活動報告/クオリア京都

 


 

 

第9回クオリアAGORA 2016/コンファレンス



 


 

スピーチ

ディスカッション

コンファレンス

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コンファレンス(意見交換会)



クオリアAGORA恒例のワールドカフェですが、今年度最後ということで、参加者も交えての意見交換を行いました。 「律」は社会を構成する規範でもあり、研究者だけでなく企業人らも多くの気づきを得ました。

 

荻野NAO之 (写真家)


では、この辺で参加者の皆さんから発言をうかがい、議論をさらに深めてまいりたいと思います。 まず、どなたか、何かご質問ありますでしょうか。



三木 俊和 (大阪経済大学大学院)


佐々木先生にお聞きしたいと思います。 先生のレジュメの中に、「長いスパン、七代先」っていうふうに書いてあります。 これ、私も、昔、親が「七代先まで祟る」とか、よく言っていたことが記憶にあるんですが、これ、なぜ、七代なんでしょうか。 それと「輪廻転生」って言葉があります。 これについて先生はどう思っておられますか。



佐々木 閑 (花園大学文学部教授)


「七」というのは、特に根拠があって書いたのではなく、「先々ずっと」といったくらいの意味なんです。 でも、「七」という数字を仏教ではしょっちゅう使います。 それは、例えば、曜日ですね、日月火…。 あれも、もとを辿れば起源はインドですから。 そういう意味では、「七」の倍数で数字を表すってことは普通なんです。 あるいは、人が死んで、次に生まれ変わるまでの間に「中(ちゅう)有(う)」といいまして、どこかふらふらしている時がある。 この間が「四十九日」なんです。 これ、七七=四十九なんです。 場合によっては、女性は「三十五」っていうから、まあ、これは七五=三五です。 そういうこともありまして「七」は普通に使いますね。


輪廻転生は、インドの釈迦の時代には、社会通念として、みんなが当たり前のことだと思っていた現象です。 必ず生まれ変わってくる。 それで、仏教以外の宗教は、生まれ変わるからいいんだと言うが、仏教は生まれ変わるから悪いんだと言うんです。 それはなぜかというと、今、死ぬのが辛い、死に向かってだんだん衰えていくという、この状況がまた繰り返されるわけです。 そして、救世者、救世主がいませんから、終わらない。 いつまでも、あなたが歳をとって病気になるという苦しみは、永遠に繰り返されますがそれでいいんですかというのが、仏教の問い。 だから、仏教の目的はそれを止めること。 生まれ変わらないことが一番幸せなんです。


この、天の神々に生まれたり、地獄に生まれたりを繰り返すという輪廻の思想は、今の時代の人間は誰もほとんどの人が信じないだろうし、私も信じていません。 だから、その点では、釈迦の教えは、現代のわれわれには合いません。 ただ釈迦は、その輪廻を止めるための方法が、自分の煩悩を消すことだというのです。 つまり自分の心の中に苦しみを生み出すような要素を自分の力で消すと、輪廻が止まるという。 だからわれわれにとっては、輪廻が止まるか止まらないか、そんなことはどうでもいいんです。 輪廻をわれわれは信じていませんから。 つまり、その前のステップとして、煩悩を消すための具体的な方法を、釈迦はいっぱい取り残してくれている。 これが、今のわれわれにとって役に立つ一番のポイントです。



辻村 知夏 (京都市立芸術大学)


何で人が間違うのかということに興味があります。 明らかに間違っていることを何だか信じちゃっている状況というのがなぜよく起こるんでしょうか。



佐々木


簡単に言いますと、なぜ人が間違うのかというのは、仏教が一番問題にするところで、なぜ、われわれは間違ったものの見方をするのか、っていうのが釈迦が突き詰めたポイントなんです。 原因を突き詰めて、その、最後の答えは「自分中心にものを見る」からと言いました。


先ほども言いましたように、釈迦の世界観は、因果則、縁起だけで動く機械的な世界観ですから、そこに人格的な思惑は一切ないんです。 だから、その世界の中に自分を中心にとか、自分の都合のいいことが起こるはずがない。 ところが、われわれは、常に本能として自分を中心にして、その周りに自分の世界を作って、現象は自分に都合よく起こるに違いないと思っている。 そうすると、思惑と実際に起こってくることの間に、ギャップが起こり、これが苦しみの元になるということです。 だから、そういう意味では、なぜ間違うんだということに対しては、それは、釈迦が一番追究したことであって、答えは、物事を自分中心に考えるからだとというのが答えです。



大西 信徳 (京都大学農学部)


ぼく自身、農学部森林科というところにいまして、研究より実学に近いもので、何か問題があって、それに対してどういう手段が考えられるかみたいなことをやっています。


ぼくは、高校生の時、環境問題というのともうひとつ進化生物学に興味があったんです。 それで、理学部に行くか農学部に行くべきかで悩んだわけです。 どっちに行くかを考えた時、ぼくが思ったのは、理学部に行って、自分の探究心に従って学ぶというのは何のためにもならない。 人のためにも自分のためにもならない。 どっちかと言うと、農学の方が何か実用的でためになるんじゃないかと考え、農学部を選んだわけです。


で、悟りの境地、悟るというのは、自分のためで何のためにもならないっていうのがわかっていてもやる。 研究もそうだと思うんです。 それで、研究されている方にうかがいたいのは、そのモチベーションというか、研究をしていることが何のためにもならない、どこかで無駄なことをしているのではないかと思ったりすることはないでしょうか。 それから、もうひとつは、悟りを得るところから、得ようと頑張ったけどもそこから逃げてしまう、そういう人たちのために何か仕組みというか、釈迦の教えみたいのがあったんでしょうか。



高橋 淑子 (京都大学大学院理学研究科教授)


私自身は、血の一滴まで理学部的な人間だと思っています。 たとえば、J・ワトソンとF・クリックがDNAの二重らせんを見つけた時、あの人たちは、がんを治そうとか、何かの役に立てようなんてことは考えていなかったはずです。 とにかく遺伝の正体は何かということを見つけたかった。 やっぱり、人類を動かしてきたのは徹底的に「curiosity」だったはず。 強烈なcuriosityが何かを生み出し、何かを発見し、そして○○がそこについてくる。 私のような研究者は、24時間研究に没頭する人生を送っているわけですけど、これは、誰かに強いられているわけじゃない。 やりたいからやる。 気がついたら、夕食食べるの忘れてたとなるわけです。 そいうところからこそ、ほんまもんの発見が出てくる。


やりたいと思う人が、やりたいことをやればいいんだと思う。 それに対して、他人からやれ無駄だとかなんとかって色々言われることもあるけど…。 でもこうでないといけないってことはないと思う。 「なんで、そんなあほみたいなことやってるんですか」と聞かれれば、「自分のあほさに酔い痴れているわけです」と答える。 あまり理屈はないですね。 で、私が見出したことが、将来いつか産業界の役に立てば、ハッピー。


人間の大きな特徴のひとつは、徹底的な知的欲求を持っている動物ということなんですね。 だから、「幸せになりたい」という欲求の中に、「やりがいのある仕事を見つけたい」があり、「賢くなりたい」がある。 とにかく面白いことを見つけてうれしがる。 私たちは、こういう強烈な本能を持っている。 そういう知的欲求に対して、科学はきっちりと応えなければなりません。 これこそが、究極の社会的貢献です。 究極の役に立つというのはこういうことだと、私は信じます。



山口 栄一 (京都大学大学院思修館教授)


付け加えますと、だから、科学をやっている人たちっていうのは、自分の中からモチベーションが生まれるので、それがなくなったら、聞くまでもないですね、やめる時です。



高橋


「死ぬ時」やで。



山口


高橋さんが今おっしゃったように、科学者は、研究をやりたくてやっているわけです。 で、それは、悟りを得たいという行為と非常に似ていると思います。 だから、釈迦の悟りを得た時の歓喜っていうのは、科学者が何かを発見した時の歓喜と全く同じものです。 全く同じなんですけど、ぼく、きょうのお話を聞いて、ちょっと目からウロコだったのは、釈迦は、同時に社会システム、サンガという社会システムを作っちゃうわけです。 それで、世間というか、そこに入っていない生産活動している人たちの間にインタラクションのメカニズムを作った 。 これ偉いと思います。


ところが、科学者は、それを作っていないんですよ。 そこがねえ、科学者の厄介なところで、科学者が評価され、偉くなっていくシステムは、科学者の中でしか評価されないんですよね。 社会とのインタラクションなしに出世できちゃうんですよ。 ここが、科学者システムの厄介っていうか、不十分なところで、このために、科学者は、社会と断絶しても生きていける状況が生まれちゃった。 それで、原発事故の時には、科学者が隠れてしまって前に出てこないとかね。 そういう問題が出てくる。 だから、きょうのお話を聞いて、科学者はちゃんと社会とインタラクションをする場を作らなくちゃいけない。 そうして自分の思いを社会に伝えて寄付(お布施)をもらうシステムを作らなくちゃいけないなと思いました。





高田 公理 (武庫川女子大学名誉教授)


今の話を聞いて思い出すのは、ニュートリノの研究でノーベル賞を受賞した小柴さんの言葉ですね。 彼は繰り返し、「私の研究は役に立ちません」という意味のことを言ったわけですが、ぼくは「そういうことは言うたらあかん」と思うわけです。 というのも、何か新しいものを作り、それを売って金儲けをすることだけが「役に立つ」ということではないからです。 現代という時代は、「へえー、そんな面白いことがあったんか」という話題を提供することが、もしかすると一番「役に立つ」ことかも知れないわけですから……。 そういうことを小柴さんは、まるで分かっていないのじゃないか。 そんな思いを否定できないわけです。 つまり、現代の学者の最大の役割は、「面白いなあ」と思える研究成果を発表することなのではないですかねえ。



高橋


でも、あれはねえ、「役に立つことをやれやれ」と言っている社会へのアンチテーゼとして言われたのであって…。



高田


無論そのことは分かります。 でもね、「これぞ役立つことなんだ」と、研究成果の面白さを紹介すると共に、人間の脳みそを刺激して面白いと思わせることこそ、役に立つことなんやということを言うべきだと思いますね。



佐々木


ただね、それ、本人は言いにくい。 だから、それを周りから言う科学ジャーナリズムの世界がないということが、日本の一番の問題。



高田


はい、そう思います。 さらに付け加えると、たとえば、よしもと(吉本興業)のお笑いなんかも非常に大きな役割を果たしていると思います。 人々を笑わせ、楽しませてストレスを解消することで、もしかすると人々の健康にも貢献している可能性がある。 無論、よしもとのお笑いと高橋さんはじめ、科学者の研究を、同じことだ、などと考えているわけではありません。 しかし、面白さや楽しさの価値をいう点では、たがいに似ているとも言える。 それでええではないですか。



高橋


究極は、役に立つという定義をどうとらえるかっていうことやと思うんです。 これはいろいろあっていい。 人に押し付けるもんでもない。



渡辺 実 (花園大学教授)


佐々木さんとは一緒に仕事しながら、きょうみたいな機会はあまりないよねって言って、参加してみて、いろいろなことが聞けてよかったなと思いました。


それで、質問は二つあって、まず、先ほどの山口さんもおっしゃいましたけど、サンガと呼ばれる社会、共同体をつくるわけですよね。 そういう中で、一番初めにお話があった、日本には「律」がないということ。 そこが日本の社会の一番弱いところかなと思ったりしたんです。 例えば、科学の中でも問題があったりする時、自浄作用っていうのが自分たちの社会の中でできにくい。 あるいは、今の政治の世界でも、汚職みたいのがあっても自分たちで正せないーこうした問題に、律は、大きなキーワードになっているのかなっていうのがひとつ。


それから、もうひとつ。 サンガの中でね、山極さんにもお伺いしたいのですけれども、サンガというのは、ゴリラの世界とは共通項があるんでしょうか。 何か、お互い戦わないような、自分たちの中でひとつのルールを作っているとか。 何かちょっと、そういうような、例えば、貧しさの中とか、必要以上のものは得ないとかね…。 サンガとゴリラの世界との共通点みたいなことを、山極さんの方から教えていただければと思うんです。



山極 寿一 (京都大学総長)


さっき、サンガの中には階層性がない、ボスがいない。 それと、子どもを作らない―これはね、究極的に生物から脱しているんですよ。 放っておきゃあ、生物は、存在しようと思ったら優劣の差ができちゃう。 それをあえて否定しようとするのは難しいんですよ。 それから、家族っていうのは、子どもに関心を持つ。 子どもができちゃうと、子どもに集中してしまうわけです。 だから、それを否定するのも難しい。 なぜならば、ぼくの考えから言えば、人間は、どうしても家族に寄り添ってきたわけですね。 それは、動物の世界ではありえないんです。 家族がバラバラになって独立して存在するか、家族を解体して相互扶助の繁殖集団としての共同体になるか、そのどちらかでしかない。 だけど、人間はそれを両立させるような社会を作った。 その時に、優劣も子どもを作ることも否定するこういう人たちがいなければ、モデルが描けなかったのではないでしょうか。



佐々木


日本に律がないことについて、簡単に申し上げます。 それは、意図的なんです。 奈良時代、日本に初めて仏教を導入した時に、上の権力の意図的な操作によって仏教から律だけが外されたんです。 それは何でかというと、聖徳太子は、宗教集団として日本に定着させるために仏教を入れたわけではありません。 それは、対中国の外交政策として、中国と同じ文化国家であることを示すことによって対等の立場に立つために、日本を仏教国にする必要があったわけです。 仏教導入は喫緊の課題だったんですが、仏教導入するということは「仏法僧」を導入することなんです。 仏法僧が仏教の定義ですから。 仏は仏像ですから、百済から持ってきました。 法は巻物(お経)ですから、それを導入したという証拠が、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という聖徳太子による注釈書が書かれたという伝説です。 ところが、サンガは導入できなかった。 これは、人を連れてくるんですから。 サンガの単位は4人といいましたが、実は4人ではすまなくて、律の決まりもあって、新しいメンバーとしてお坊さんを作るためには10人のメンバーの許可が必要だということになっている。 だから実際には、10人の僧侶をまとめて船に乗せてこないと日本人のお坊さんは作れない。 聖徳太子は「篤く三宝を敬え」と言ったけれど、あれはあくまで理想であって、あの時は二宝しかなかった。 それで、日本は、それがほしくて、人間に来てもらいたくて仕方なかったけども、中国からは、誰も怖がってこない。


結局、ついにその夢がかなったのが鑑真和上です。 というのは、鑑真さんは、自分の弟子を10人以上、一緒に連れてきたんです。 この弟子がいなかったら無意味ですよ。 一人では何の意味もない。 これでもって、仏教導入が完成したんです。 で、さっそく、鑑真さんは国賓ですから、東大寺の大仏殿の前に五色の幕を張って、天皇、皇后をはじめ、そこで授戒の儀式が開かれた。 まあ、これで、日本は仏教国になったわけですけど、時の政府はこの仏教を日本中に広めて、国民を仏教徒にしようなんて露ほども思わない。 これは、外交の手段としての仏教の導入ですから。



高田


ある意味、戦後における民主主義の導入と似ていますね。



佐々木


そうですね。 実は、その時の日本のお坊さんは、全部国家公務員なんです。 その後のお坊さんの日常の暮らしは、全部「律令」を基に生活することが決められ、仏教の律は捨てられました。 例えば、お坊さんの数は1年間に何人って決められました。 国家公務員ですから、やたら増えたら困るわけです。 それで、日本の仏教は、全国の国分寺をブランチに、国家公務員が奈良で働いている国家の活動になりましたから、律は全部意図的に捨てられて、サンガの形成も禁じられて…。 こうなって、一番苦しい思いをしたのが鑑真さん。 それで、東大寺を出て唐招提寺に隠棲したんです。 最後のころは大変つらかったと思います。 この回律もサンガを持たない奈良の仏教が、平安遷都で比叡山に。 そこへ親鸞、法然、みんな登って、初めて鎌倉仏教が広がるんですが、そのあらゆる宗派が、どこも律を持たない。


その後、実は、律を復興してサンガを作ろうという動きは、何度も日本の中であったんですよ。 特に、「律宗」のお坊さんを中心に、まじめなお坊さんたちが何べんもやったんですが、社会の中にそれを支えるお布施のシステムがない限り、サンガだけ作ってもしょうがない。 仏教に理解がないところでは、サンガはできません。 結局、途中でポシャっていって、そうして今に至っています。



高田


今のお話、近代日本において、うまく納税者意識が定着しなかったのと、なんだかよく似ていますね。 税金っていうのは本来お布施でなかったらいかんのや、と思うのですが……。



佐々木


だから、今度、日本の経済成長が終わって、日本の科学がちょっと危なくなってきている時に、このお布施のシステムがないということは、日本にとって大きな痛手なんです。 西欧社会は、神様が見ているからチャリティーをするということがあり、これが支える力になる。



高田


お布施もらって生活している連中が、そもそも、お布施をもらっているという意識を持っていないのも大問題だと思います。



佐々木


日本で、もし、もう一度科学を復興するというんだったら、そういうところから、きちんと説明をしていかないといけないんですよ。 でも、科学者自身はそんなことは言えませんよね。 お布施をもらう側の人間が「なぜ、お布施が素晴らしいか」なんて、そう図々しくは言えない。 だから、応援団が必要なんです。



山極


そうですね、国立大学は自己資金を増やせといっても、これは、もう寄付しかないわけです。 寄付を募れ、と。 ファンドトレイダーを集めて寄付戦略を練れって言ってるわけだけど、なかなかうまくいかないんですよ。



高田


税制の問題もあるようです。 アメリカ社会は、けっして理想的とは言えませんが、それぞれの人に意志で公的な事業に寄付すれば、所得から控除してくれる仕組みを上手に取り込んでいます。 日本では、唯一「ふるさと納税」あたりが、それに当たるのかなあ。



山極


日本は江戸時代から、それぞれの土地の富裕層がお金を出して飢饉に供えたり、大飢饉があったら、自らお金を出してお米を買い集めて配ったりということをやっていた。 そういうのが当たり前に行われていた社会ですね。



高田


そうなんです。 それに加えて全国に240ばかりの藩があって、それぞれの地域を殿様が中心となって経営していたのですが、当時の中央政府であった江戸幕府は、それらの藩から米一粒たりとも取り上げることができなかった。 唯一の例外は参勤交代です。 それは徳川の江戸を、謀反や反乱から守るための軍事行動ですが、これは藩に課せられた唯一の義務だった。 これ以外、江戸幕府は全国の諸藩から収奪することは許されませんでした。 で、各地域に殿様という経営者がいて、彼らの地域自治に伴う経営経験が、明治以後の近代社会における企業経営を下支えしたわけです。 今なお秦の始皇帝の時代と余り変わらない官僚制の体系に支配されている中国の近代化が奏功しないのとは、まるで違うわけです。





辻村


脈のないところにいきなり考え方だけ持ってきても、やっぱり形だけになっちゃうから…。 そもそも、日本の文脈として神道があるのに、なんで、今の学校では、寺と神社の違いも教えないのかという疑問があるんですよ。



高田


寺と神社……そんなに厳密に区別できるのでしょうか。 寺も神社も、およそ8万軒を数えると共に、江戸末期までは互いに仲が良かったわけでしょ? それが幕末から明治にかけて、廃仏毀釈をやった瞬間におかしなことになった。 きょうの佐々木さんの話でいうと、日本の仏教そのものが原初の仏教とはまるで違って「神様・仏様・ご先祖様」――これがセットになって日本人の信心は形成されていたわけですね。 ところが、明治維新を契機に、いわばヨーロッパの一神教の真似をして、神道を日本国家の宗教にしていくという、実に阿呆なことをやった。 ぼくは、あれが、近代日本の最大の失策やと思っているのですが、いかがでしょうか。 仏教と神道の、ちょうどいい加減の関係が、日本人の精神風土にはぴったりだと思うのですが……。



佐々木


それは、さっきの奈良の話ですよ。 あえて、寺と神社をカップルにして全部一緒くたにした。 元々みんなに広がっていた神道に新たに入れた仏教を理解させるためには、二つをひとつにして、神道を信じていることはイコール仏教を信じていることなんだよって説得をする。 それによって、スムーズに仏教が流布されていくわけです。



山極


葬式仏教って言葉がありますね。



佐々木


葬式はね、室町時代とかその辺じゃないかと思いますね。



高田


葬式や墓が庶民の間にまで普及したのは近世半ばのことでしょう。 で、幕末明治の廃仏毀釈以後は、仏教とその寺の経営が、葬式や墓に依存することで初めて成り立つという状況に追い込まれた。 でもね、今後の日本人は、もう葬式もやらなくなるし、墓も作らなくなると思います。 結果、寺の経営は大変なことになるのではないですか。



荻野


話は尽きませんが、そろそろ時間です。 では、最後に、山極さんと佐々木さんにコメントをいただき終わりたいと思います。 今年度のクオリアのテーマは「2030年を未来志向で考える機会にしたい」としておりました。 科学と仏教の関係の中で、それぞれの視点から、きょうのお話を踏まえていただき、2030年に向け、この日本は、どういうところをどう伸ばして行ったらいいのか、何か提言をいただきたいと思います。



山極


さっき、佐々木さんのお話をきいて、科学と宗教の重なるところというのは、やっぱり真理の探究なんだと思います。 ただ、この真理ほど厄介なものはないんですよ。 科学はどういう方法を取ったかというと、人間の五感を精一杯広げる機械を作って、例えば、宇宙から地球を眺めるとか、ミクロの視点から人間を眺めるとかして視野をどんどん広げていって、物的証拠を見せて、それを基に解釈をするということをやったわけです。 だから、科学は合理的でわかりやすいわけですね。


でも、宗教は、エビデンス重視ではありません。 ただ、人間にこだわるわけですよ。 人間そのものにずっとこだわる。 科学をやっても人間はわからないわけですね。 これ、人類学をやっている人たちはよくわかり、その難問に気づく。 いくら科学やっても、人間はわからない。 心のありかすらわからない。 で、さっき、佐々木さんが、死というものを前提にして世界観が変わったっておっしゃいましたが、まさにその通りなわけで、死後の世界はわからない。 死んだ後のことはわからない。 で、自分が、なぜ、この時こういう行動をとったのか、つまり、失敗をなぜするか、それもわからないです。 偶然かもしれないし、必然かもしれないし、科学はできるだけ必然的な解釈をしようとするけど、人間の行動というのは繰り返せないですから、歴史が積みあがるだけなので、そのことについては決して答えられない。 だから、これは、宗教の力を借りないと、人間は安心という次元に至ることはできないわけですね。 それは、おそらくこれから30年経っても変わらないんじゃないか。


ただし、怖いと思うのは、別の人間ができてしまうかもしれない、30年後には。 AIって言葉がささやかれていますけど、つまり、AIをやっている人たち、あるいは、ロボットを作っている人たちがそうですが、もう、人間の中身はどうでもいい。 やってることをそのままできるような存在を作り上げれば、それは、そのまま人間じゃないか、という考えがある。 宗教は、絶対これに納得しないはずです。 なぜならば、宗教というのは、疑問からさきに出発して見えないものの中に真理を見つけようとする活動なんですね。 科学は負けちゃう。 でも、宗教は負けない。 ということは、宗教の方にずーっと引き寄せられていく。 つまり、宗教は人間の不満を、何か象徴的なものを作り出すことによって、ずっと引き付けてきた。 そっちの方に向かう動きとそれから、人間という実体が解体していく方向に二極化して行くんじゃないか、と私は思っています。



佐々木


私は、もっと楽天的な話をします。 将来、日本があるべき姿として私が描いているのは、「働かない人がたくさんいる社会」です。 その代表が、私は「NEET」だと思っているんです。 私の持論は、NEETはイノベーションの源だ、と。 科学者はNEETでしょう。 自分の好きなことだけやっている人が最も新しいことを見出すのは、当たり前のことなんです。 ですから、それが、産業につながるかどうかは別としても、結果としてはつながるに決まっていますけれども、やってる本人はそんなこと思う必要はないので、好きなことだけやればいい。 それを養う社会が、日本に成熟するといいなと思います。


で、京都は、そういう意味では、一番それの先頭を行っている。 なぜならば、1200年間、仕事をしないお坊さんを養ってきた。 だから、科学者は、お坊さんの姿を見習ってですね、仕事をせずに好きなことだけやる生活設計を京都でやる。 そうすると、世界中からそういう人が集まってくる。 あそこへ行けば、自分の好きなことができる。 そうすると、京都から新しい世界が始まる…。 これが私の理想です。



長谷川和子 (京都クオリア研究所)


どうもありがとうございました。 きょうは、今年度最後の「クオリアAGORA」ですが、ご参加の皆さん、始まる前と今とは顔が違うと思います。 相当、スピーチ、討論で刺激を受けて、常に使うのとは違う頭の部分が活性化したと思います。 今後も、新たな「クオリアAGORA」にご期待ください。




≪続きはWEBフォーラムで…≫

 

 

 

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