活動報告/クオリア京都

 


 

 

第8回クオリアAGORA_2013/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

堀場製作所最高顧問

堀場 雅夫 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院理学研究科教授

山極 寿一 氏


同志社大学大学院総合政策科学研究科教授

山口 栄一 氏


劇作家 演出家 大阪大学教授

平田 オリザ 氏




山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)




平田さん、ありがとうございました。 大変内容の濃い、教育、子どもたちのコミュニケーション、そして、世界に向かって日本文化、日本人はどうしていったらいいかなど、かなり広い題材を駆け抜けていただいたと思います。 これからの討議に、テーマは事欠かないんですが、どういうふうに討論して行ったらいいか、難しいなあと感じております。 それでまず、平田さんが最初におっしゃった、今の若者たちの話、若者たちのコミュニケーション、そして私たちが直面しているコミュニケーションの問題と世界、というようなところから進めていったらと思います。 


私は、京都大学の理学部で教員をしておりまして、2年前にですね、ここに心理療法士を入れて「学生相談室」というのをつくり、理学部学生の悩みを聞くことを始めたんです。 引きこもりが多かったり、あるいはコミュニケーション不足で悩んでいる学生が多いと聞いたりしたものですから、そういうシステムを設けたわけです。 そうしたらですね、学生相談室の先生は京都大学の教育学部を出ていますけれども、「理学部の学生は大変特殊ですよ」っていう。 何が特殊なのかと聞くと、自分が経験してきた相談は、他の人とのトラブルが多かったが、理学部の学生は「大学に入ったら友だちができると思っていたけれども、友だちができない」ことが悩みなんだという。 「友だちを作るには、どうしたらいいか」という、考えてもいなかった指導をしなければならなくなった、とおっしゃるんですね。 その先生は一計を案じて、そういう悩みを持った学生を集め、何と京都市動物園に連れていかれたそうです。 その結果、動物を見て、何とか、会話も弾み友だちができたということでしたが、とにかく、これが大学生の悩みかと、びっくりされたそうですが、そういうのが、今の学生の現状だな、と。 


平田さんも、おっしゃるように、中、高と、すごく学問に精を出してきたんでしょうけれども、母親とかの会話しかなく、学校に行ってもひたすら机に向かうだけの人生を歩んできた子たちが、大学に入ってきて、突然放り出されてしまう。 学年も違えば、出身も違う。 趣味も違う人たちと会話しなくちゃいけない。 さて、自分はどういう話をしたらいいのか、ということでまず悩んでしまう。 こういうことが今、日本の社会で起きてるわけですよね。 特に、エリートの社会です。 ちょっと、ぼくはびっくりしました。 これで、たった4年間で社会に出なければならないわけですから、ほんとうに、大丈夫かっていう気がしました。 


その時に思い出したのは、私の師匠で今西錦司という、もう亡くなられた偉い霊長類学、生態学の先生のことなんですけども、ご存知のように、京大山岳部、学士山岳会(AACK)で活躍された登山家としてもよく知られた方なんですね。 今西さんは、山登りに関係する名言をたくさん残しておられますが、そのひとつに「鉄の団結、紙の人情」っていう言葉があります。 これ、どういうことかっていうと、いうなれば「ゲマインシャフト」じゃないんですよね。 「ゲゼルシャフト」でいこうってことです。 つまり、あんまり義理人情ばっかりを当てにして人と組むと、ろくなことが起こらない。 初めからあまり信用せずに、ちょっと距離を置いて、ただし、目的のためには団結をすると。 つまり、一歩間違えば、岩壁から落ちて命を失ってしまいますし、ザイルでつながっているわけだから自分も巻き添えを食うわけですね。 そういう、命をザイルにかけた仲間であっても、これは人情ではないんだと、しっかり頭に叩き込んで山に登れ、そういうことをおっしゃったんだと思います。 


これ、今、平田さんがおっしゃったことと少し似てるかな、と思います。 つまり、信頼っていうのは、あんまりベタベタになると、ろくな結果にならない。 ちょっと距離を置いて、相手と違うんだってことを頭の中にきちんと入れながら、付き合うことが必要なんだということを、今西さんもおっしゃったような気がします。 そういう人との付き合い方っていうのが、昔は常識としてあったんだろうし、戒めとしても、みなさん、わかっていたんだろうと思うんですね。 それを、体感覚でどうやって理解するかが、重要な課題なのかなっていう気がいたしました。 


「伝えたいという気持ち」は、「伝わらない経験」から起こるんだということを平田さんはおっしゃった。 ただ、今の若い人たちを見ていますとね、ブログとかツイッターとか、非常に盛んにやりますよね。 ですから、自分で伝えたいって気持ちは、むしろ強く持っているんじゃないか。 でも、その、伝えるというコミュニケーションの形式が違ってきましたから、昔の、そういうメディアがない時代の伝えたいという気持ち、表現と、今の時代のそれとで大きな乖離があるような気がしているんです。 それについてはどういうふうにお考えになっているんでしょうか。 



平田オリザ(劇作家 演出家 大阪大学大学院コミュニケーションセンター教授)




10年ほど前に、NHKが比較的大きな調査を小学校の先生方にしたことがあって、これ、「話し言葉」に関する調査だったんですが、その時、多数を占めたのが「今の子たちは、しゃべりは大好きなんだけど、話し合いが下手」というものだったそうなんですね。 要するに、チャットとかラインとかツイッターでさえも、おしゃべりであって対話ではないんですね。 実は、特にツイッターとかブログってのは、本来は、対話の場であって、だから、今年(2013年)話題になったコンビにとかの冷蔵庫にはいっちゃうとかありましたが、あの一連のことは、対話の場ということをわきまえずに、仲間内のノリでやってしまったことが問題になったわけでしょう。 だから、若者たちは、あれは、会話感覚で使ってるんで、おしゃべりなんですね。 友だちには、すごく伝えたいんです。 だけど、他者とはコミュニケーションをとりたくないんですよ、面倒くさいから。 


確かに他者とコミュニケーション取るのは、すごく面倒なことなんですよね。 だけど、だからこそ、伝わった時に喜びが大きいと思うんですよ。 よく学生にいうんですが、英語の通じない国に行って、私たちの世代なら、レストランで6カ国語会話帳なんかを開いてどうにかしてメニューから注文し、まあまあ、自分が思ったものに近いのが出た時の喜び。 また、逆に、全然違うものが出てきても、それが意外と美味しかった時の喜びとか、あるんですね。 そういう面倒くささに耐える力、をつけていかなきゃいけないと思うんですね。 それで、ただ喋りゃいいってことではなくって、ただ喋る、うちうちだったらいくらでも喋れるんです、今の子は。 だから、内と外っていうのをきちんと教育の現場では分けて、外に向けてどのように対話力をつけていくかってことが、一番課題だと思うんですね。 これが一つ。 


確かに他者とコミュニケーション取るのは、すごく面倒なことなんですよね。 だけど、だからこそ、伝わった時に喜びが大きいと思うんですよ。 よく学生にいうんですが、英語の通じない国に行って、私たちの世代なら、レストランで6カ国語会話帳なんかを開いてどうにかしてメニューから注文し、まあまあ、自分が思ったものに近いのが出た時の喜び。 また、逆に、全然違うものが出てきても、それが意外と美味しかった時の喜びとか、あるんですね。 そういう面倒くささに耐える力、をつけていかなきゃいけないと思うんですね。 それで、ただ喋りゃいいってことではなくって、ただ喋る、うちうちだったらいくらでも喋れるんです、今の子は。 だから、内と外っていうのをきちんと教育の現場では分けて、外に向けてどのように対話力をつけていくかってことが、一番課題だと思うんですね。 これが一つ。 



堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)




平田さんのお話でなるほどと思ったのは、日本の新幹線のことです。 常々、あんなにすごいのに、どうしてもっと世界中の人は感激しないかと考えていたんです。 これ、まさに、うちの会社も同じで、何でこんな優秀な分析機を作っているのにね、もっと、お客は感激すべきなのに、売ってる先のレベルが、ちょっと低いの違うかと、常に言うてたんですが、まさにこれは、オーバースペックというようなレベルではなく、はあ、これは、なるほど日本の文化やなあてことを、つくづく思いました。 


私のところには、フランスの子会社がありましてね、ここは非常に優秀なものを作っているんですが、故障率が高いんですね。 それで、常に、この故障率はなんやということをいうんですが、どうも、彼らは、故障するということが、われわれの感覚と違うんですね。 社員を通じて間接的に聞いたことですが、故障することによって、お客はこの機械の存在を常に認めるんだ、といっているようなんですね。 全然故障しなかったら、「HORIBA」だろうが何だろうが、動くのが当たり前になって、どこの機械という存在価値が認められない。 しかし、時々、具合が悪くなるから、常にその存在が気になるんだと。 そやから、これ、ヨメさんに似てるんですね。 喧嘩してはじめてヨメさんの存在があるみたいなところもあるので…。 と、これはさておき、まさに、フランス、日本の文化の違い。 平田先生のきょうのお話を聞いて、何やあいつらは、ホンマに価値観がないやつや、と思うことが多かったんですが、なるほど「文化の違い」、といわれると、そういうもんなんやなと、フランスもまんざらやないいう気持ちがしました。 



山極


すごく面白いところを突いてこられたなと思いますが、文化の違いというのは、今おっしゃったような、新幹線の時間差にどのぐらい神経質になるかというのがあるようですが、コミュニケーション能力にも現れますか。 



平田 


そうですね、じゃ、まず新幹線の話からしましょうね。 ご存知の方も多いと思いますが、今、スペインやイタリアの高速鉄道はすごく優秀なんです。 ただね、面白いのが、行った方は経験されたかもしれないですけど、スペインやイタリアの高速鉄道って、3、4分早く着いちゃうんです。 てことは、時刻表がちょっと遅目に設定されているんです。 日本では、そんなことありえないでしょう。 あの頻度で、そんなことがあったら困りますよね。 ただ、早くつくと、なんとなく嬉しいですけどね。 


それと、さらにいうと、これもご存知の方が多いと思うんですけど、日本の新幹線が売れないのは、安全基準を満たしていないんですよね。 要するに、事故、衝突事故が起こらない前提でできてているんです。 震災には強いですが。 見れば一目瞭然ですね。 フランスやドイツの高速鉄道は、ごっついじゃないですか。 もちろん、動かし方が、新幹線は全車両で動かすのに対して、ヨーロッパの高速鉄道は機関車で引っ張り、先頭車両に乗客は乗らないのですね。 とにかく、衝突した時のことを考えて、ものすごく頑丈で重い。 全然、設計思想が違うわけですよね。 


ただ、フランスやドイツのセールスマンだったら、こういうふうについてきますよね。 「確かに、新幹線は事故が起こらないようにできてます。 優秀で、50年、60年、事故ゼロです。 死者ゼロです。 でも、福島の原発は、原発事故が起こらない設計思想でやってて、事故を起こしたじゃないですか。 新幹線も事故起こすかもしれません」と。 こう言われた時、日本のセールスマンはしんどいんじゃないですか。 でも、こりゃもう、思想の問題なんで、ぼくも日本人だから、日本で暮らしてる間は、この1分1秒を大事にする感覚ってのはすごく心地いいんですね。 それはまさにネーションなんです。 ネーションってのは、そこにいる人々にとっては、すごく心地いいんですよ。 でも、一歩外にでると、それを同じように心地いいと思ってくれるかどうかは、わからないってことなんですね。 


コミュニケーションの問題も同じで、要するに、相手が自分と同じとは限らないってことを前提にコミュニケーションをとるのか、相手も大体自分と同じように思ってくれるだろうということを前提にしてコミュニケーションをとるのかってのが、欧米と日本のコミュニケーションの姿の一番の違いなんですね。 



山極


よく携帯でトラブルを起こすっていうのがありますが、要するに、相手と自分とが常に一緒になって会話をしてないとたまらなくて、ちょっと狂ってくるともう何かイライラしてしまう。 こういうのは、欧米ではあまり起こらないトラブルらしいですね



平田


ええ、これも不思議なことで、アメリカのほうが訴訟社会なはずなのに、ネット上の訴訟とかは、人口比でいうと日本の方が多いとされているんです。 ひとつには、これ、言語の問題もあって、日本はアクセントと助詞、助動詞で、気持ちを伝えるんですね。 これ、言語学的にいうと表意語句っていって、話し言葉だとニュアンスが伝わりやすいんですけど、向こうは、基本的に動詞と名詞の組み合わせで気持ちを伝えるので、話し言葉でも書き言葉でも、誤解が起きにくいように、起きにくいようになってる言語なんです。 特に英語はそうなんですよ。 それは、多民族の中でもまれてきたから、民族の違いを越えて誤解が起きにくいように起きにくいように英語は発達してきたわけで、だから味気ないんですよ。 ただ、意味は取りやすい言語なんです。 


日本語は、ほんとにニュアンスに頼る部分がすごく多いから、だから、別の例もあるんです。 あの顔文字ってあるでしょう。 若い子たちがよく使う。 携帯とかに入ってますね。 あれも、アメリカで生まれたんだけど、爆発的に日本で発達したんです。 なんでかというと、顔文字がニュアンスを補ってるんです。 例えば、「ノート貸して」だけだと、ちょっときついから、そこにm(__)m(ペコリ)みたいなのを入れる。 話し言葉だとニュアンスが補えるが、文章だけだと、日本語はきつくなっちゃうから、顔文字を入れたりすることで曖昧さを補ってるところがあるんですね。 どの言語学者もいっていることですが、将来的には、30年、50年すると、日本語も、もうちょっと主語や目的語をはっきりさせる方向に変化するだろうとはいわれています。 特に、敬語とかがどんどん、フラットになっていくので、すると誰が誰に言っているのかわからなくなっちゃうんですよね、日本語の場合。 それで、やっぱり、目的語とか補っていかなきゃいけないように変化するだろうと。 



山口 栄一(同志社大学大学院総合政策科学研究科教授)




とても心地よいお話が聞けたので、逆に議論のとっかかりが見当たりません。 でも、あえて議論を持ち上げるとすると、たぶん最後の司馬遼太郎さんの話かなと思って、そこから出発したいと思います。 


「日本は文化を輸出できても、文明を輸出できる国ではない」というくだりです。 そして「ドイツも、日本と同じではないか」というお話もありました。 でも、ドイツはやっぱり、明らかに文明をつくったと、ぼくは思うんですね。 というのは、科学というのは、文明です。 文明の中でも、最も普遍的なものです。 19世紀の半ばから、ナチスが政権をとる1933年までにできあがった科学を、いまぼくらは一生懸命勉強しています。 あのころに相対性理論も生まれ、量子力学も生まれ、あれで、ほんとに世界がわかりました。 それらのほとんどを、ドイツ語圏の人々が作りましたでしょう。 


では、日本は文明を輸出できる国ではないとすると、科学をつくれない国であるということになってしまう。 「日本は今でも辺境にある。 文明を作れない国だから」という考え方は、内田樹さんの「辺境論」に通じると思います。 


しかし、日本は戦後、物性物理学、つまり物質の科学が特異的に発達しました。 だから、それを土台にして半導体をはじめとする新物質の産業が生まれました。 そのころ物性物理学や物質科学にいた科学者たちは、自分たちこそが世界のイニシアチブを握っていることに気がついて、世界に向けてみずからの独創を教えていました。 世界中から人がやってきました。 私は、そういう文化の中で育ちましたから、日本こそが物性物理学という文明を輸出できる国だと思っておりました。 しかし社会科学の世界に入ってみると、そこは旧態依然としたキャッチアップ型でした。 物理の世界では、イニシアチブを持っているので、対等に批判しあいます。 ところが、社会科学の世界では、誰かの批判をすると、「批判なんかとんでもない。 もう、教えてもらうばっかりです」とへりくだってしまう。 辺境国の感覚が出てくる。 ぼく、これ、ある意味で「教育の失敗」だろうと思うんです。 


そこでぼくは、やっぱり、現代物理学を一手に創り上げた19世紀後半から1933年までのドイツが何をしてきたんだろうということをもう一度学び直して、戦後、物性物理や物質科学で世界のイニシアチブをとってきた日本をもう一度見直すべきかな、と思うんですね…。 平田さん、いかがでしょう。 


平田


あのう、司馬さんが、日本の文化と文明について、特に晩年繰り返しおっしゃっていたのは、それ、ぼくは、バブルのことがあったんだと思うんですね。 司馬さんは、バブルってのを、ものすごく憎んでいらっしゃったから。 


そのバブルで、ソニーの「ウォークマン」というのが一番象徴的だと思うんですけど、あれは、世界中の若者たちがイヤホンを通じて音楽を聞くというふうに、ライフスタイルまで変えてしまった。 それは、ある意味で、「文明の輸出」だった。 すごく大雑把な議論をしているので、そういう事象は起こると思います。 でも、結局のヘゲモニーは今、「iPhone(アイフォン)」、アップルが握っているわけですよね。 で、そこは、錯覚があったと思うんです。 繰り返しになりますけど、日本は、とても素晴らしい技術力を持っていて、とても高度な教育を受けた国民がそろっていて、そういうことが瞬間的にできる国なんですよね。 


今、話題になってますけど、昭和15、16年の時点で、零式戦闘機(ゼロ戦)は、確かに世界一の技術を持っていて圧倒的に強かったですよね。 でも、圧倒的に強かったのに、17年以降は、ガンガン撃ち落とされますね。 ご存じの方も多いと思いますが、アメリカがつくった「対ゼロ戦のマニュアル」、いくつかありますけど、基本的には一つです。 「2機で当たれ」。 それで落とされちゃうんです。 物量の前に。 しかも、ゼロ戦は新幹線と似ていて、要するに、まあ、当時は、他の国のもそうだったといわれていますが、非常に防御が弱い。 これで、軽量化を図った。 圧倒的に強くて一対一では絶対に負けないから、防御する必要はなかったわけですよ。 それが、やっぱり文化なんだと思うんですよね。 でも、最終的には文明の前に屈してしまう。 で、それは、もうちょっと私たちの国は、今、おっしゃったように、まさにユニークネスで勝負するべきだと思うんですよ。 ヘゲモニーを握るんではなくて、ユニークネスで勝負するべきだろう。 


それから、ドイツのことですが、専門的な科学の話はわからないんですけどね、例えば、小林秀雄さんが西田幾多郎について、「日本語のようで日本語でない奇怪なシステム」というふうに書いているんですね。 多分その前段で「カントにおけるドイツ民族」とか「パスカルにおけるフランス民族」というのを論じていて、つまり、「西田は読者を想定していないんじゃないか、全く無国籍な文章になってしまっている」といっている。 要するにヨーロッパ文明っていうのは、例えばカントは、別にドイツに住んでいたわけではないですよね。 今の「エラスムス計画」はまさにそうだけれども、ラテン語を中心として大きな流れがあって、その中で出てきたものですね。 だから、それをドイツ文明と考えるのかヨーロッパ文明と考えるかってのは、もちろん評価が分かれるし、どこで切り取るか、非常に相対的な部分もあると思いますけど、ぼくのきょうの文脈でいうと、それはヨーロッパ文明なんだと思って話をしました。 


山極


一気に、文明と文化の話にいってしまいましたけど、髙田さんいかがですか。 



髙田 公理(佛教大学社会学部教授)




文化と文明の話に関して、科学は普遍的なものだとおっしゃったのですが、本当にそうなんでしょうか。 ぼくには、そういう意味での科学が、非常に傍迷惑な役割を果たす場合があるように思えるのですが……。 


例えば、アメリカという多民族社会では、科学の普遍性が高く評価され、同時に非常に発達しもするのですが、ときに困ったテーゼが普遍性をもって語られる。 卑近なところでは、「7時間睡眠がベストだ」といった言説も、そうした事例の一つです。 それで、それ以上でも以下でも死亡率が高まるんだというわけでしょ?


でも、イヌイットの人々なんかの住んでいる北極圏では、夏は昼が長いし、冬は夜が長い。 当然それに対応して睡眠時間も夏は短くなり、冬は長くなる。 そういう条件のもとで生きている人々と、中緯度地帯で近代化した社会に生きている人々を、十把ひとからげにして扱う科学的な医学などを見ていると、本当にそれでいいのかと思ってしまうわけです。 


睡眠だけではなくて、食べ物だって、地域ごとに異ならざるをえません。 それを近代科学の普遍性で、絨毯爆撃のように差配される文明の形というのは、かなり辛いなあと思えるのですが、いかがでしょうか。 


いまひとつ、普遍的なコミュニケーション能力は存在しない、というふうにおっしゃったわけですが、そのことを強く実感したことがあります。 それは阪神大震災のあとに始まった「FM COCOLO」の番組を聴いていたときのことです。 この局の番組では、タイ語やインドネシア語などが使われるようになったのですが、それがぼくの耳には、ある種の音楽のように快く聞こえたわけです。 むろん、話されている内容は皆目理解できません。 でも、聞き流していると、非常に心地いい。 そんな感じを持ったわけです。 


そうした感じが非常に強かったにもかかわらず、その意味はまったく分からない。 つまり異文化というものは本来、非常に理解するのがむつかしいという前提で付き合うべきなんではないか。 そんなことを教えられたわけです。 


これを一般化すれば、文字通り普遍的なコミュニケーション能力は存在しないということになります。 同時に、今は普遍的だと思われている科学だって、いくらでも変化しうる。 という意味で近代の欧米で発達した科学の普遍性は、いわば私たち現代人の幻想に支えられているのではないか。 平田さんの話を聞きながら、そんなことを考えていました。 


ただ他方で、人間の体には、ある種の見事な普遍性が備わっている。 というのは、演劇的なコミュニケーションにかかわる話を聞きながら考えたことです。 


具体的にいうと、東京ディズニーランドがアルバイトの若者に対して行なう教育方法を思い出していました。 つまり、ディズニーランドでアルバイトしたいという若者が多いのは、「お行儀を教えてくれる」からなんですね。 


どんなことかというと、ディズニーランドではアルバイトの学生たちに、例えば、こんな事を教えます。 「あなたが、ビジターの子供さんに何かを問われたら、その瞬間、必ず跪きなさい」
で、実際にそうした態度を取ると、本人の視線が子供の視線と同じ高さになります。 すると子供は、自分よりずっと大きなアルバイトの兄ちゃん姉ちゃんを、こわい存在ではなくて、仲間だと思うんですね。 で、彼らに馴染んでくれるというか、親しみを持ってくれる。 すると、その気持ちが伝わってアルバイトの兄ちゃん姉ちゃんも嬉しくなる。 そして気づかぬうちに子供たちと容易に親しめる気持ちのありようを身に着けるわけです。 


さらにディズニーランドのアトラクションの場合、舞台に立ってパフォーマンスを展開する若者たちが、慣れてきて妙に上手になると、辞めさせるのだそうです。 


「初心を忘れたパフォーマンスは、見る人を感動させない」


こんなことを思い出すと、科学の普遍性だけでは、何も伝わらない。 それは一種の幻想なのかもしれないと思ったりするわけです。 そういう意味で、必ずしも「文明を輸出できる国が偉い」とも言えないような気がします。 そんなことを考えていました。 



山口


ぼくの言っている科学というのは、できあがったものを意味していないんです。 作るプロセスを意味しています。 夜のサイエンス。 こんなすごいことをどうやって考えついたんだろうという、その過程なんです。 科学は、できあがっちゃうと、もうパラダイムになっちゃってつまんない。 教科書に書かれてしまったものは、どうでもいいんです。 そうではなくて、肝心なのは、ほかならぬこの人間が、何でこんなことを思いついたんだっていう、その発想なんですね。 それを議論したい。 それが、ある種普遍性を持っていて、それこそが文明的なんだと思うんです。 その、固有の文化ではなくて、人間が何でこんなこと思いつくんだよ、と。 そこでは、芸術と科学とが同じ創造性を持っている。 それを問いたいと思っているんです。 



山極


もうひとつ、平田さんにお聞きしたいんですけど、よく、今の若い人たちは内向きだっていいますよね。 私は、言語というものを作り出してから人間は、物語を生きるということに熱中し始めた。 他人の物語を理解し、他人の物語を楽しむということが、結構できていたと思うんです。 今、内向きなのは、自分の物語も他人の物語も見つけられないでいるんではないか。 演劇というのは、そういった物語というものを―フィクションですけど―作ってくれる。 そういうところに自分を巻き込んでくれるっていう、すごく大きな効果があって、ああこういうものなんだっていう、つまり自分の中の物語性ってものに気づき、それを表現する方法に目覚めることを、させてくれるんじゃないかと思うんですけれど、どうでしょう。 



平田


ぼくは、よく不登校の子どもたちと付き合うんですけど、不登校ってのは、中学1年生でなる子が一番多く、それまで「いい子」だった子、社会的にいい子だった子が多いんですね。 だから、親のショックも大きんいですけど。 その子たちは、判で押したように「いい子を演じるのに疲れた」と言うんですね。 ま、ぼくは演劇人なんで「本気で演じたこともないくせに、演技に疲れたなんていうな」ってからかうんですけど、で、もうひとつ、彼らがいうのは「ホントの自分はこんなじゃない」ってことです。 ぼくは、しょうことなしに「ホントの自分なんか見つけたら、大変なことになっちゃうよ。 新興宗教の教祖になってしまう」と、よくからかうんです。 大人は、夫という役割とか、父親、会社員、マンションの管理組合,PTAの役員とか、社会的な役割をいろいろ演じ分けながら、かろうじて人生の時間を前に進めていると思うんですけど、子どもには、すぐ、「ホントの自分を見つけなさい」というんですよね。 


よくそれを、私たちは「タマネギの皮」に喩えるわけです。 たぶんこれ、村上陽一郎先生が最初に言い出されたことなんですけど、タマネギというのはどっからが皮でどっからがタマネギということはなくて、人間はそういうものなんじゃないのか。 こういうのを、まあ、演劇や心理学の世界では「ペルソナ」というわけですけど、ペルソナってのはパースンの語源で、「人格」という意味と「仮面」という意味を兼ね備えているわけですね。 私たち、いろんな仮面をかぶっていて、その総体が人格を形成している。 


この、不登校の子どもたちが「いい子を演じるのに疲れた」という問題は、10年以上ずーっと、いろんなところに言ってきたんですけど、その中で一番ショックを受けたのが、秋葉原の連続殺傷事件の加藤(智大)被告がですね、犯行の直前にケータイサイトの掲示板に「いい子を演じさせられるのに疲れた」と書いていたことなんですね。 「演じさせられるのに疲れた」って、ぼく、ちょっとびっくりしましたね。 そういう日本語が成立するのかとさえ思いました。 だって、演じるって主体的な行為で、演じさせられてるって、誰にさせられているのか、なんという操られ感、なんという自己喪失感…。 まあ、みなさんご存知の方も多いと思いますが、彼の場合、親も高学歴で、お母さんは青森高校なんですね。 この高校は、弘前大学に入るよりは難しいっていわれるほどのナンバースクールです。 高学歴の家庭のほうが、ダブルバインドは起きやすいです。 こっからは、私の、劇作家としての想像ですけれども、恐らく子どものうちから、「いいよ、いいよ、もう勉強なんかしないで。 自分の好きなこと見つけなさい。 お母さんも勉強しないでも青森高校に入ったからね」と。 これ、一番きついでしょう、子どもに。 「えっ、どっちだよう。 やっぱ、入んなきゃいけないじゃん、結局」ってわけで、典型的なダブルバインドですよね。 


要するに問題は、その、日本では、演じるってのが、何か、自分を偽るとか嘘をつくみたいなマイナスのイメージで、ちょっと捉えられちゃうところがあるんですけど、英語ではプレイですから、楽しいことなわけですよね。 で、その、演じることが悪いんじゃなくて、演じさせられていると感じた瞬間に、仮面が重くなってしまって体が傾いて、こう、人格障害とかになっちゃうんじゃないかと思うんですね。 だから、その、演じわけるってことの楽しさを、子どものうちから伝えたいなっていうのが、まず一つあります。 


それから、よく山極さんの話をあっちこっちでいうんだけれども、あの、ゴリラですね。 ゴリラも演じるわけでしょう、お父さんになるとね。 これ、よくお書きになってますよね。 要するに、ニホンザルのような下等なサルだと、エサを前にすると、ボスザルでも子どもとエサの取り合いをするが、父親のゴリラは、えっと、分け与えるんでしたっけ、あ、そうそう、我慢するんですね。 とにかく、本能とは違う行動をとるということで、これ、父親になった瞬間から、そうなるんで、これは明らかに演じているだろうと、山極さんから直接伺ったことですが、でも、演じ分けはできないんですね。 演じ分けられるのは人間だけです。 これ、なんでかというと、人間だけが、最低限、「家族」という単位と「群れ・社会」という両方に所属しているからですよね。 厳密に言うと、これ、山極さんを前にしてこんなことをいうのは、あれですけど、ゲラダヒヒというコミュニケーション能力のある特殊なサルがいて、ぼく、河合雅雄先生から直接、鳴き声までうかがったことがあるんですが、このヒヒは家族と群れの両方の単位に所属するらしい。 それと、マントヒヒの一部にある。 


要するに、私たち、この演じ分けるという能力を持って、この複雑な社会を構成している。 あるいは、この複雑な社会が、私たちにこういう特殊なコミュニケーション能力を植えつけたっていうふうに言えると思うんです。 だから、演じ分けるという能力は、人間を人間たらしめているもっとも重要な能力の一つだと思ってるんですね。 この機能が壊れ始めてるとしたら、それはちょっと危ない状況かなってところはあります。 この演じ分ける楽しさみたいなものが、少しでも教育の中で補っていければいいなってふうに考えて、今、ぼくはいろんな活動しているところなんですね。 







山極

では、フロアの方からも意見をいただいて、議論を深めてまいりましょう。 村瀬さんどうぞ。 



村瀬 雅俊(京都大学基礎物理学研究所准教授)




一番印象に残っていますのは、A、B、C、D、E、いろんなお子さんがユニークな発言をするが、それより、大事なのはまとめ役だというお話です。 それって、編集能力ですね。 なにか、その、モノをつかむんじゃなくて、違うものをこねるというか、それは、なにか創造の瞬間のような気がして、すごく面白かったんですけど、何かもう少し、関連したお話があれば伺いたいのですが。 


平田


多分、先生方も、みなさん学生に向かってそう言っていると思うんですけど、普通、私たちってのは、何か、特に過去に体験したものとかを組み合わせながら新しいものを生み出していっていますね。 ゼロから生み出すってことは実際にはありえないわけで、だからこそ、長期記憶ってのが一番大事になってきますよね。 で、それはどこから生まれてくるのかわからないので、ま、有名な例は、ビル・ゲイツが大学を中退して、何かふらふらしてた時に、カリギュラフィの授業を取って、それが、後々「フォント」っていう考え方に結びついたというエピソード。 このケースみたいなことが重要なんだ、ということは学生にはよくいっています。 とにかく、いろんなことをやっておくしかないんだよ、と。 そのいろんなことの組み合わせによって、新しいものが生まれてくるってことは、特に、芸術の世界は、まさにそうなので。 あの、芸術って、ゼロから生み見だすように思われるんですけど、芸術こそが、もう、人類のあらゆる蓄積の組み合わせなんです。 もう、出尽くしたと思ったところから新しいものが生まれてくるので、そういう意味では、これから、長期記憶の教育をどうやって行っていくかってことが、ま、一つ大きな課題で、そういう点でも、アートと教育の結びつきがこれから重要になっていくと思います。 



村瀬


今のお話、まさに、山口さんが最後にいわれた「創造のプロセス」、それに何か文明的な普遍性が加わるっていう、まさにその点に集約しそうな気がしますけども。 



平田


文明と文化との違いというのは、大変大雑把な理論で、先ほども申し上げたように、一個人としては普遍的なものを創りたいんです。 あのう、シェークスピア、チェーホフとまではいかないまでも、テネシー・ウイリアムズとか、そのぐらいの仕事は残したいと思って、今、仕事をしているんですね。 


ただ、そうはいっても、特に芸術というのは、文化的な背景ってのがあるわけですよね。 ぼくが、フランスで仕事をするようになってから、もう15年になりますけど、仕事を始めたころ、すごくよく、新聞のインタビューで「なんで、お前の作品はこんなに三島由紀夫と違うんだ」って聞かれたのです。 そんなこといわれても、しょうがない。 作家ごとに違うんで。 まあ、冗談で「三島先生との共通点は、背が低いことだけ」といったものでした。 「ぼくのほうが3㌢低いんだ」、と威張ってたんですけど…。 それはさておき、実際に、その時説明したのは、要するに三島由紀夫というのは、日本の文学者がヨーロッパに追いつき、追い越せといって、100年間頑張ってきた、その結晶のような存在で、ほんとにその作品は素晴らしいんですね。 ものすごい論理性があるんですよ。 特に三島さんの戯曲ってのは、ヨーロッパ人でもこんなに論理的に話さないだろうっていうぐらい、こうきちんと論理的に組み立てられているんです。 だから、海外でも、あれだけ上演されるんです。 要するに、1960年代において、三島文学ってのは、最もわかりやすい日本だったんですよ。 内容はジャパネスクで、コミュニケーションの仕方が完全にヨーロッパ、欧米だったんです。 それで、逆に、私たち、日本の演劇人から見ると「いや、こんなふうに日本人しゃべれないよなあ」といつも思っちゃうんですね。 だから、日本での上演が少ないんです。 ちょっと、下世話な話ですけど、三島さんの作品は、遺族の方が厳しく、まだ著作権も切れてないんで、書きなおしたりできないんですよ。 そうすると、あの文体のままでやると、ものすごく、日本の俳優では無理なんです。 ところが、英語訳されたり、フランス語に訳されるとしゃべりやすい。 しっくりくる。 彼は、恐らく、半分ぐらい英語で考えていたんじゃないか、と思うぐらいに、ヨーロッパ型の論理構築でなされているんですね。 


ぼくのお芝居ってのは、よく俳句みたいだっていわれるんですけど、ポツ、ポツ、ポツっていろんなトピックが出てきて、全然論理的につながっていかないんだけれども、全体が、ある種の世界観を構築するようなスタイルなんですね。 ところがですね、内容はですね、例えば、さっきスライドで見ていただいた「東京ノート」っていうのは、美術館が舞台になっていて、フェルメールの話とかが出てくるんですけど、実際に、アメリカ公演をした時に、アメリカのお客さんから「何で、日本人なのにヨーロッパの画家の話ばかりしているんだ」と質問受けたんです。 「いや、いや、私たち日本人は、別に、ふだん着物を着ているわけでもないし、浮世絵見ているわけでもなくて…」。 だって、みなさんだって、そうでしょう、好きな画家といわれて北斎とか歌麿という人のほうが珍しくて、ゴーギャンとかゴッホとかいうわけでしょう。 


要するに、三島さんと私では、あの、コンテンツ、内容と形式がクロスしていることがわかると思います。 三島さんは、形式がヨーロッパで内容がジャパネスクなんです。 私のは、形式が日本的で内容はグローバル。 で、今の時代は、どっちかというと私の方に近いんだと思うんですね。 よく、欧米の新聞記者たちにいうのは、要するにもうコンテンツは全部いっしょになっていいよ、と。 オレは、それはもういいよと。 ジャパネスクにはこだわらない、と。 もうそれで勝負する時代でもないんです。 でも、世界中の人が、コーラを飲み、ハンバーガーを食べるようになっても、その食べ方や飲み方は、まだ100年や200年は違うんですよ、と。 で、例えば、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争の時に、ヨーロッパ人が何にショックを受けたかというと、サラエボの人々は、週末はウィーンにオペラを観に行くような、完全に西洋的な生活をしてたわけですね。 でも、祈り方だけが違った。 神さえ同じなのに祈り方が違った。 ところが、グローバリズムというのは、そういうものを無視して、ローラーでならすように平坦にしていっちゃいますね。 


その時に、私たち芸術家の仕事は、特に、日本のような辺境で生きる芸術家の仕事は、「いやいや、ちょっと待ってください。 あんたたち、全部一色に塗りつぶそうとしているけど、私たちちょっと違いますよ」って異議申立てをする、小さな差異を示すっていうことが、日本の芸術家、日本の作家である私が世界に貢献する最も重要な部分だと思っています。 


そこは、議論が残ると思います。 そんなこといったら、日本からシェークスピアやチェーホフはいつまで経っても出ないじゃないか、と。 でもね、違うんです。 新しい芸術は、必ず辺境から出てくるんです。 なぜなら、17世紀において、イギリスはヨーロッパ文明の辺境だったでしょう。 イプセン、チェーホフ、ノルウエーとかロシアってのは、19世紀においてヨーロッパ文明の辺境なんです。 辺境がどんどん広がっているから、今、日本が辺境で、一番有利な立場にある、芸術家にとって。 「ちょっと違いますよ」と一番言いやすい立場にある。 でも、全くの辺境だったら、まったく違っていたら、これダメなんですけど、ぼくたちは完全に西洋的な生活をしていて、しかも、常に違和感を感じています。 この違和感を表現するだけで、十分、芸術家としては勝負になるってのが、今の私の立場です。 


村瀬


アリエティという人が「創造の産物はすごく創造的なんだけど、創造の過程はすごく陳腐だ」と言ってるんですけど、まさに、繰り返しになりますが、創るプロセスは、ものすごく普遍なんです。 でも、出てくるのが、飛行機だったり、新幹線だったり、演劇だったり…。 だから、その、プロセスだけ見ると、ものすごく普遍の原理が見えてくるんじゃないかなと思って…。 



山極


私の方から一つお聞きしたいんですけど、平田さんのやっている演劇は、必ず体の動きというか、視覚的なイメージがつきまとうわけですね。 例えば、小説だとか、言葉だけで作られたもの。 あるいは、声に出して朗読だけで空間を演劇化することがありますよね。 それらと演劇は大きく違うんだろうと思うんです。 ただし、論理性っていう点では、言語に近いところでやってらっしゃると思うんですけれど、平田さんが、コミュニケーションとして演劇で目指しているものは何なのでしょう。 


私は、動物の行動を見ていて、人間が言語的にめざしているものと、ずいぶん違っていると感じるんですね。 それが「物語性」なんですけども、「再帰性」と言い換えてもいいんですが、身体を用いたコミュニケーションは、非常に信頼度が高い。 それは、「同調」を呼ぶということです。 最初に平田さんがおっしゃった「できそこないのコミュニケーション」、まあ、いうならば、言葉を使ったコミュニケーションからすると、少しこう無駄が多い、そういうものが相手の心を打ったり、相手の同調を引き出したりするというのは非常によくわかる気がする。 というのは、われわれは、まだ視覚世界に非常に大きな信頼を置いていて、その中で、相手の中に入っていくっていうことが、やはり、タイムラグとしてどうしても必要なんですね。 言葉だけに特化していくと、そういうものを排除してしまう。 よく私たちが経験するのは、まだ、言葉をおぼえて間もないころに、たどたどしい言葉で話をしていると、非常によく通じるんだけれど、言葉をおぼえて滑らかに喋るようになると、なかなか通じないっていうことがあるんですね。 それはやっぱり、相手の気持ちだとか真意を探ろうとする事ができてないっていうか、そういう態度を相手から引き出せていない、そういう時間を相手に与えていないからだと思うんですね。 それが、パフォーマンスを伴うと、やはり、言葉で喋るより、よっぽど曖昧で全体的ですから、相手との間に同調という空間を作り出すことができるので、それが果たせるのかなという気がするのですが。 



平田


小説っていうのは、近代とともに生まれてきた、まあ、ある種特殊な表現なので、あのう、「個」っていうものが誕生し、それとまあ、「活版印刷」、それから「流通」、それにともなって最終的に「著作権法の確立」っていうことで、小説っていうのが今や文芸の王になっているわけです。 でも、基本的には、人類は詩と演劇をずっとやってきたわけで、こっちのほうが歴史は長いわけですよね。 元々を辿ると、先ほど言ったように、ま、これは文化人類学の世界で、人類発生頃の話になるわけですけれども、どんな未開の集落に行っても、ダンスとか演劇的なものってのは必ずあって、どうも、コミュニティーを維持するには、過剰なものっていうか、あるいは、過剰なものを生産するような祭り的なものってのは、どうしても必要だったんだろうというふうに考えられています。 これも、要するに、私たちの社会を構成する上で、どうしても必要だった。 


これが、きょうのもうひとつの主題である「新しい広場をつくる」ってところにも関わるんですけども、例えば、東日本大震災で有名になった女川町っていう町がありますね。 壊れなかった原発がある町です。 ここは、入江がすごく入りくんでいて、被災が最もひどかった町です。 家屋の70%ぐらいが流されてしまいました。 ここは、ちいさな集落がたくさんあって、その集落ごとに、夏祭りで「獅子舞い」をやるんです。 そのお獅子も、全部流されてしまいました。 ただ、これは、結構、復活は早かったんです。 各地から寄せられた義援金で買いなおしたり、獅子そのものが贈られてきたんです。 それで、あすこは、もう高台移転しかないんですね。 これ、みんなわかってるんだけど、なかなか合意形成できなかったんです。 ところが、それが、文化人類学者も驚くほどに、獅子舞いが復活した集落から高台移転の合意形成ができてきたんです。 そりゃ、人間ってのは不思議なもんで、経済合理性だけで話し合ってても、土地の面積がどうだ何だ、という話になるんだけども、100年、200年続いた獅子舞いをみんなでやると、「まあ、やっぱりいろいろあるけど、みんなで移るべい」ということになるわけですよね。 恐らく、そういう機能が、やっぱり演劇とかダンスとかにはあって、まさに、その、シンクロニシティみたいなものが、非常に大きな効果を果たしているんじゃないか。 


もうひとつは、特に、今私たちが考えている演劇ってのは、起源がはっきりしていまして、2500年前に、ギリシャで生まれた、システムとしてはですね。 この2500年前というのは、アテネで民主制が生まれた時期です。 恐らく、民主制が生まれた時、アテネの人々は驚き、戸惑ったと思うんですね。 それまでは、王様や貴族が決めていてくれたことを、自分たちで決めなきゃいけない。 でも、その自分たちという一人一人はバラバラなわけです。 そのまま議論すると、声の大きい者、力の強いものの勝ちで、もとの黙阿弥になってしまう。 ところがですね、そこからがアテネの人々の偉かったところで、二つダイアローグの訓練方法を、人類の遺産として残したわけですね。 ひとつは、もちろん言わずと知れた「哲学」です。 弁証法という考え方を生んだわけですね。 もうひとつは「演劇」でした。 当時、アテネの市民にとって演劇祭への参加は、権利であると同時に義務でもありました。 何かがあると舞台に立たなければならなかった。 恐らくそれは、イニシエーション的な、市民になるための教育機関だったわけですね。 哲学が、「異なる概念」を摺り合わせるような知的作業であるとすれば、演劇祭への参加は、「異なる感性」をすり合わせるような、要するにイチゴの好きな奴とメロンの好きな奴がいて、イチゴが好きな奴にメロンが好きにさせることはできないですね。 でも、「ちょっと、イチゴに、メロンを添えてみたら美味しいよ」、みたいな、ネゴシエーションっていうのができるわけで、恐らく、そういうことを集団で学ぶ機能が、演劇にはあった。 ま、これ、実は、遠いギリシアだけの話ではなくって、日本でも、農村歌舞伎とかお神楽とかっていうのは、イニシエーションとして確実に機能していったわけですよね。 ですから、そういう要素ってのは、共同体維持のために、確実にあっただろうなと思っています。 



髙田


1960年代の学生運動は、ずいぶん理屈っぽくやってたじゃないですか。 それが衰えたあとに山城祥二(本名は大橋力)さんの主宰する「芸能山城組」が出てきますよね。 それに、どこか似ているような気のする「YOSAKOI (よさこい)」が、最近は非常に盛んになっています。 こういう現象を、今の話の文脈に位置づけると、どういう捉え方ができるのでしょうか。 



平田


あのう、ここは難しいところで、YOSAKOIは、ほんとにいい点と悪い点があってですね、日本みたいに同調圧力の強い国で、YOSAKOIだけにしてしまうと、どうでしょうか。 あれ、非常に同調圧力が強い行事なんです。 日本型のお祭りってのには、欠点もあってですね、例えば、「このお神輿を担ぎますか。 担ぐんなら、この共同体に入れますよ」っていうところがあるわけです。 イニシエーション的な部分が、非常に強い。 本来、演劇っていうのは、多様な個性を認めて居場所をつくるものなんです。 ぼくは、よく、小学校の先生に、声の小さい子は、「声の小さい子っていう役」をやったら一番うまいですよ、って説明するんですけど、そういう居場所の作りやすさが、演劇が教育に生かせる一番の部分なんです。 でも、「みんなで大きな声を出しましょう」というところがあるんですよね。 それが、まあちょっと難しい部分なんですけど…。 ただ、欠点もあるYOSAKOIで救われる子がいることは間違いないです。 それを否定するものではありません。 



山極


それに関連して、観客という話をお伺いしたいんですけど、日本は同調性を求めるのが強い国だとおっしゃいましたが、例えば、コンサートなんかでね、ヨーロッパでは非常にマナーを重んじますよね。 ところが、日本は、歌舞伎なんかを見てもですね、結構、飲食を許している。 相撲の観戦なんかもそうですよね。 観客が自由に参加できる。 あるいはスポーツを観戦するにしても、アメリカではあるチームの地元の人たちは、そのチームしか応援していない。 日本もそういう傾向はなきにしもあらずだけれど、割と自由に、外国のチームでも応援しちゃったりする。 こういうような、観客がかなり自由に身動きできるようなところがあるような気がするんです。 これも文化なんでしょうか。 



平田


そこは、ちょっと、統一したわかりやすい答えは出せないんですけど、一応、演劇が、もちろん私の専門領域なんで、みなさんがご存じない話ができると思うんです。 まずですね、諸外国を見ても、昔は自由だった、適当だったと思うんですね。 そもそも、劇場にチケットを買って演劇を観に行くっていうシステムが成立したのは、大体、17世紀でしょうか。 18世紀の時点で、チケットを買って劇場にお芝居を観に行くというシステムを持っていた都市は、まあ、恐らく、ロンドン、パリと大坂、江戸、そして京都しかなかった。 ドイツでさえも、皇帝がオペラ作って、ただで観せてた訳ですよ。 要するに、チケットを買って劇場に観に行くってのは、よっぽど都市が人口を抱えて、しかも中間層を抱えていない限り成立しないシステムなんです。 ただ単に豊かならいいってもんじゃなく、中間層が必要なんですよ。 自立して、チケットを買って観に行くって、すごく特殊な環境なんですね。 


これ、中国や韓国はどうなっているかというと、今でもそうなんですが、獅子舞いや「三河万歳」とかと同じで、結婚式とか引っ越しとかで、金持ちが雇って見せていた。 それから、一番多いのは、神社、仏閣ですね。 お祭りをする、その時、すばらしいご本尊とかあれば、ご開帳でみんな集まってくるんだけれども、そんなすごいご本尊があるところばかりではないから、芸能者を呼んで来る。 その人たちは、投げ銭で稼ぐわけですけど、これで人が集まって、そこの周りに縁日の露店ができて、その、まさに寺銭というものを得てお寺は儲かっていたわけです。 アジアではどの国においても、そういうシステムの中で芸能というのは発達してきて、日本だけが、特殊な都市文化を江戸時代に築いたっていうことなんですね。 


だから、あの歌舞伎の状況というのは、ほんとに特殊なんです。 ものすごく、エンターテインメントしてもうまくできていて、これ、相撲も一緒ですが、特に、歌舞伎というのは、総合芸術の最たるもので、家族で一日中見ていたわけですよね。 ファッションショーの役割も果たしていたんですね。 特に、江戸では。 当時のファッションの中心は京都、大坂だったわけで、その流行の情報も歌舞伎を通じて得られる。 それから、ほとんどの江戸の中間層は、三味線とか長唄とか何かやっていたので、その最高の芸として観に行く。 要するにギリシャと同じで、やる側でもあり観る側でもあるんですね。 やってみてワンセットなんで、演劇ってのは。 それと、もう一つ面白いのは、歌舞伎っていうのは、1日の中に必ず1場面ぐらい、ものすごく難しいシーンがあるんです。 中国の故事来歴とかを知らないと全然分からない場面ってのがある。 これ、何のためにあるのかというと、お父さんが子どもに威張るためなんです。 お父さんがうんちくを垂れる。 そこまで、歌舞伎というのは、ちゃんと用意がしてある。 今のディズニーランドみたいなもんだったんですね、歌舞伎というのは。 


このように、ヨーロッパの近代演劇とは、ずいぶん違うんですけど、ただ、ヨーロッパでも、今みたいに観客がおとなしく観るようになったのは、やっぱり19世紀以降で、シェークスピアのころは相当野蛮に観ていたようですから…。 ぼくも、劇場史にそんなに詳しいわけじゃないですけど、あんまり違いはなかったんじゃないかと思います。 さっきの野球の関係のこととか、そこまで整合性はわからないんですが…。 



山極


ありがとうございました。 では、時間が来ましたので、この後、ワールドカフェに移りたいと思います。 今日の共通テーマですが、若者世代ということも念頭に、日本型のコミュニケーションを利用しながら、日本の文明を世界に出すためにはどうしたらいいか、ということをお考えいただきたいと思います。 平田さんが本の中でおっしゃってる「広場 AGORAをつくろう」というのもその一つかもしれません。 あるいは、コミュニケーションをうまくまとめながら、日本の技術や、日本の伝統―和食が世界遺産になったんですが―そういうものを利用しながら、日本が、グローバルなところに存在感を示すためにどうしていったらいいか、をテーマにご討議していただけたらと思います。 

 

第8回クオリアAGORA 2013/ディスカッションの様子

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