活動報告/クオリア京都

 


 

 

第6回クオリアAGORA 2015/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

JT生命誌研究館館長

中村 桂子さん


京都大学大学院理学研究科教授

山口 栄一さん


武庫川女子大学名誉教授

高田 公理さん



京都大学大学院教育学研究科教授

西平 直さん



モデレーター

写真家

荻野 NAO之さん






荻野 NAO之 (写真家)




きょうは、すでにたくさんの問いを直接出していただきましたので、お三方の印象に残った問いについて、それぞれのフィールドからお答えいただきながら、議論を深めてまいりたいと思います。 で、私も、それを、横でぼーっと聞いているだけでは何なので、いただいた問いについて、私なりにお返ししたうえで、みなさんの議論に入っていきたいと思います。 


私のバックグラウンドについて、恐縮ながらお話しますと、私は、東京の杉並区で生まれ、3歳で、父親の仕事でメキシコに連れていかれました。 何となく、私の記憶は3歳から始まるんです。 当然、現地校に入り、スペイン語で教育を受けるわけですけども、帰国するころに、ある時、母親が「あなたは何語でものを考えているの」と聞いたそうです。 すると、私は、なぜ当たり前のことを聞くんだというような顔をして「スペイン語に決まっているじゃないか」と日本語で答えたそうです。 つまり、私は、日本語で聞いて、スペイン語で解釈をして日本語で答えていた。 それで、7歳の時に、日本に帰ってくるんですが、3か月で、そのスペイン語を見事に忘れてしまいました。 覚えているのは「amigo(友達)」ともう一つ、大好きだった「gelatina(食べるゼリー)」の二つだけ。 1、2、3も言えなくなった。 


10歳の時、もう一度メキシコに行くことになるんですけれども、その時に何が起こったか、今の西平先生のお話にちょっと通じるかもしれません。 母親は「あれだけスペイン語を話していたんだから、すぐに思い出すわよ」と言いました。 が、何と、結局、それから5年もかかって徐々に覚えたんです。 ただ、最初のころ、何が起こったかというと、1回、スペイン語の単語を覚え、それを話すと、どうも、初音は完璧にメキシコ人である、と。 一方、日本人の私の母親が一生懸命スペイン語をやっても、ただの日本人のスペイン語なんですよ。 つまり、何が起きたかというと、これが大変だったのですが、まだ、「Buenas Tardes(こんにちは)」「Mucho gusto(初めまして)」程度の会話しかできないのに、新しくメキシコ人に会って、そう言った瞬間、向こうは、ぼくのことをネイティブと思ってしまうんです。 ブワーっとしゃべってくる。 ぼくが、理解できないでいると「何でお前はわからないのか。 嘘つくな。 発音は完璧じゃないか」っていう。 


それ以来、まあ、そうやってメキシコ人と同じように遊んだりして暮らしたわけなんです。 発音が「型」ということになるのかどうかわからないのですけれども、スペイン語力が全くなかったのに、3歳から7歳のことのおかげで、10歳の時にそういうことがあったんですね。 直接結び付くかどうかわかませんが、さっきのお話を聞いていて、この10歳の時の実体験を思い出し、型とか無心についてそういうことだったのかなと考えていて、何か参考になるかと話してみました。 では、それぞれのディスカッサントのお考えをお聞きしましょうか。 



高田 公理 (武庫川女子大学名誉教授)




お話、とっても面白く聞かせてもらいました。 ありがとうございます。 ところで、西平さん、「無心」っていう日本語を、英語では何というんですか。 



西平 直 (京都大学大学院教育学研究科教授)




それは、本当に困るんです。 定訳がないです。 



高田


同じような例は、いろいろありますね。 ぼくの研究対象の一つである「嗜好品」も,英語やドイツ語には適切な訳語がありません。 で、「無心」を英語やドイツ語の話者たちに、どんな単語で伝えられているのか。 荻野さんの話ともリンクしそうなので、お聞きしたわけです。 



西平


鈴木大拙が最初に試みたのは「No Mind」という言葉でした。 それで、ずいぶん誤解を招いてしまい、ある時期から「Mind of No-mind-ness」という言い方をしたり、ある時期は「Mushin」と書いたり、…。 意味内容では「innocence」とか、「selfless-ness」とか…。 もう一つ、大きな誤解の元となったのは、「Unconscious」という言葉を使ったことです。 「無心」と「無意識」は全然違います。 



高田


なるほど、適切な言葉がないんですね。 



西平


ないんです。 「Let it be」と訳しいる方がいて、うまいなと思いました。 



高田


それをお聞きして思い出したことが二つあります。 


まずはディズニーランドには、舞台で歌や踊りなどの芸をする「キャスト」と呼ばれる人がいます。 彼らが一生懸命、練習を積んで芸に熟達する一方、初心を忘れたと判断されると「クビ」になるんだそうです。 つまり、多少下手くそでも、初めて舞台に上がった時の初々しい気持があると、見る人の心を動かせる。 が、そういう気持を失うと、観客が心を動かさなくなる。 だから、ただ技量だけが上がっても、初心を忘れていると判断されると、舞台に立つのを辞めさせるんだそうです。 で、あらためて初心にもどる訓練というか、指導を試みる。 そんな不思議なことが行なわれているという話を聞いたことがあります。 


もうひとつ、思い出したのは、日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹さんの最後のころの講義を受けた印象です。 湯川さんが教壇で話し始めたとき、とっさに思い出したのが、横山大観の「無我」という絵だったんです。 ちょっと不謹慎なんですが、その絵柄は、両手をだらんと下ろして、ぼーっとした表情でたたずんでいる着物姿の、知恵遅れみたいに見える子供でした。 そこには文字どおり「無心」の雰囲気が漂っていたように思います。 


いうまでもなく湯川さんは中間子理論でノーベル賞を授与された物理学者です。 で、ふだんは枕元にメモを置いておくなど、一生懸命に思考をめぐらしておられたのですが、なにか大きな、決定的な発見をなさったのは無心の状態だったのかなあ、などと考えてしまったわけです。 そういう雰囲気が湯川さんの姿には確かに漂っていました。 


そういえば昨年、やっぱりノーベル物理学賞を受賞された梶田さんも、ニュートリノに質量があることを発見するきっかけになったのは、「実験結果が間違っている」と思われたことにあったんだそうですね。 だけど、その間違いを取り込んだ理論が作れないかという、いわば、今日お聞きした世阿弥の言葉を使えば、「子どもの身体を、技のうちに残せ」というような思いが大発見につながったようです。 そういうことが学問の世界にもあるのかなと感じさせられました。 


あ、最後に一つ、私自身のつまらない体験をお話しします。 それは子供時代に習っていたバイオリンの弓の持ち方に関することなんですが、何度も矯正されて「ある形」ができないと、弓は弦に対して直角に動かない。 それが「無心」のうちにできるようにならないと、バイオリンを弾くことはできないということです。 


くわえて今ひとつ、古希を迎えて、昔やっていたバイオリン、新たに俳句とゴルフを始めようと思い立ったのですが、いずれも「うまくやってやろう」という気持では、まるでうまく行かない。 やっぱり無心にならないと駄目なんですね。 


そういう意味で今日の西平さんのお話には、いたく感じ入らされました。 



荻野


西平さんのお話の中で、山口さんのイノベーション・ダイヤグラムのことが出てきましたね。 山口さんちょっと説明していただけますか。 



山口 栄一 (京都大学大学院思修館教授)




私のお話で、西平さんが感銘を受けたとのことですが、私の話は、科学と技術とイノベーションの関係について述べたものです。 図でいつものように説明します。 


私たちは、研究開発ってよく言いますけど、研究と開発は、人間の全く違う知的な営みです。 研究を横軸に書いておきます。 研究とは、「知の創造」です。 開発を縦軸に書いておきます。 開発とは、「知の具現化」あるいは「価値の創造」です。 真ん中に横線を引いて、その線の下は没価値的世界です。 これを土壌(Soil)と呼んでおきます。 土壌の上は価値づけられた世界です。 




さて、私たちは必ず、先ほどのお話に出てきた「型」からものごとを始めます。 この「型」とは、パラダイムのことです。 私たちは、型から出発して、論理的な思考の枠組みに従って知を演繹的に具現化していきます。 つまりAからA'に行く。 私たちは、常にまずこういう演繹行動をするわけです。 こうして、価値づけられたあるものが生まれます。 これが「技術」です。 例えば、Aのところに電子回路やトランジスタがあるとすると、これをもっといいものにしたい。 ということで、演繹的に上の方に行くわけです。 これは「似する」ですね。 ところが、これは、必ず行き詰まります。 日本企業の悪い癖は、それでも、がむしゃらに、まだ上へ、上へと演繹的に行こうとすることです。 


では、行き詰まったらどうすればよいか。 Sに降りるんですよ。 演繹の逆作用なので、帰納です。 いったん行き詰って挫折を味わった人間は、帰納的に降りて行った時に、違うパラダイムを求めます。 そうして創発をする。 これこそが「似せぬ」だと思います。 これでPつまり新しいパラダイム=新しい型が見つかり、ここからもう一回這いあがることによって、新しいイノベーションA*に達する。 これが「似得る」だと思います。 花が咲く。 イノベーションダイヤグラムでは、このA*のことを「パラダイム破壊型イノベーション」って呼んでいます。 大事なことは既存の技術「似する」を突き詰めていって行き詰まったところA'から、「似得る」のところA*には直接行けない、という点です。 土壌の下にいったんもぐらない限り、土の中にあるPからしか行けないんです。 


つまり型を演繹的に勉強しているだけではA'にしか行けず、いったん、土の中Sに帰納的に降りた者だけが、パラダイムを破って創発に至り、「似せず」という全く新しいパラダイムPに達することができ、そしてA*つまり「似得る」へ行けるんです。 


それから「花を咲かせないこと、無心であることに意味を見出す」というのは、まさにサイエンティストの生きがいだと思います。 サイエンティストは案外、花を咲かせて新しい価値をもたらすということを、あまり求めていない。 むしろずっと土壌の中を横に横に進んで、新しいパラダイムPを見つけることのみに生きがいを見つけようとしているのだと思います。 



中村 桂子 (JT生命誌研究館館長)




西平先生のお話で、子どもという言葉がキーワードとして出てきました。 実は、その更に先に動物がいるわけです。 おそらく無心でしょう。 彼らに心があるかというのはひとつの問いですが、恐らく、私たちの心と通い合うものはあると思うのです。 いつも動物の方を考えているものですから、それと結び付けて考えてみます。 世阿弥で「似する、似せぬ、似得る」というところ、これは真似るとすると、動物はできるのです。 


しかし、動物にできないことがある。 みなさんよくご存じの松沢(哲郎)さんの研究で、人間以外にできないことが分かったのが「教える」ということです。 そこで、世阿弥のお話の中には「教える」はないんでしょうかというのが私の問いです。 世阿弥は「似する」「似せぬ」と言いきっているけれど、「どこにも教えるという感覚はありませんか」と伺いたい。 チンパンジーのアイちゃん、とても賢くて学びます。 でも、教えることはしないそうです。 今のお話をうかがっていて、まず、この教えるということはないのだろうかというのが、感じたことでした。 


それから、もう一つ「型」です。 若いころ、少しお茶をやっていて、教えられた時、「型だ」と思っていました。 けれど、ある程度やって、特に、私が、科学を勉強するようになってから、「この動きは何て合理的なんだろう」と思うようになりました。 もうほとんど、次何をやるか、ここに何を置くか、という動きが、もうこれしかない。 順番にやるとしたら、ほかのことは絶対できないということになっていることに気がついたのです。 おそらく、積み上げ、積み上げやってきた型というものの中には、先ほど、押し付け、内側の動きを妨げるとか、促すとかおっしゃいましたけれど、おそらく、ずっと残っているような型は、とても合理的なんだと思うのです。 


人間って、やっぱり合理性が好きなんです。 サイエンスは因果を求めますが、科学でなくても、人間は合理性が好きで、それがあると安心すると私は思っているんです。 だから、型の中には、この合理性が入っているのではないかと思いながら聞いていました。 




西平


今の中村さんのお話の最後の「何て合理的なんだろう」という箇所、そうなんだろうと思います。 「型に縛られる」っていう言葉で理解される「型」のニュアンスとは、だいぶ違いますね。 合理的っていうのは、四面四角だったら合理的ではないですよね。 このくにゃくにゃしている命の営みを、それ相応に形にするわけですから。 柔軟である、しかし、あるところを超えてはいけないということを、蓄積の中でうまく残していくのではないかと思うんですよ。 科学の言葉では、何というのでしょうか。 揺れることはできる、でも、これ以上揺れてはいけない。 ですから型も幅を持っているように感じているんです。 



中村


生き物はそうですね。 揺らぎの塊、矛盾の塊ですけれども、ある制約はあり、それを超えることはできない。 例えば、赤ちゃんが生まれてきますね。 その時、鼻が高いとか、低いとか、いろいろな性質を持っている。 更には、指が少ない場合もあります。 けれども、私は、生まれて来たら、これは完璧な存在なのだと思うのです。 生まれられない個体がたくさんあるわけです。 だから、生まれたということは、今おっしゃった、「枠」、人間として存在していいよという枠の中にいる。 これ以上外れたらだめという時は、生まれてこられない。 そういう場合の方が多い。 生まれていいよ、生き物として生きていいよという幅が、あるのです。 ですから、今ここに存在しているのは、いいよと言われた存在なのです。 揺らぎと幅とが、具体的にはそんな形で出ているのです。 



高田


中村さんのお話を聞いて面白いなと思いつつ、少し別のことを考えました。 それは人間も、ほんとは教えるということができていないんではないかということです。 今ひとつ、チンパンジーも習うことはできるんですね。 が、彼らが子供たちに教えることはできない。 



中村


そう、習う、学ぶ、この「似する」ができない。 



高田


でしょう? つまり世阿弥は「曲は習うことも教えることもできない」って言ってるんじゃないですか。 で、習うことができるのは「節」のみ。 節は異なった周波数の並びですから、そのまま簡単に楽譜に書ける。 だけど、それを見て演奏しても、人によって、すごい演奏になったり、凡庸な演奏になったり……この違いというか、「曲」を「演奏の仕方」と単純化しても、それは教えられないし、習えない、ということではないでしょうか。 で、おそらくそれは、それぞれの人が持っている、体や気持の状態から滲み出てくる、ということなのでしょう。 


そういえば人間の体調を示す指標の一つに不整脈があります。 極端に脈が乱れるのは、なにがしかの病気の結果だとされる。 ただ、これとはまったく逆に、脈が非常に正確に均質に打ち始めると、だいたい、その人は死んでしまうんですね。 元気な人の脈拍は、いわば1/Fの揺らぎを刻んでいます。 そういう揺らぎのなかでこそ、生命は維持されるのだというわけです。 


で、ここで言いたいことを短く表現しますと、ぼくらが「教えられる」と思っているのは、そういう幻想を持っているだけなんだということではないかと思います。 



中村


私も、実は、そうではありませんかと言いたかったのです。 人間だけが教えられると言って、教育科を作っているけれど…本当にそんなことができるのと言いたかったのです。 人間は、学校を作り、教育をしているけれど、教えるとはどういうことなんですか、それができることですかって、喉まで出かかっていたんです。 



山口


教えることの可能性について論じてみたいと思います。 さっきの図(イノベーション・ダイヤグラム)でいうと、このA→A'が「似する」ですね。 教育は何をしているかというと、ずっと、この演繹を教えているのだと思います。 


教育にとって厄介なのは、創発、Abductionです。 Abductionは演繹的に教えられない。 「節」は教えられても「曲」は教えられない。 創発はまさに「曲」です。 ところが大学院では創発を教えなければいけない。 例えば博士。 博士は、研究して、誰も知らないことを知ること、見たことのないものを見ることですから、まさに創発です。 これ、教えられないことですから、ここに大学院という教育機関の自己矛盾性がある。 それで、私の逆説的な問いかけは、教えることのできない「創発」をいかに教えるのか。 それが、大学院というものが持つジレンマなんだろうなと思います。 



高田


それを、非常に短い言葉で捉え直すと、かつて日高敏隆さんがおっしゃったことにまとめられるかもしれません。 つまり日高さんは滋賀県立大学を立ち上げるとき、「学生を育てることはできない。 だけど、彼らが育っていく環境を作ることはできる」 
と言い放ったんですね。 



中村


これも、松沢さんがチンパンジー研究で気づかれたことなんですが、人間だけができるのはイマジネーション。 


イマジネーションは人間しかできない。 結局、創発とか創造は、私は、イマジネーションからしか生まれないと思っていて、じゃあ、イマジネーションは教育できるかというと、そんなことできるわけない。 そこで、日高先生の言葉のように、イマジネーションができるような場所を作っておくというのが、もしかしたら教育の場なのではないかと。 教育を否定するわけではありませんが、そんな気がします。 すみません、教育学っていうのはあるんですよね。 



西平


折角、教育学に言及していただいたので、ちょっとお話します。 教育学というと、普通、「教える技術を学ぶ学問」と思われています。 そして確かにそれが中心ですが、その意味では、ぼくは、教育学から、はみ出しています。 むしろ、「教えられないこと」がとても気になるんです。 ところが、教育学の教員として飯を食っているので、教えるということを無視することはできないわけですね。 つまり、「教えることができないはずのこと」をどうやって教えるか。 


「教えることのできない領域」について、例えば、イマジネーション育てるとした場合、何ができるか。 何が助けになるか、あるいは、せめて何はしない方がいいのか、そういうことを考えるわけです。 



中村


最低限、何かやらなければならないことがあるんでしょうね。 



西平


そうなんです、そうなんです。 放っておけばいいとは思えない。 



山口


なくとも、そのアブダクションを経験してパラダイムを突き抜けた人間がいて、学生たちは、その人間の人生を見てないといけない。 このA'に演繹的に行けたら教育は終わりなんだっていうのじゃ困っちゃう。 



中村


だから、湯川先生がいてくだされば、「真似る」でいいんですね。 教えてくださらなくても、真似ればいいんです。 







荻野


みなさん学術、学芸を極められた型の討議なので、このままで、ずっと聞いていたい気もするんですが、やはり、この、きょうのテーマに落としていかないといけないんですね。 それで、ちょっと、落とすつもりが、すごく抽象化しちゃうかもしれないんですけど、今のお話を受けて、何が、一番広く一般の人たちの共通項に入るんだろうかと思った時、「人生を教えることはできるのか」いうことが言えるんではないでしょうか。 よく「自分探し」ということが言われます。 何故かこの二人を、例えば、写真家をめざしているという人が私のところに訪ねてきて、「写真家になるにはどうしたらいいか」って。 なりたかったら、なれてるのでは、と聞くと、撮りたいものも決まってないので、という。 撮りたいものがわかってないなら、写真なんかやらなければいい。 この場合、写真家とか、やめればいいじゃないで済むんですね。 お能も学問もわからないならやんなきゃいい、といえる。 でも、人生は、「やんなきゃいいじゃない」とは、なかなか言いにくい。 


それで、大変難しいかもしれないですけど、教えることができない人生、でも、迷っている人たちが多い時代に、この後の人生を発見するための「場」を整える、もしくは、この山口さんのお話に出た構図を使って、人生を発見する何かを創造できるのか、そう言った「工夫」はあるのか、人生に悩んでいる、戸惑っている現代人に、「無心」という言葉でどうやってアプローチするのか、みなさんのお話を聞きたいと思います。 



山口


私は、横に行くアブダクション、このメカニズムのことをブレークスルーというわけですが、じゃあ、「人生のブレークスルー」ということにしましょうか。 人生のブレークスルーというのは、要するに、自分の持っていたある種のパラダイムを壊すことですね。 どうやったら壊せるかっていうのは、結構、今回のワールドカフェでは面白いテーマになるだろうなと思います。 あのう、お年を召した型は、何度もそういうことを経験されていると思いますので。 


一言だけ、言うとすると、堀場雅夫さんがいつもおっしゃっていた教えがいくつかあるんですね。 その中で、これいいな、人生のブレークスルーがあるなあ、と思うのがあるんです。 それは、「人生は櫃まぶしだよ」っていう言葉です。 ご存知ですか。 私はある時、堀場さんとお話したことがあるんです。 それは、「私、40歳の時に、今までの人生をちょっと捨ててみようと思い、会社を辞めて、完全なフリーランスになり、そして、まったく違うことを始めた。 すると、新しいドアが開いて、そこに入ってみたら、まったく違った風景が見えた」ということを言ったんです。 すると、堀場さんはニヤッと笑って、お前は、まだまだ若い。 まだ2回しか楽しんでない。 人生は3回楽しまなければいけない。 40歳でブレークスルーが必ずあって、人生はブレークスルーしなきゃもったいない。 60歳でまたブレークスルーしろ。 人生は櫃まぶし、3回楽しめるっておっしゃったんです。 これどうでしょう。 



高田


ぼくの場合は、ひたすら無計画、ですね。 まあ、その場その時のなりゆきだけでやって来たので、偉そうなこと言えません。 という意味では「無心の状態」でこれまで暮らしてきたとも言えようかと思います。 



荻野


高田さんにとって、ブレークスルーって、あれがそうかなっていうのはありましたか。 



高田


ブレークスルーなんて、なかったと思います。 大昔に流行った歌謡曲の「侍ニッポン」の歌詞のように「その日その日の出来ごごろ」でやってきたのが、今の今までつながっているんでしょう。 ぼくの場合、卒業したのは理学部なんですが、卒業直後はトラック運転手、以下、大工の下働きをしたり、酒場を経営したり……余り何も考えずに今日まで来たように思います。 ただ、その時その場では、何とか食えるようにする必要があったわけで、結果、こういうことになったわけです。 そういう意味では、やっぱり「無心のままで来た」というほかなさそうですね。 



山口


大学を出た時からが、その瞬間がブレークスルーじゃないですか。 



高田


ああ、そうか! そうかも知れませんねえ。 



荻野


中村さんいかがでしょう。 



中村


私は、今しかない。 今が一番好きなんです。 未来をどうしようと考えたこともないし、過去も考えない。 ただ、みなさん無心、無心っておっしゃっているのを伺っていて、「忙(いそがしい)」という字を思い出していました。 これは心が亡(ない)って書きますね。 無心って言うととてもすごいみたいだけど、この「心がない」は、今の社会、とても忙しい。 この忙しさに、みんなもう、何か潰されていると思うのです。 それは、心をなくしていることだと思うのです。 私は、今が好きで、日常さぼろうとかは思わないでやっているのですが、その時に、みなさんに忙しいと言われると、とても嫌なんです。 「私は忙しくない」という。 どういう状態が好きかというと、やることがたくさんあること。 だから、私は、忙しいという言葉は使わないで、「きょうはやることたくさんある」と言うんです。 


それで、今を大事にする。 ほんとに、日常的にやることがたくさんある状態で、それを一生懸命やるということが、わたしにとっては生き甲斐。 忙しいと言わないで、やることがたくさんあるという状況が、私にとっては一番楽しい生き方だと思っています。 だから、あんまり難しいこと考えませんし、ブレークスルーをしようとか、そういうことは考えたことがない。 でも、やることをやっていると、まあ、何ができるかはわからないけれど、きちっと生きるということだけはできますよね。 何かができるとか、そういう問題ではなくて、きちんと生きるということができます。 それをやっていると、いやになるとか、そういうことってないんじゃないかなと思うんですけど…。 



荻野


「忙」をそういうふうな意味で使っていらっしゃる方がいるかどうかわかりませんが、では、心をなくしてしまっている人たちは、なぜ、そうなるのでしょう。 なぜ、そんなことになるのか。 中村さんは、それがないようですが。 



中村


「忙」はあえて、それは使わないようにしているんです。 この字が嫌いだから。 それにしても面白いですね。 無心はよくて、心をなくすのはいけないって。 



荻野


西平さんいかがですか。 



西平


折角今、「忙」、「心がない」が出てきたので、その問題に重ねるのですが、「無心」という言葉は、普通、あたかも「よいこと」のように語られますね。 ところが、「無心」という文字は、心が無い、例えば「心無い人」っていうのは、ひどい人を意味します。 「心ある人」の方がいいわけです。 


つまり、「心ある」ことが、一方ではよいことであり、一方ではそれこそが、苦しみの元凶である。 心という言葉が両面を持ち、それに対応して、無心という言葉も、一方では良い意味で使われ、他方では否定的な意味で使われます。 例えば、古語においては、「心無い」という意味でした。 その用語法がかろうじて残っているのは「お金を無心する」という表現です。 厚かましくも、とか、相手のことも考えずに、という意味での無心。 無心という言葉は、このように、それ自体いろいろ混ざっていて面白い言葉だと思います。 


それで、迷った方のことなんですけど、…、迷っちゃう人は迷っちゃうんですよね。 例えば、今、中村先生が「今が大事で」とおっしゃられたように、今をそのまま生きることができるタイプと、他方では、一回そこから滑り落ちて、滑り落ちた後からでないと「今」を体験しないタイプの人もいるわけです。 哲学のような領域に関心持つのは、後者のややこしいタイプの人ですぼくは、やっぱり、この「無心」のところにいることの意味をもっともっと、大事にしたいと思います。 芽が出る方は測定がしやすいし、発信しやすいですけど、「無心」にいる時は「引きこもり」といわれたり、アピールが足りないとか言われてしまう。 だからこそ、この「無心」にいることの意味をもっと大切にしたいというふうに思うんですね。 







荻野


では、この辺で会場からのご意見をうかがってみましょう。 



阿部 久恵 (京都大学大学院思修館)


ひとつは、忙しいということ、心がない、無心の話なんですが、アメリカで、戦争から帰ってきてトラウマのある兵士に、精神科医は「多忙にしてください」とアドバイスしたそうです。 スケジュールをびっちりにして考える隙間を与えないことで悩みを克服するよう言ったわけですが、これを知って、現代人にとって、忙しいというのが、必ずしも悪いことではないんじゃないかと思いました。 


質問ですけど、さっきの「下地」の部分の話です。 子どもの振る舞いが基本で、上達していくにつれて、「似せぬ」の部分になった時、動きが同じになり、それが究極的な目標であるとおっしゃったと思うんです。 では、その後、「似得る」になった時、元の子どもの動きがなくなってしまうんじゃないか。 



西平 


とっても厄介な問題ですが、「似得る」は二重だと思います。 二重というのは、中にずれを含む。 それに対して、子どもの時の動きは「ずれがない」と。 だから「似得る」では、ずれを背負い込むという仕方で、子どもの時の動きを表現する、というしかない。 ずっと、子どもの時の動きをそのまま持続させるというのは難しいように思います。 



山口


そうだと思いますね。 多分2種類あって、「似得る」=A*をゴールポイントとしている人間と、「似する」=A'をゴールにしている人間がいると思うんですよ。 



高田


その回路を、らせん形で考えられませんか。 さしあたってのゴールに到達すると、そこからレベルが変わって、より高いレベルの新しいらせん形を辿るようになる。 そういう構造を考えると、「似得る」に到達しても、また新しい初期状態に戻ると考えればいいわけです。 そういうらせんモデルを想定すると、未来永劫に遊んでいたらよろしいということになって、たいへんハッピーだという気がします。 


それと、蛇足ですが、さっきの忙しいという話――ぼくも「お忙しいでしょうが……」などと言われるのですが、そういうとき、「いやあ、ぼくは暇ですよ」と応えています。 といいいつつ、やることはいくらでもあります。 「似得る」ところまで行くと、さらに上に行ったり、あるいは下にいったり……いろんな可能性が残されていますから。 



西平


「遊ぶ」という言葉がでましたけど、ぼくは、自分の中の相反するものっていうか、葛藤みたいなものの方に目を向けてしまうのです。 ですから「螺旋的に」うまくいくっていうより、常に逆の動きが生じて、引き裂かれていくという方が、納得いくというのか、安心できるのです。 



中村


私に生き物って何ですかと聞かれたら、「矛盾の塊」と答えます。 だって、多様で共通とか、相反することを全部抱え込んでいるのが生き物なんです。 矛盾がなくなった時は、死んだ時です。 生きることをやめたら矛盾は消えるんです。 


だから、西平さんのお気持ちわかるのですけれど、私から見ると、それをなくしちゃったら生きているということにならないと思います。 多分、大人になるということは、青の重なりを自分の中に抱え込めよということだと思っているのです。 それがあってはいけないとなると、大人になれない、っていうか、生きていけない。 


全く子どものままで、私もそんなところがありますが、まったく子どものままではいかれないでしょう、社会では。 すると、二重になりますよ。 二重にならないと生きられないでしょう。 これをつらいと思ってしまうと。 とても大変だけれど。 ほかの生き物を見ても、みんなそれをやっているから、これが生きることなんだと納得してしまいます。 これが、生物学をやっているメリットだと思っています。 



山口


あの、ひとつだけ、あえてアンチテーゼを投げかけると、おそらくは、99%くらいの人間は、「似する」=A'で止まっています。 だから、パラダイム破壊の後の世界に行けていない。 だから、「似せず」=Pと「似得る」=A*に行くっていうのがどういうことかというのが、すごく大切な考察だと思いますね。 



荻野


私が、もっとも残念に思っているのは、自殺をしてしまった二人のことです。 ひとりはダイバーのジャック・マイヨール。 もうひとりが、作家のアーネスト・ヘミングウェイです。 両方とも会ったことないんですが、自分が写真をやっていくんだとすると、何故かこの二人を、目指すんだと思うんですね。 彼らの世界観、彼らの到達点。 二人とも「青」の段階だと思いますが…。 この私の大好きな二人が、ともに、自殺しちゃったんですね。 これ、明石家さんまさんだったか、桂枝雀さんだったか、「人間はあそこまでいくと、死んじゃうんだ」とおっしゃっていた。 さんまさんは、「そこまでいかないようにしている」とおっしゃっていたように思います。 私は、実は「青」いところが怖いんです。 まあいけないんですけど、そこはすごく怖いところで…。 西平さんとしては、目指すのはあの「青」のところですか。 



西平


まあ、そうですねえ。 困りました。 それと先ほど「自殺」という言葉が出てきましたけど、その言葉で、全部まとめてしまうのはどうかなと思います。 もっとそこには多様な厚みがあって、例えば、「自分で去っていく」という事態もありうることのようには感じています。 



荻野


はい、ありがとうございます。 残念ですが、もう、時間が来てしまいました。 それで、この後のワールドカフェのお題なんですが、今の流れのまま、きょうのテーマそのまま持ち込んで、お話しいただきたいと思います。 ありがとうございました。 





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