中度が増していくんですけども、停滞、減少の時代には分散していく。 それから、江戸時代もそうなんです。 これは、1600年に1200万人という数字を使っていますし、近畿のウエートが高過ぎるかもしれません。 ちょっと異常な伸びのように見えますけれども、平安末、鎌倉初期にくらべると、集中度が増したということは言えるんですね。 ハイフィンダール指数だと、もうちょっと穏やかに見えます。 ところが、人口が頭打ちになって停滞していく幕末にかけての時期になると、むしろゆるやかに分散が進む、あるいはもう集中しなくなっていくんですね。 だから、人口減退期っていうのは、地方が次の発展の種を秘めて元気なってるというか、まあ、中央がダメになっているということかもしれませんけれども、まあ、そういうことが言えると思います。 


ところが、現代はですね、2000年までで計算したんですけれども、これ、集中度が増えてるんですよ。 きょうは、わざと載せなかったんですけれども、国土交通省で、実は報告したんですが、その時には、30年先の将来推計は、もっと中央に集中するんですよ。 もっとも、それは、日本創世会議が、「消滅可能性都市」なんてことをいってますが、今までの推計の仕方が、非常に単純に、過去の人口移動のトレンドを将来に伸ばしただけの話ですから、当然、大都市の集中度は伸びるに決まってるんです。 だから、ちょっと先までは描けないんですけども、ちょっと頭打ちになってきてるんですよ。 但し、日本の場合には懸念がありまして、これ、今年発表された都道府県間の人口移動の転入超過数ですけれども、東北では宮城、首都圏では、埼玉、千葉、東京、神奈川が人口を引き寄せています。 それから、名古屋、大阪、福岡、それと行きたい人が多いんですね沖縄。 それ以外は、みんな放出ですよね。 減少しています。 


これ、世界の他の国と比べてみると、かつて、ソウルの一極集中が異常といわれたんですけども、今は、東京です。 1960年、70年ころから、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマはもう安定しているんですよね。 ところが、東京はまだまだ人を集めているんですよ。 国連の調査ですから、東京というのは首都圏で、東京と千葉、埼玉、神奈川の3県を入れてるんですね。 これがまだ増えていくだろう。 この調査でも、現に、7万人も東京だけで吸い寄せているわけですから、やっぱりこれ異常なんですね。 


だから、人口の分散をはかる。 その中でどうやって、人口が減っていく社会の中で、土地、国土を利用していくかっていうことで、アイデアを出していかなきゃいけないだろう。 もし、出生率が2・07に戻っていくとすれば、高齢化の方はね、必ず落ち着きますよ。 今よりは高い水準だけれども、高齢者はこれ以上増えなくなります。 出生率をあげれば済む話だが、これだけはダメなんですね。 つまり、人間の意識、目をどうやって地方に向けさせるか、です。 まあ、里山資本主義の話が出てましたが、私も、あのアイデアはいいと思ってるんですが、地域主義をどうやって使うかっていうことですよね。 






山極


では、そろそろ、フロアから意見をいただきましょう。 質問とかありましたら、どうぞ。 



麻植 茂(未来を創る財団事務局長)


今まで、人口減少のことをずっと、昔から現在のところまで一緒に論じてられたけど、昔の、例えば飢饉で減少した時って、お年寄りと赤ちゃんというようなところが減って、人口構成としては、働き手というか、生き生きしている年代の割合は、逆に、増えたと思うんですよ。 今の見方って全然違いますね。 もう増えるのは終わったっていう話なんですが、若い人が、本当にずーっと減っていっている。 年寄りは、まあ、これから少しは減るだろうというお話なんですけど、人口構成から見たら、これからは働かなくてもいい時代、というのはどうでしょう。 若い人が、お年寄りを食べさせるためにどれだけ働かなければならないか。 「これからは、遊んで」なんていうことは、私、ちょっと話が違うのかなと思います。 


それから、もう一つ。 グローバル化の中で、なんで、日本、あるいは、ヨーロッパやアメリカなど文明国が、人口問題の指標になっていくのか。 インターネットの世界では、もう、世界中、ほとんどイーコールです。 要するに、一人一人の人間の価値っていうのは同じようになってきていて、これからもどんどんそうなっていく。 そしたら、人口が減っているというが、世界的に見ると70億人ですよ。 これからも、どれだけ増えていくか。 この圧力はどんどん増していく。 その中で、日本が一定に人口を保ったとしても、お年寄りが圧倒的多数を占めて、これからどうなっていくのか。 そういう点が、今まだの議論では聞けなかったので、お考えがあればお願いいたします。 



麻植 茂(京都大学基礎物理学研究所准教授)


ちょっと関連して、人口の中身ですね。 つまり、人口構成としては、健康な方ばかりではなく、病んでいる方がいらっしゃいます。 最近は、鬱という精神を病んでいる方も増えています。 だから、人口の数ばかりでなく、その中身が重要な要因の一つですね。 もう一つは、明示化された原因にばかり注目が集まっているように思います。 例えば、食糧、医療、エネルギー生産、疫病とかです。 しかし、現実には、目に見えないいろんなものがあります。 化学物質汚染、放射能汚染、電磁波汚染に代表される人工的な汚染因子です。 それがどのように人類や生命に影響しているか。 例えば、化学物質汚染の場合は、シーア・コルボーンやレイチェル・カーソンの本で紹介されていますように、既に、野生生物で、卵を抱かなくなった親鳥がいるとか、卵自身が孵化しないとか…。 山極先生のご専門ですが、動物の社会はどうなっているのか。 動物の社会が、人間の未来のひな形になっているかもしれない。 そういう点でご意見をいただければと思います。 



村瀬 雅俊(未来を創る財団事務局長)


ちょっと関連して、人口の中身ですね。 つまり、人口構成としては、健康な方ばかりではなく、病んでいる方がいらっしゃいます。 最近は、鬱という精神を病んでいる方も増えています。 だから、人口の数ばかりでなく、その中身が重要な要因の一つですね。 もう一つは、明示化された原因にばかり注目が集まっているように思います。 例えば、食糧、医療、エネルギー生産、疫病とかです。 しかし、現実には、目に見えないいろんなものがあります。 化学物質汚染、放射能汚染、電磁波汚染に代表される人工的な汚染因子です。 それがどのように人類や生命に影響しているか。 例えば、化学物質汚染の場合は、シーア・コルボーンやレイチェル・カーソンの本で紹介されていますように、既に、野生生物で、卵を抱かなくなった親鳥がいるとか、卵自身が孵化しないとか…。 山極先生のご専門ですが、動物の社会はどうなっているのか。 動物の社会が、人間の未来のひな形になっているかもしれない。 そういう点でご意見をいただければと思います。 



五十嵐 敏郎(金沢大学大学院生)


私は、19世紀から20世紀にかけては、極めて異常な時期だった、と思います。 というのは、非常にエネルギー密度の高いエネルギー資源が開発されて、利用されてきた。 なおかつ、それに加えて、中世小氷河期からの幸せな回復過程で温暖化が進み、農業生産にもプラスに働いてきた、と。 どこかでターニングポイントになるのか、これが不明なことで、そのあたりをどういうふうに考えればいいのか。 


例えば、エネルギー資源一つ取ってみても、急激に、指数関数的に増加してきた傾向が今後も続くのか。 一方で、今後はエネルギーの質が低下して得られるネットのエネルギー量が減少するという説もあります。 それから、気温の問題にしても、2000年以降、上昇は止まり始めているという説もありますので、そのあたりが、人口のこれからの、まあ、いうたら、今までの異常な時期がどういうふうに修正されてくるか。 私自身は、多分、自然にある水準になってくると思うんですけども、問題は、それまでの過程に、いろんな意味のアンバランスが生じている。 それをどのように整合していくかということです。 世代間、地域間のアンバランスなど、いろんな意味のアンバランスをどう調整していくのかということが、一番大きな問題じゃないかなと思っています。 



山極


はい、ありがとうございました。 3人の方からご質問いただきましたけれども、まず鬼頭さんからお答えをいただきましょうか。 



鬼頭


はい、全部に的確にお答えできるかどうかわかりませんがませんけれども、まず、最初に、高齢者の問題。 社会の中での生残のしかたということですけれども、これは大きく変えていかなきゃなんないと思います。 きょうは、主に、人口の規模だけを問題にしたんですけれども、もしかしたら、これは、山極さんに補強してもらうのがいいかもしれませんね。 生物の種としてのライフサイクルってのが、非常に大きく変わった。 つまり、長寿化したってことが一つありますよね。 縄文から江戸時代、大正期、昭和戦前期、1950年と2010年の最新の年齢別生残率というものを取って見てるんですけれども、もう、今、65歳まで生き残れるっていうのは9割くらいいるわけです。 そういう社会の中で、高齢者の健康寿命というのも伸びているんだといわれていますし、もう、今までのような60歳で還暦、65過ぎたら年金いただけますよ、という時代ではないだろうと思いますね。 これを、どう、考え方を変えていくのか。 人間の一生の、ま、ライフサイクル、あるいはライフコースってのをどうしていくのかってことも、併せて考えていかなきゃいけないだろうというふうに思っています。 


これは、あくまでも平均値ですけれども、結婚年齢、子供の数とか、成人年齢とかをベースにして、結婚してから、子育ての期間にどのぐらい時間を取られているのか、その後、夫婦だけになった時間はどれぐらいか、現在だと65歳ですが、夫が60歳で退職してから老後の時間がどれぐらいあるか、を示した図なんですけれども、(資料)みんなが長く生きられるようになったと同時に、一人一人の結婚してからの期間の内容も大きく異なってきている。 ここの部分をどう使うかということだと思うんですね。 で、フランスあたりだと、定年は延ばしたくない。 1年を通じてのバカンスというのもあると同時に、人生の上でも、定年後は、自分の時間なんだと。 自分の趣味をいかしてゆっくり遊んだり、悠々自適の生活を送りたいんだという考え方があるんだけれども、じゃあ、日本でもそれで通るんかという問題ですよね。 高齢者という定義の問題、それから、いろんな年齢の階層の人たちが、その社会の中でどう支えあっていくかということで、また、新しい概念というものを出していかないと、社会的に大きな負担が、ずっとのしかかって来ると思いますね。 今、それは動き始めているんだろうと思います。 まあ、端的にいうと、年金を何歳から支給するかとか技術的な話になっていますけれども、もっと、その、生き方を見直すっていう考え方に変えていかなきゃなんないだろうと思っていますね。 これが一つです。 


次、世界人口との関係なんですけども、70年代は、人口がまだ30億から40億人へいくという時代でしたから、今から比べれば半分ぐらいの規模だったんですけども、それでも大騒ぎをしていたわけですね。 その中で、日本は、人口をむしろ減らすのが世界に対しての貢献だていうふうなことを言っている研究者もいました。 新聞なんかも、そういう論調で書いていたと思います。 さっきのご指摘の中で、(人口問題を)国のレベルで考えるってのは、果たしていかがなものかというお話がありましたけれども、私も、そういう考え方でいけば、一つの地域の人口がなくなってしまうってことについて、当事者としてどう考えるかは別として、世界的に見れば、ある意味では貢献かもしれない思います。 しかし、現に、国家というものが存在しているし、国境ってのもあるし、生活の単位が国というものである以上、その一つの地域社会を安定させるということは、どうしても必要なんじゃないかと思いますから、やっぱり、とりあえずは、何人を維持しなきゃいけないって考えはないんですけれども、人の移動も含めて、日本の人口を安定させることは必要だろうと思っています。 



山極


村瀬さんからの質問もありましたので、私が補足しますと、人間というのは、「多産高齢社会」をずっとやってきたんです。 今、初めて「少子高齢社会」という時代を迎えています。 多産であることと高齢化っというのは、非常に強くリンクしてきたと思います。 これを、ずっと有史以前からやってきた。 これが、他の霊長類と比べると、大きな特徴です。 ただ、少子社会は、人間に近い類人猿に、みんな共通です。 寿命が長いというのが、新しい事態なんですよ。 子どもを生き延びさせるためには、自分を生き延びさせなくちゃいけないってのが人間の生活史戦略になったからなんです。 普通は、トレードオフになっていて、自分の代わりに子どもを生き延びさせるというのが、普通の生きものの戦略です。 それと全く違う戦略を、人間は作ってきた。 これが、一つの人間の繁栄の理由だと思いますけれども、人間がこの戦略を取ってきたがために、自然がかなり撹乱されています。 急速に絶滅する動物が多くなっているわけですね。 「人間圏」というものを今、考えなおさなくちゃならない。 最近、日本政府は、「人間と自然の共生圏」という考え方を打ち出してますけれども、里山復活の話もそうなんですが、生活の組み立て方ってのを変えようという考えが出てきています。 新しい時代に入り始めたといえるのではないでしょうか。 


それから、19世紀から20世紀は特殊な時代、「ターニングポイント」だったという指摘がありましたが、高田さんいかがでしょう。 



高田


端的にいうと、この100年余りは、人間がその体外で、べらぼうなエネルギー消費を始めた時代だと言っていいのではないですか。 実際、現代日本人が体内に摂取しているエネルギーは、せいぜい2000キロカロリー程度です。 それに比べると、照明や移動、調理や空調などのために体外で消費しているエネルギーを合計すると、なんでも体長30メートル以上の恐竜が食糧として消費していたエネルギーと同じぐらいになるんだそうです。 で、こうしたエネルギー大量消費型の動物は絶滅していったわけですが、人間の方は未だ生き延びている。 これって、もしかすると異常なことなのかもしれません。 


しかも、そんな時代に、日本の時の政府は今なお、ひたすら産業生産性を高めようと試み得る。 安倍さんがどんな将来イメージを描いているのかは不明ですが、これまでの産業発展と同じ方向で生産性を高めようなどという試みが奏功するはずがありません。 


こうした、将来への適切な展望のないまま、従来型の教育を受け、仕事をさせられたりしていると、うつ病やら何やら、頭がおかしくなっても不思議はありません。 


そこでフランスやイタリアなどの産業政策を眺めてみると、ワインやファッションで外貨を稼ぐわけでしょ? そのために彼らは国家政策として、「オシャレはカッコイイ。 ワインのもカッコイイ」と、まず世界に向けて、みずからの文化を輸出し、その上で、それに感応した日本人を始め、世界の国々の人々に向けて、それら高価な品を売りつけてくるわけです。 


じゃあ、日本は何を売ればいいのか、となると、まず役人や産業人から出てくる声は「新幹線」……でもね、4、5分おきに発車して、ものすごいスピードで、まったく遅れることなく運行する鉄道へのニーズなんて、日本を除いて世界中の先進国にあるのですかねえ。 


そういう意味で現在という時代に、いったい世界では何が求められているのかということを考えてみる必要がある。 こういうことを考えるに際しては、私たち年寄りも一定の貢献ができるかもしれない。 それを参考にしながら、若い人たちが新しい時代に求められるものやことを構想し、創り出す。 本日のディスカッサントの皆さんに刺戟されて、そんなことを考えてみました。 



山極


はい、ありがとうございました。 では、これからは、ワールドカフェに引き継いで討論したいと思います。 きょうは、鬼頭さんに人口と経済、それからインフラ、そして人間の生き方など、歴史を踏まえながら未来を話していただきました。 これを基に、「新しい21世紀づくり」というAGORAのテーマもございますから、これから日本社会はどうなっていくのか、どうなっていくべきか、「人口」をキーワードにいろんな側面から討論していきたいと思います。 





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