活動報告/クオリア京都
クオリアAGORAスペシャル/~専門家とは何か?~〔第一部〕
「専門家とは何か? FUKUSHIMA から考える」
日時:平成25年3月28日(木)18時~21時
会場:京都大学百周年時計台記念館百周年記念ホール
はじめに...
【MC】 今回は、「専門家とは何か? FUKUSHIMA から考える」をテーマに、原子炉の暴走を防ぐためになぜ海水注入をしなかったかを検証するとともに、専門家とは何か、どう専門家を育てるかを考えていきます。 開会に先立ち、まず京都クオリア研究所所長の篠原総一よりご挨拶申し上げます。
篠原 総一
〔京都クオリア研究所長 同志社大学大学院経済学研究科教授〕
きょうは、クオリアAGORAスペシャルとして、表題のテーマで討論を行っていただきます。
当研究所では、昨年来、「クオリアAGORA」という集まりをやっておりまして、研究者、企業の方、大学院生、市民の方に来ていただき、毎回長時間にわたり、プログラムにもしておりますように、文字通りカンカンガクガクをやっています。 特に、この1年は「科学と社会」の関係をめぐって、いろんな分野の研究者に来ていただき、いろんな話をしてまいりました。
本日は、その今年度最終回です。 第1部では、原発事故直後、専門家がどういう役割を果たしたかなど検証し、第2部ではもう少し広い立場から、社会にとって専門家とはどういうものであるか、特にアカデミズムの立場からの専門家ということについて話し合っていただきます。 では、よろしくお願いいたします。
【MC】 続きまして、ご来賓を代表して京都大学総長の松本紘様よりご祝辞を賜りたいと思います。
松本 紘 〔京都大学総長〕
本日は、この京都大学で、質の高い議論をしていただくこと、うれしく思っております。 多くの市民の方にもご来場いただき、大学としてもありがたいと思っております。 そうそうたるメンバーの方が集まわれ、いろんな議論が繰り広げられることを期待しておりますが、第1部では福島原発事故の総括。 第2部で、大学にはより関心の高い専門家とは何かという議論もしていただけるとのことです。 これは非常に難しいんですけれども、科学、あるいは専門科学者、技術者、専門家、アマチュア、プロフェッショナル、スペシャリスト…いろんな言葉で語られるのですけれども、学問を進める上で、それぞれ分化していって、それぞれの専門を深く研究をされるというのが、学問の世界における専門家です。
第一部のリンクでいいますと、福島原発の事故のような大きな社会的な現象が起こりますと、特化したところで研究をしている専門家はどう対応したのかということが問われます。 これは、重要な問題で、学問のあり方そのものにも大きな疑問を投げかけることになります。 これは深いテーマでありまして、チェルノブイリの事故に関連して、佐々木力先生は科学と技術について論じておられますが、今回はこれに加えてマネジメントの問題があるのではないかということが、きょうのプログラムには書かれております。 これは十分に議論する価値があります。 科学者は細分化された専門の中でしか、成績、業績を上げられず、しのぎを削るわけですから、当然広い視野をどうしても失いがちになります。 そこを乗り越えようというのが今回の根本的な問いではないかと私は思います。
人間はどこに行くのかいうということも含め、この京都大学で、幅広い議論が行われますこと期待しております。
【MC】 ありがとうございました。 それでは、進行役を同志社大学の山口栄一教授にお願いして、第一部を始めたいと思います。 山口さん、お願いいたします。
【第一部】 総括!FUKUSHIMA~なぜ海水注水をしなかったか?
山口 栄一 〔同志社大学大学院総合政策科学研究科教授〕
みなさま、こんばんは。 同志社大学の山口栄一です。
まず、きょうのパネリストをご紹介申し上げます。 私の右から、北澤宏一・科学技術振興機構顧問。 福島原発事故独立検証委員会委員長でいらっしゃいます。 それから、菅直人・元総理大臣。 事故当時は、原子力災害特別措置法第15条に基づく原子力災害対策本部長でいらっしゃいました。 そして日比野靖・北陸先端科学技術大学院大学副学長。 2011年3月12日21時より深夜まで官邸におられて、民間人として菅総理のアドバイスをされていらっしゃいました。 なお、国会事故調査委員会の黒川委員長にも出席のお願いをしましたが、国会事故調としては委員全員で調査しその結果をすでに公表しているので、委員長の立場で発言することはないと出席を辞退されました。
ここで、クオリアAGORAのルールにしたがって、たいへん僭越ではありますが、みなさまを、「さん」付けさせていただきます。 どうかお許しください。 あらためまして北澤さん、菅さん、日比野さん、京都にまで足を運んでいただき、討論にご出席いただいたことに深く感謝申し上げます。
さて、この第1部:総括!FUKUSHIMA~なぜ海水注入をしなかったのか、では、これから約1時間、みなさんとともに、壮大な謎解きをしたいと思います。 その謎とは何か、といえば、「なぜ海水注入しなかったのか」ということです。 この謎のありかを示すために、10分間だけお話しさせていただきます
福島第1原発は津波に襲われた直後から暴走をはじめたわけではありません。
3号機では、1日半。 2号機では、3日間も原子炉は冷やされていて、その制御可能な状況において可及的速やかに海水を注入していれば、両機とも炉心溶融はせず暴走を食い止められました。 2号機と3号機は結果的にそれぞれ1号機の2.8倍および2.5倍の放射能汚染をもたらしたので、海水注入をすみやかにしていれば、福島の放射線被害は6分の1で済んでいたのです。
なぜ海水注入をしなかったのか。
この謎解きをするにあたって、原子炉の配管構造を理解しておきましょう。
原子炉は、燃料棒すなわち炉心を格納する圧力容器から出て戻ってくるこの主蒸気ラインがだめになってしまったら、ECCSと呼ばれる非常用炉心冷却系が働いて、この炉心が水から決して露出しないようにします。 ECCSは、まずこの高圧注水系HPCIでもって復水貯蔵タンクから水を圧力容器に入れます。 さらに圧力容器をくるんでいる格納容器の下にぶら下がっている圧力抑制室の水をCSポンプでもって汲んで、圧力容器に入れます。
ところが、今回の事故では、このECCSは非常用電源が喪失してしまったので、バッテリーが生き残った3号機をのぞいては、動かなかった。 原子炉の設計エンジニアは、ECCSが動かなかったらいきなり原子炉が暴走するような、ばかげた設計はしていません。 ちゃんと最後の砦を付けていました。 それが、このRCIC、隔離時冷却系です。 これは、圧力容器の水蒸気を取り込んでこのタービンを回した後、水蒸気を圧力抑制室に導き水に戻す。 そして今度は圧力抑制室の水を、このタービンにくっついたポンプで汲み上げ、圧力容器に入れる、というものです
3号機も2号機も、このRCICは地震の直後に手動起動し、津波後もちゃんと動いていました。 その結果、3号機では1日半、2号機では3日間、炉心は冷やされていました。
以下、そのグラフをお見せしたいと思いますが、その前に、この図の要点をおさらいしておきます。
それが、この図です。 重要な物理量は、3つ。
第1に、原子炉の水位です。 この原子炉の水位は燃料棒つまり炉心の頭をゼロとして測ります。 そこでもしこの原子炉水位がプラスだったら、炉心はちゃんと水に浸っている、つまり原子炉は制御可能の状態にあるということを意味します。 いっぽう原子炉水位がマイナスだったら、炉心の一部が露出してしまっている。 すると炉心は崩壊熱でもってただちに数千度以上に発熱し、炉心が溶融して放射性元素が水の中に出てきます。 だから、原子炉という技術の経営にとってもっともプライオリティが高いのは、原子炉水位を絶対にマイナスにしないということに他なりません。
第2に、圧力容器の圧力です。 圧力容器の耐圧は83気圧。 ちょっとしたガスボンベです。 ただし83気圧を超えないように、逃がし安全弁SRVというのがついていて、65ないし75気圧以上で中の水蒸気を自動的に逃がすようになっています。
そして第3に、格納容器の圧力です。 格納容器の耐圧は、3.8気圧。 自転車のタイヤ内の圧力程度です。 耐圧を超えると格納容器が爆発して半径250キロ圏内、東京を含む東日本は人が住めなくなりますから、そうならないようにベントを手動で開けます。 ただし、原子炉水位がマイナスになってからベントを開けると、炉心溶融で出てきた放射性物質がまき散らされます。
以上の予備知識をもって、3号機はどのように制御不能になったのかを見てみましょう。
この図は、横軸が3月11日正午から3月14日夜の24時までの3日半にわたる時間。 縦軸が、3号機の原子炉水位です。 この灰色のラインに沿ったデータをご覧ください。 すると、3号機は3月13日午前4時ころまで、原子炉水位がプラスだった、つまり制御可能だった、ということがわかります。 その時間領域をうすい空色で示しています。
3号機のRCICは地震の直後の15時5分から3月12日11時36分まで21時間弱、働いた。 作業員がRCICを手動で止めてしまったのですけど幸いなことに圧力上昇を感知してHPCIが12時35分に自動的に起動。 というのも、3号機は唯一非常用バッテリーが水没せず生き残っていたからです。 このHPCIは3月13日2時44分に手動で停止するまで、14時間働いた。
というわけで、約36時間、RCICとHPCIのおかげで原子炉水位がプラスに保たれました。
次に、3号機の圧力データを見てみましょう。
赤いデータが圧力容器の圧力。 目盛は左側です。 また青いデータが格納容器の圧力。 目盛は右側です。
この赤いデータからわかるように、安全弁SRVが働いているおかげで、圧力容器の圧力は決して75気圧を超えていません。 ここでHPCIが自動起動。 HPCIの冷却能力はRCICの10倍程度ありますので、圧力容器の圧力はぐんぐん低くなります。 そして3月12日の夕刻以後、なんと8気圧程度にまでに下がるのですね。 もし3号機のRCICおよびHPCIが動いて原子炉が制御可能であったこの36時間にも及ぶ青い時間領域において、可及的速やかに海水注入がなされていれば、原子炉が暴走することはなかった。 3号機の炉心が溶融して放射線被害を出すこともなかった。 とりわけHPCIが動いて圧力容器が8気圧程度だった12日夕刻から13日2時44分までは、海水注入が容易にできたはず。 なぜ制御可能の状況下において、海水注入がなされなかったのだろうか。 これまでに、さまざまなチームが事故調査報告書を出版しています。 最終報告書について申し上げると、最初に出版されたのは、手前味噌ではありますが、私が委員長を務めたFUKUSHIMAプロジェクトの報告書FUKUSHIMAレポート。 2012年1月30日。
以上のグラフも、このFUKUSHIMAレポートの中に詳しく記載されています。 2番目に出版されたのが、北澤さんが委員長を務められたいわゆる民間事故調の報告書。 これです。 2012年2月27日。 3番目が、2012年6月20日の東電事故調・報告書。 4番目が、7月5日の、国会事故調・報告書。 5番目が、7月23日の、政府事故調・報告書。 そして6番目が、大前研一さんの報告書「原発再稼働・最後の条件」 。 2012年7月30日。
まったく不思議なことに、この青い時間領域において、なぜ海水注入がなされなかったのかについて、FUKUSHIMAレポートを除いてはどの報告書もまったく何も述べられていません。 これ、私の勘違いもあるかもしれませんので、北澤さんから後でコメントをいただきたいと思いますが、つまり、私たちの報告書以外は、どれも、誰が過失責任を負うかについて、何も触れていないということです。
しかし、私たちは、ついに東電の経営者自身が故意に海水注入を拒んだ可能性があるという真実を突き止めるに至りました。 画面の吹き出しで簡潔にまとめておりますが、つまり、 菅総理は「次に打つべき手はないのか」と関係者に質しており、傍らにいた日比野靖氏は、「海水注入を今すぐにやらないのはなぜか」と東電に尋ねています。 ところが、東電の経営者は海水注入を拒んだということなのです。
そこで、パネルに入りたいのですけれども、まず日比野さんにお尋ねしたいと思います。 日比野さんは菅さんに請われて自宅から官邸に向かわれまして、3月12日の21時、画面でいうとちょうどこのころ、官邸にお入りになり、菅さんにお会いになっています。 その時の官邸の中の様子を、お聞かせ願えないでしょうか。
日比野 靖
〔元内閣官房参与 北陸先端科学技術大学院大学副学長〕
その日の午後、官邸の方から電話で出てきてほしいというお話がありました。 しかし、私は全く素人なものですから役に立たないと思いましたし、また、前日、震災の後、帰宅難民となって中央大学の学舎で足止めをくらっていて、とてもくたびれてもいましたのでお断りをしました。 しかし、再三にわたって電話がかかってきて、これはどうしても出なきゃならないなと思いました。 官邸に着いたのは、多分9時過ぎだったと思います。 ところが、そこですぐに菅さんにお会いできたわけではなく、その時、ちょうど菅さんは東京電力や原子力安全・保安院、原子力安全委員会の方々と協議されている最中だったのです。 それで、お会いできたのはその協議が終わった後で、私が総理の執務室の方にうかがいまして話をしました
その時、菅さんが最初にいわれたことは「東電、原子力安全・保安院、原子力安全委員会の専門家たちのいうことがバラバラで、しかも、次に何をするのかと聞いても、具体的な提案が全くない」ということでした。 それで、菅さんご自身が3者のいっていることがうまく理解できていないのか、あるいは、いっていることが本当にバラバラなのかもう一度聞いてみようということで、菅さんが、3者の方を執務室に呼び入れられたのです。 その時には、よく登場される東電の武黒一郎フェロー、安全委の班目春樹委員長、保安院の寺坂信昭院長というようなみなさんは、ほかの場所に移っておられ、私が実際に話をしたのは、東電の原子力品質・安全部長、安全委の委員長代理、保安院の次長の方でした。 そこでいろいろ説明を受けたのです。
菅さんは最初から、よく事故の本質をついた理解をされていて、実は、HPCI とかRCICとかそういう専門的なことは、私もそうですが、必ずしも十分理解はできていなかったのかもしれませんが、要するに冷却の方法として水をぐるぐる回しているだけなので、いずれは温度も圧力もどんどん上がっていくはずである。 従って次に何をすればいいのかということを、常に主張されていました。 それで、その時には、既に1号炉は水素爆発はしていましたが、2、3号炉は、先ほど山口さんの説明にもありましたように、安定していた状態なわけですね。
それで、その時に、なんで今、ベントをやって水を入れないのかということを何度か質問をしています。 その質問の中で、いろいろ議論があったのですが、なんでやらないかについて東電の方が、ベントは最後の手段なので、できるだけ温度も圧力も上がってからやったほうが、エネルギーを抜くのに効果が高い。 従って今やるのはよくなくて、できるだけ最後にやりたいと説明された。 それを聞いて私はなんだか腑に落ちないものを感じたのですが、まあ、理にかなった説明だなと理解して引き下がってしまったわけです。
山口
わかりました。 では、菅さん、もし補足されたいことがあればコメントいただけないでしょうか。
菅 直人〔元総理大臣〕
専門家に一番程遠いのが政治家でありまして、総理といえども専門家ではありません。 それで、きょうのこの場にふさわしいかどうかと思いましたが、是非にということでありましたのでやってまいりました。
私の場合は、常に、まさに専門家であるべき東電の原子力担当、保安院あるいは安全委員会の担当、そして、日比野さんは原子力の専門家ではありませんが、そういう科学技術や後に参与になっていただいた原子力関係の専門の方とかに、電話等でいろんな意見やアドバイスを聞いておりました。 ま、そう言う意味で、その中の一つが、先ほどの日比野さんのお話であったんですが、日比野さんと私は、学生時代から縁がありまして、ちょうど直前に、この事故がなくても科学技術の関係で参与をお願いしたい旨話していました。
それで、こういう事故にあたって、私と一緒に、私の耳や目、いや、外付け頭脳になっていただきたいという思いでお願いしました。 ですから、内容的なことは、日比野さんのいわれることについては、その意見が、私自身、正しいか正しくないかを考えていたんじゃなくて、そういう意見があるなら、東電なりのしかるべき人と話をしてみてくれということで、先ほど日比野さんがおっしゃったように、官邸に来ていただき、東電、保安院、安全委の人とお話をしてもらったのです。
山口
ありがとうございます。 本質論から考えると、ベントと海水注入をする-ベントをすることで熱が逃げます。 海水注入をすることで冷やされます-これは本質的に、物理学的に正しいんです。 ところが、それを(東電は)拒否する。 この辺のことを、もし、民間事故調のお立場で参加願った北澤さん、コメントがありましたら具体的によろしくお願いします。
北澤 宏一
〔民間事項調査委員会委員長 前科学技術振興機構理事長〕
民間事故調は、時間的経緯の詳細については権限を持って調べることができず、東電にはインタビューを拒否されましたので、政府と国会の事故調にお任せしたという経緯があります。 しかしながら、そういう中でわかってきていることで申しますと、12日の午後には、1号機が水素爆発を起こしている。 ちょうど、地震が起こってからまる1日経っていたんですが、このことが、関係者にものすごいショックを与えていた。 そういう状況の中で、先ほど山口さんが話してこられた一連のことが起こっています。
皆さんもテレビで見られてご存知のように、班目さんはとってもフランクで正直な人ですから、「水素爆発なんか起こるわけがない」といっておられた。 世界のほとんどの人が、その時まではそう思っていた。 しかし、日本のこの事故が、まさに、水素爆発ってものが起きてしまうのだということを、実験的に示した初めての例になった。 みんな予想もしなかった事態にものすごいショックを受けて、腑抜け状態になってしまっていた、と私は見ています。
そういう状況の中で、1号機が水素爆発を起こしても、それでおしまいじゃないですから、いよいよ危なくなってきたんですね。 水素爆発が起こって、誰もが思ってもいなかったメルトダウンが起こっていることがわかってきた。
それで、とにかくなんとか手当を、とやっていて、この問題となっている3月12日の午後にですね、1号機に水を入れるんですが、同3時ごろには、防火水槽の淡水がなくなっちゃっているんですね。 もう使い切って、あとは海水しか残っていない。 それで、海水は、先ほど山口先生がおっしゃったように、「海水だけは入れたくない」というのが、原子炉を守っている人たち、経営をしている人たちの常識です。 海水を入れてしまたら原子炉は終わり。 人々の安全は守れるかもしれないが、経営的にいえば自分たちは終わりだと、そういう認識を持っていた。
だから、なるべくだったら海水をいれないで、淡水を循環させる手段で、だまし、だましやっているうちに、その間に電源が復旧してくれないか、と期待していた。 そんな中で、本店と現場とのやりとりがあって、どうしたらいいかと考えていた。 現場的には、海水を入れたりベントをしたりとか、そういうことをちゃんとやれるかということは、それまで練習とかやったことがなかった1号機の爆発の時には、大丈夫だと思っていた3号機が、そのうちに急速に悪くなっていった。 まだ、東電は大丈夫だと楽観している状況の時に、菅さんが見えられたのではないか。
菅
ちょっとだけ、もしかしたらいろんな報道で混乱されていることがあるかもしれませんので、今、パネルでテーマになっているのは、2号機、3号機の海水注入についてです。 今、北澤先生がおっしゃった海水注入は、1号機なんですね。 それで、1号機は地震の翌日の昼頃から淡水が入って、淡水がなくなった後海水が入るとなった時、一部の報道は海水が入ったのを私が止めたとか、安倍総理はブログで「万死に値するから、すぐやめろ」と私がいったと書かれています。
しかし、実は、1号機は、その後の調査で全部明らかになっているように、11時過ぎに海水注入が始まった。 しかし、その時点では、私に連絡は来ていません。 そして、武黒さんが、まだ官邸との話が終わっていないから止めろといったが、現場の吉田所長は「自分は止めろというが、絶対に止めるなよ」と部下にいい含め、会議で芝居をうち、注入を続けたという経緯を、5月の20何日かに、吉田所長自らおっしゃっています。 ですから、1号機に海水は12日の11時頃からずっと入っていて、私が止めろといといったのは間違っていますし、止まったというのも間違いです。 メルトダウンはもっと前で、今の調査では11日の夜です。 今の北澤先生のお話では、1号についても経営者としては海水を入れたくなかったということですが、少なくとも、私自身はもう淡水がなくなったら当然、海水を入れるべきと思っていましたが、2号、3号もそうだったと。
山口
きょうは、1号機の話はしません。 実は、東電からリアルタイムに官邸に送られていた情報が官邸のホームページで公表されているのですが、1号機に関してはその情報が間違っていたことを、2011年5月15日に東電が発表しています。
それで、3号機公表されたデータでは議論しにくいのです。 の話に戻りますが、すでに申し上げたように、原子炉の技術経営にとってもっともプライオリティの高いのは、原子炉水位を決してマイナスにしないということですから、東電の経営者が「最善を尽くして、ベントしてありったけの水を入れろ。 水がなかったら海水を入れろ。 壊しても構わない」と現場に指令を一本出しておけば、現場は命がけで海水を注入したことでしょう。 ところが、東電の経営者はそうはしなかった。 日比野さんが先ほどおっしゃったように「ギリギリまで待ちたい」といい、北澤さんのお話では海水を入れたら経営的には終わり、プライオリティが低いという考えがあったようです。 これについて、日比野さん何かコメントがありましたら。
日比野
その時は、非常に限られた情報の中でのことだったのですが、最近になって、「福島原発で何が起こったか-政府事故調技術解説」(淵上正朗/笠原直人/畑村洋太郎著)という本が出ています。 その中でちょうど、12日の深夜から13日の明け方にかけて、3号機のHPCIが止まるころですが、13日の午前6時に、官邸5階では海江田経産大臣と班目安全委員長らが意見交換を行っていたのです。 その時「海水を注入すると廃炉につながる。 淡水はまだ残っているから大丈夫」という意見が出たことで、淡水の残量状況などを問い合わせるということが載っているのですが、この時期でも、まだ海水注入をしていないわけです。 これ、政府時事故調によって明らかになっていることです。
山口
ありがとうございます。 3号機について、ほかにどなたか意見はございませんか。 では、次に2号機についての議論に移りたいと思います。
この図は、3月11日12時から3月15日0時までの、2号機の原子炉水位の時間変化です。 この図から分かるように、 3月14日の13時22分まで約70時間、RCICが働き続けたおかげで、2号機の原子炉水位は、ずっと+4メートルを保っています。 なぜこんなに長い間、RCICが働き続けたかはよく分かっていません。 もしかしたらRCICのサイクルのどこかに外からの海水が入ったからではないかと推測する方もいらっしゃいますが、これは今後の調査に待たねばなりません。 とにかく、RCICが約70時間にわたって冷やし続けたということを、頭に入れておいてください。
次に、2号機の圧力のデータを示します。 赤が、圧力容器内の圧力で、目盛は左側。 青が、格納容器内の圧力で、目盛は右側です。
この図から分かるように、圧力容器の圧力は、65気圧以下で、逃がし安全弁SRVがちゃんと働いていることが分かります。 その代わり格納容器の圧力は、SRVが開くたびに上がり、3月13日の午後、耐圧を超えたことがわかります。
また、3号機が3月14日の11時に水素爆発して消防車や注水ホースが破損して、注水手段が絶たれてしまった。 さらには、2号機はベントに失敗します。
ントをしなかったにもかかわらず2号機の格納容器が爆発しなかったのは、不幸中の幸いで格納容器のどこかに穴が開いたために中の圧力が急激に下がったからだとされていますが、そのために2号機からの放射性物質の放出は最大となってしまいました。
しかし、日比野さんが官邸の菅さんの傍らにいらっしゃった3月12日午後9時ころは、格納容器の圧力は2気圧程度。 十分に低い。 ベントの必要はありません。 ここで逃がし安全弁SRVを手動で開き、圧力容器の圧力を8気圧以下に下げて、さっさと海水を注入しておけば、2号機が物理限界を超えて炉心溶融を起こすことはありませんでした。
この時点で、やはり「早期にベントだ、ベントをして、海水注入しろ」という判断をしていれば、2号機は救われていたわけです。 ところが、東電の経営者はこれを拒んだ。
先ほど、日比野さんから、東電の川俣原子力品質・安全部長に「なぜ、海水注入を今すぐやらないのかと」とお尋ねになったら「ベントは最後の手段なので、できるだけ温度も圧力も上がってからやったほうが、エネルギーを抜くのに効果が高い。 従って今やるのはよくなくて、できるだけ最後にやりたい」と説明されたというお話をうかがいました。 日比野さんは、その後、変だと思われながら13日、自宅にもどった後、水の素性を調べられ、実は臨界圧を超えた水蒸気は、水と同様1グラム当たり1カロリーしか熱を吸収できないということを知り、官邸にすぐ電話され、2号機について「すぐにベントで圧力を抜き、海水注入すべきだ」とアドバイスされたということなんですが、日比野さんいかがですか。
日比野
実は、いつというのがはっきりしないのですが、そういうことを総理にお伝えしました。 すると、菅さんも「やっぱりそうか」とおっしゃったのですが、ただ、「これは専門家のアドバイス、判断でやっていくことなので」ということで、結局時間的には間に合わなかったのです。 このあたりのところを見ますとですね、実は、政府事故調の報告書の方でいうと、3号機の爆発が14日に起こっているんですね。 で、その関係で、まだ2号機の方は対応すれば間に合ったのですけれども、3号機で爆発が起こって、そういうこと(2号機のベント)がいっさいできなくなった。 そういう事故の連鎖の問題があったとは思いますが、もっと早くベントを決意していれば2号機、3号機は十分救えたはずです。
山口
ありがとうございます。 菅さん、いまの日比野さんのご発言について、補足の説明はありませんか。
菅
今のお話でもわかるように、並行して1号から、場合によっては4号のプールまで含めて動くわけです。 しかも、来る情報は、ある時点では1号から、3号、2号という具合で、私はすぐに、官邸で秘書官に、1~6号、最終的には第2サイトの1~4号、さらに使用済み燃料プールが第1で7つ、向こうで4、全部リストにして並行的に書き入れていく。 つまり並行して物事が起こって、実際、細かいことは資料を見ないとわかりませんが、さあ、そろそろ水を入れようとか、海水にかえようとかなんかやってたら、ボーンと爆発して、準備していたホースが破損したり、線量がバーンと上がって、また変更しなけなければならなかったとか、そういうものがいろいろ交錯しました。
北澤
2号機が、一番危ないと思っていたようですけれども、結局は、1号機と3号機が予期せぬ形で急に様態が悪くなって、水素爆発を起こした。 その間、2号機は、どうも違う挙動を示していた。 それで、一番ダメだと思っていた2号機が、持っているからということで、1号機、3号機に手当が行って、そうしたところ、14日になってからの急に2号機の様態が悪くなって、お昼前から水位が低下した。 これで「さあっ」という感じになったわけですけども、やっぱり、「さあっ」という状態になってから、いろんな手当が始まっている。
「さあっ」という状況にならなければ、とにかく「海水は入れないんだ。 原子炉を助けたいんだ」、というわけですが、これ、わからないわけでもない。 海水を早く入れすぎたら、最初から入れてしまったら、みんなから馬鹿にされます。 原子炉は一基あたり2000億とか4000億円の価値、それがなくなってしまうわけですから。 それで、引き伸ばして電源復帰を待ちたいすことと、しかしながら、メルトダウンを起こしてしまって迷惑をかける可能性の比重を考え、どこで手を打つか、その手を打つべきタイミングが、実は、わかっていなかったと思います。
菅
その見方はありえたと思います。 しかし、官邸でですね、東電とか安全委員会との話の中で、少なくとも政治家グループは、東電の経営のことは関係ない。 とにかく水を入れるしかない。 それが海水だろうが真水だろうが、水を入れるという考えは一貫していました。
山口
この後、2012年の5月28日、国会事故調が、菅さんを事情聴取します。 私はこれで、すっかり国会事故調への信頼を失いました。 ざっと読んでいただきたいと思います。
ここにかかげているのは、事情聴取を行なった野村修也委員とそれに答えた菅さんのやり取りの記録です。 読んでいただくと分かりますように、野村委員は、物理学を修めた日比野さんを、「専門家ではない」と断じているわけです。 例えば、「現場は、日比野氏からの電話で初歩的な質問を受けたことに、仕事の邪魔だったと発言している。 現場を第一に事故対応するという基本的原則から考えて問題があったと考えないか」という具合です。 随分失礼な言い方ですね。
これに対して、菅さんは、誘導尋問に乗らずに巧みに振り切っています。 これに野村さんは、少し切れまして「まさに飛行機が墜落しそうになっていて、コックピットで墜落を防ごうと精いっぱいの対応をしている時に、電話はかけない」なんていう、たいへんヒステリックなことを語って、暗に日比野さんをおとしめているわけです。 野村さんは法律家、弁護士さんですが、彼の中には、「原子力工学科を出て原子力に関わっていないと専門家とはいえない」という固定観念があるのだと思います。
そこで、きょうのテーマなんです。 つまり「専門家とは何か」というテーマです。
このスライドをご覧ください。 いま、まさに議論したように、野村氏のいう「専門家」ではない菅さんと日比野さんは可及的速やかにベントして海水注入をすべきだと主張した。 ところが 、野村氏のいう「専門家」である東電の技術経営の代表者は、これを故意により拒んだ。
技術経営の第1原理、すなわち「技術は物理限界を超えてはならない。 超えてしまうと、原子炉は暴走して溶け、飛行機は失速して墜落し、列車は遠心力に負けて転覆してしまう」という原理を、東電の経営者は理解していなかった。 それは、もはや経営者として怠慢、刑法上の過失です。
私たち日本人は、社会を俯瞰できない、そして社会に対して責任を負えない専門家ばかりをつくってきたのではないでしょうか。
言葉をかえて申し上げれば、分野横断的な課題が立ち現われた時に「知の越境」をしながら、あるいは「回遊」しながら課題を解決できる人間を、如何にすれば養成できるかということに帰着するわけです。 閉鎖的な「村」をどうしても専門家は作ってしまいます。 それをスペシャリストと呼びますが、そういうスペシャリストの養成ではなくて、社会にきちんとコミットメント-覚悟と責任-を持つようなプロフェッショナルを養成するには、どうすれば良いか、こういう問いかけが私たちの前に突きつけられているわけです。
科学は深く細分化されました。 文化系の人間は決して理科系のことに口をださない。 理科系も同じです。 なんかそんなふうな、いわば越境できない、回遊できない現代社会になってしまったのだろうか。 このままでは、まったく同じ事故がまた起きます。 第2部で、そのような未来への構想の一環として、「専門家とは何か」について、話し合っていただきます。
では最後に、第一部のパネラーのみなさんから一言ずついただきたいと思います。
日比野
今回の12日の夜、冷静に物事を判断して決断していればこんな結果にはならなかった。 これは後で十分理解したわけなんですけど、実は、12日が終わった後、3号炉が爆発した事象を受けた後、12日の夜になぜもっと強く主張できなかったかということがひとつの悔みとなっています。 それから、そのことは、後で、国会事故調で、法律家の方から質問を受けています。 なぜ、そのことに総理も私も気づいていながら、強く、総理の権限でそういうことを実行するように命令できたのではないか、何故しなかったかと聞かれたのですが、私は、そういうことをする権限が私にはあったと思えないので、法律が専門の方としてはおかしな質問ではないか、と答えたことを記憶しています。 ま、本当に、強く主張すべきことを主張できておればと、悔やんでおります。
北澤
この件に関しては、正直、日比野さんや菅さんを私どもは、専門家だというふうには思ってないということがあります。 それで、その時、海水をどの時点で注入すべきかまで含めて誰が判定すべきかという時に、私は官邸はもっと後ろの方から大局的に構えて、それで、いろいろいう人たちを、東電の経営者などをみんな前においてですね、みんなの意見を聞きながら、決定していくのを見守るという姿勢が本来の姿だったのではないか、そんな感じを持っているわけです。
もちろん、最終的にはそれを判定する人は国民、あるいはそれを代表する政治家ということになるのですが、あまりにも早くから首相が入り込んでいってしまうと、かえって物事が決定しにくくなる。 そんな面があったというふうに見ていました。 国家の危機の時には、国家のリーダーが現場に行った時に、国民の方を向いて「われわれ政府が全力を挙げて対処しますから」といって、ミクロに今何が起こっていて何をすべきかということについては、現場に任せて、みんなの意見を聞くということでやっていく方がよかったんじゃないか。 それが民間事故調の意見でもあります。
やはり、菅さんもいろいろやられたわけですけれども、そのなかで、国家のリーダーたる人がやらなければならないことをいくつもやられました。 たとえば、撤退を食い止めるための努力や、統合本部の設置などです。 しかし、あまりにも細かいところに入り込んでいき過ぎてしまうと、首相が本来果たすべきこともやれなくなってしまうのではないかという危機感をわれわれ持っていたようなところがあります。 あえて今申し上げます。
菅
北澤さんがいわれることは、一般的にはその通りだと思います。 総理というのは、例えば厚生労働大臣が下にいて、財務大臣が下にいて、それぞれ部下には医療とか年金、税金など各専門家がいます。 総理が本部長になることになっている原子力災害対策本部の事務局は、経産省エネルギー庁の中にある原子力安全・保安院ということに法律的になっています。 だから、そこがきちんとやれば、そこからのアドバイスなんかで、総理、これでやってくださいということで進んでいきます。 ところが、象徴的によくいうんですが、最初にやってきた保安院長の寺坂さんは、あんまり良くわからないんで、あなたは原子力の専門家ですかと聞いたんです。 すると「いえ、私は東大の経済学部を出ています」という。 次官ポストですよ。 事故がない時には優秀な人でしょうが、しかし、いってみれば消防署の署長で、火事を消す現場の総責任者がですね、ホースを持ったことがないというのと同じです。 それで翌日から来なくなって、次長が来たが、これも電気の人でよくわからない。
それで、3日目になって、別の部門から安井さんという京大の原子力を出た人が来て、やっと、普通の意味で、私たちよりよっぽど専門家だということがわかりました。 ですから、それと、班目さんはもう一人の責任者です。それから、東電の武黒フェロー。 どういう判断をしているかわからない。
こんなわけで、初日、二日で一番怖かったのは、日比野さんが紹介してくれましたが、私のところに、今こういう状況だからこうしたほうがいいとか、こういう危険性があるからこういうことを考えてくれといってきた部下は一人もいません。 その時に、黙って座って待っているということがですね…。 もうちょっというと、ご存知のようにオフサイトセンター、そこが結局そこには集まれず、一度も機能しません。 そこに現地対策本部ができて、副大臣がいってそこで地元と一緒になっていろいろ検討していろんなことが上がってくるはずでしたが、何も上がってこない。 待っていたら1週間かかったでしょう。 だから、目の前にいる東電、安全・保安院、安全委員会やそのほかの専門家の話を聞いたのです。 私は、必ず専門家の話を聞きました。 このように、一般的には北澤さんのおっしゃる通りだが、今回のことについては、こうやらざるを得なかった。 初日に、確かに現場に行きました。 行くのは、おかしいといわれたが、行かなければ、吉田所長にも会えていません。 何が起きているかわかりません。
北澤さんから、国家のリーダーとして少しはやったが、と評価していただきましたが、一つは、東電が撤退するという時に、それでは困る。 チェルノブイリの10倍もの放射性物質が出るという判断のもとに、「統合対策本部」を作ったことです。 これは、法律上の規定はありません。 しかし、東電だけに任せておいてはなんだかわからないので、東電の中に作ったのです。
それと、日比野さんがいわれた指示命令のことですが、逆の意味で非常に重要なことです。 私は率直なところ、総理が命令できたかというのは、そのレベルまで命令することはさすがに適当ではなかったろうと思っています。 法律的には、実は指示ということがあります。 自治体への指示、大臣への指示です。 今回、東京都から消防を出してもらえるように、石原さんにお願いしました。 しかし、それが命令とか指示ができたかというのは法律上にはありませんで、今回は指示しました。 そういうぎりぎりの規定なんです。 ちなみに、これからの新しい規定は、自衛隊の命令は総理しかできませんが、大部分のことは専門家が決めるというのが、今度の原子力規制庁の仕組みになっています。
北澤
まさに、いわれたとおり思います。 あの時足りなかったのは、国家の危機の時の情報がどうやって集まって行くかという、そこの基本でした。 菅総理が東電を訪ね、そこでは情報をテレビ会議を使って情報を皆が共有できる形であげているんだとわかった。 そういう情報の太いパイプというのが日本の国家には存在していなかった。 情報が上がってくる仕組みがなかった。 だから、あの時にも、情報が上がってくる仕組みに手を付ける方が早かったのではないか。 それとも、日比野さんのような信用できる人をそういう情報を集めるところに派遣して、そこから情報を集めることにするのが早かったのか。 それとも、一体、情報をどうやって集めるように危機の中でできたのか、これがとっても大きな問題であったというふうに感じております。
菅
まさにその通りです。 ただ、人事まで絡むんですよ。 人事までいじると、事故が起きてからこの委員長は適切じゃないから変えましょうとやったら、それだけで3日や一週間そこらすぐかかりますよ。 それで、北澤さんもよくお分かりだと思うんですが、今回の事故は起きた原因、うまく対応できなかった原因は、ほとんど3.11前にあります。 それはもうお分かりだと思います。 例えば、先のオフサイトセンターには5キロ以上逃げるという想定がないから、地図がないんですよ。 10キロのところまで。 とにかく、全てがシビアアクシデントは起きないという前提なんです。
私、よく話すのは、福島第一原発のあるところのあの高さは、元々海面から35メートルの高台だったのを海面から10メートルまで切って、これで「先見の明がある」と東電の出身者が書いている。 それから、アメリカの9.11の後に、テロによる電源喪失を検討して、原子力安全・保安院から人が行って話を聞いているにもかかわらず、「いやあ、アメリカでテロは起こるかもしれないけれども、日本でテロは起きないから、電源喪失なんて考える必要ない。 停電したって30分以内でもどる」と、考えるな、考えること自体を否定しているんです。 そういう状況の中で、事故が起きてから体制を変えて間に合わせるということは不可能です。 やっぱり、前の段階できちんとやっておかなければならなかったことができていなかった。 そういう意味では私も政治家として責任があると思っています。
山口
みなさん、どうも大変ありがとうございました。 この後、少し休憩をはさみ、この討論を踏まえ第2部に移りたいと思います。