活動報告/クオリア京都

 


 

 

第4回クオリアAGORA_2014/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

堀場製作所最高顧問

堀場 雅夫 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院理学研究科教授

山極 寿一 氏


京都大学大学院思修館教授

山口 栄一 氏



精神科医 ACT-K主宰

高木 俊介 氏





山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)




すごく面白い話をしていただきました。 とても示唆に富んだお話だったと思いました。 私の記憶によると、認知症が日本の中で一般に知られるようになったのは「恍惚の人」という作品が出てきてからで、それまでも認知症というものがなかったわけではないが、病名としては認知されていなかったと思います。 私は、アフリカでずいぶん仕事をしていますけども、やはり、そこにも、いろんな人、いつも、少しおかしな人がいるんですね。 それが、子どもたちと遊んでいたり、高木さんのお話でもあったように、そこで、みんなに愛されていたり、まあ、普通に暮らしている人と、いろんな関わりあいを持っているんですね。 だから、「コミュニティーの力」がしっかりしていれば、いろんな、少し障害のある方も一緒に生きていける。 日本にも、そういうコミュニティーの力というものがあったはずなのですが、それが今なくなってきている。 そのため、障害のある人が、コミュニティーの中で生きられなくなり、病院の中で生きる力を失っていくというのが、一般的に見られるようになってきた。 高木さんのお考えは、こういう現状から、もう一度この地域の力を取り戻していきたい、ということだったと思います。 


そこで、堀場さん、きょうの参加者の中では、一番長く生きておられるわけですが、高木さんのお話を聞かれて、何か、感想とかお話いただけますか。 



堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)




私もですね、いろんなお医者さんに「認知症って、どうなったら認知症なんですか」と聞くんですが、これがよくわからない。 よう物忘れもするので、それで、簡単な数学の計算とかのテストをしてもらうんですが、いつも30点満点。 でも、例えば、12時に何か約束をしたメモしていて、電話だったかなと思っていたら、やはり電話はかかってくるんですが、実は、「会う約束をしていたのにどうしてこない」という電話だったり…とかいうことがある。 で、こんなことのある人は、ようけおると思うんですが、やはり心配になって、お医者さんに相談すると、「それは加齢です」と言われてしまう。 「加齢はわかっていることで、それが困るからなんとかしてください」、というと、「なんともなりません」と。 


まあ、私は、「おもしろおかしく」を社是にしているぐらいで、何いわれても「おもしろおかしく」してしまうんですが、そういう人ばかりではない。 加齢といわれたら、だんだん、「もうあかんのかいな」と思う人もいると思います。 だいたい、「死ぬまでは生きますよ」なんて、わけのわからんことで納得して、しょうがないかと元気をなくしているようなケースが多いと思うのです。 が、そういう人にもっと、前向きな明るさを与えることが大事なんではないかと思うんです。 元気づければ、年寄りも元気になっていくと思うんですが、高木先生どうでしょう。 



高木 俊介(精神科医 ACT―K主宰)




最初のほうの、どっからが認知症かという話ですが、みなさんには、病気は、医者が診断するものという誤解がある。 精神病の場合は、全然違うんです。 不思議なことですが、社会が、この人ちょっとおかしいといって、われわれの元に連れてくるんですよ。 本当におかしいのかなと思っても、そういって連れてこられると、真面目な医者ほどその患者さんを帰すわけにはいかなくなるんです。 もし、帰した1週間後ぐらいに、なにかたとえば認知症なら認知症のはっきりした症状が出て、家族にいろいろ言われてはいかんと思うから「まあ、様子をみましょう。 薬を出しておきましょう」ということになる。 「全然おかしくないですよ」とはなかなか言えないんですよね。 精神科の病気というのは、なぜか社会が診断する。 ですから、社会がギスギスしてくると、社会によってオカシイ人だと「診断」される人が増えてきます。 鬱に関してもそうです。 若い人が、自分でネットを見て、「鬱じゃないでしょうか」といってきたりします。 そんなふうになってますから、精神科の病気は、そもそも区切りがないんです。 



山極


高木さんは、地ビール造りをやって精神障害者の自立をめざしておられるんですけど、酒に関連していうと、最近、浴びるほどたくさん酒を飲むということがなくなっていますよね。 この酒を飲まなくなったというのと、鬱とか精神病というのは何か関係していますか。 



高木


酒を飲まなくなったからというのは、どうなんですかね…。 酒を飲んで正体もなくなるほど酔わなくなったのは、恐らく、自分の醜態というものを人に晒せなくなっているんじゃないですかね、若い人が。 本当に飲まなくなっていますからね。 ただ単にお金がないというだけじゃなくて。 昔は、金なんかなくても、たくさん飲みましたけどね。 



山極


酒のことといえば酒場の経営者でもあった高田さん。 



高田 公理(佛教大学社会学部教授)




はいはい。 1970年前後に私は、京大のすぐ近くで小さな酒場を経営していたのですが、当時は不思議な、それも実に多様な個性に彩られた人物がやってきたように思います。 で、そういう人が酒に酔うと、さらにおかしくなってしまう。 


「このやろう」などとつぶやきながら京大のまわりの塀をげんこつで叩く人。 やってきたやくざにからまれて、「おう、刺してくれや。 前まえから死にたい思うてたんや、ちょうどええ、わっぱで刺してくれや」そう言い放って、やくざをひるませる人。 


でも1970年代以降、徐々にそういう風変わりな人を受け入れる余裕が、世の中からなくなってきて、ちょっと常識的な水準からずれると、なかなか受け入れられないといった状況がもたらされてきたような気がしますね。 


それを酒とのかかわりで一言でいうと、かつては確かにあった「泥酔の美学」とでも呼ぶべき、ある意味では不思議な価値観が退潮の趨勢を辿ってきたということでしょう。 


ところで、精神病というと、半世紀ばかり昔にぼくらが習ったときには、精神分裂病と躁鬱病と癲癇の3種類しかなかったように思うのですが、今日のお話をうかがうと、そういうカテゴリーそのものが大きく変化しているのだということに驚かされました。 


それと同様に、堀場さんがおっしゃるように、昔は「年寄りやから……」で済ましていたことが、認知症という名前の病気になった。 まあ、このことは高齢者が増えてきたという社会現象と重なっているのでしょうが、精神の病に関する知見は、大きく変わってきたのですね。 



高木


鬱鬱病に関しては、ちょっとこの図を見ていただきたいんですが、(資料)90年代後半から、鬱病が急増していて、驚くほどです。 実は、これは、薬を売らんがために、鬱病の診断を広げていったんです。 最初に日本で、新しい鬱病の薬として売られたのは、グラクソスミスクラインのパキシルという薬ですが、その前に、アメリカで有名になった薬は、イーライリリーのプロザックで、80年代のアメリカで「魔法の薬」と言われ、「鬱病が治った」「人生が明るくなった」などと宣伝されて、ものすごく売れたんです。 それで同時に鬱病と診断されてその薬を飲む人がどんどん増えていったんです。 でも当時、日本には鬱病が少ない、アメリカのようには鬱病が多くないということで、イ社は、日本での発売を見送ったんです。 ところが、グ社は、イ社の米国での宣伝のやり方を見習って、日本で、同じ宣伝をやった。 すると、すごく売れたんです。 で、こうして、アメリカから10年遅れて、日本で鬱病の診断が増えていったというわけです。 



私が、精神科医になった時は、鬱病の診断は、このように診断するという非常に厳しい基準があり、それ以外の、鬱病かもしれんというのは、多くは、人生の悩みということになったんです。 ところが、今は、「ちょっと落ち込んでいます」というレベル、例えば失恋で落ち込んでいます、というのでも、鬱病と診断され、薬を処方される。 



高田


酒場の話の続きをしますと第二次大戦後、主としてアメリカから、いわゆる民主主義や家電製品、自動車など、実にさまざまなものが入ってきたわけですが、入ってこなかったものもある。 その代表が、アメリカ映画にしばしば登場するサイコセラピストなんですね。 


というのも高度成長期には、日本人の多くがノイローゼというのか、いろんな神経症状に陥ったわけです。 で、そういう人を助けるには、その人の悩みや不満や愚痴を、ひたすら丁寧に聞くのが、たぶん唯一の方法なのでしょうが、そういう役割を、じゃあ誰が果たしていたのかというと、さまざまなタイプの酒場……スナックやバーのママや小料理屋の女将さんだったのではなかったでしょうか。 彼女らは酒を飲ませながら、実に巧みに客たちの話を聞いて、その悩みや不満や愚痴を昇華させてくれたように思います。 


そういう時代には精神科のお医者さんは余り必要なかった。 で、実際に数も少なかったのではないかと思うのですが……。 



高木


必要なかったです。 酒場のママは仰るように昔の精神科医です。 



高田


でしょう? ところが1972年ごろから酒場にカラオケが普及して、酒場の雰囲気ががらっと変わっていく。 スナックやバーのママが、客の話を聞くという面倒な対応をやめて、接待の相当部分をカラオケにまかせてしまう。 まあ、カラオケの普及だけが、こうした変化をもたらしたわけではないのでしょうが、そうしたプロセスが進行してきた結果、他方において精神科のお医者さんやサイコセラピストが増えてきたのじゃないか。 酒場の変化と精神疾患をめぐる諸現象の間には、なにか深い関係があるような気がしますね。 



山極


山口さん、ここまでお話を聞かれ、いかがですか。 



山口 栄一(京都大学大学院思修館教授)




長年の疑問が氷解しました。 精神障害者も含めて、われわれにとって一番大事なことは、やはり「人間の尊厳」なんですね。 ちょっと、私の体験した事例を紹介してから、質問をしたいと思います。 


私の教え子が大きな事故に合いまして、生死の境をさまよった後、元気になったのですが、からだが元気になった途端に現れたのが、PTSDでした。 PTSDっていうのは、厄介なもので、まだ彼女を蝕んでいます。 事故は2005年で、それから2年ほど経ってから発症しましたから、もう7年以上も苦しんでいるわけですね。 いろんな艱難辛苦があり、最終的に神戸大学の精神科病棟に入りました。 そのことを私は知らずにいました。 ところがある日彼女から電話がかかってきて、1日に3分間だけ隔離病棟から電話がかけられるというんです。 もちろん携帯電話は取り上げられている。 彼女は、そんな隔離病棟に入れられるほどひどい症状じゃない。 そこで病院に「会わせてくれ」といったんですが、「家族じゃなきゃ会わせられません」と頑なに拒否されました。 彼女は、薬を飲まされていた。 でも結局それは、彼女のためではなくて、単に穏便に入院させておくために飲ませているんですね。 


このケースからわかったことは、精神病院は、人間を人間たらしめる状況に持っていくためにあるべきなのに、日本の文化は、「人間の尊厳」を根源に置いていない。 だから、精神障害の人たちは隔離する。 それで、周りの人間が安寧な生活をする。 そのために精神病院というものがあるということです。 


どうして会わせてくれないのか、と思っていましたが、今の高木さんの話を聞いて、どういうことか、日本の状況がよくわかりました。 少なくとも欧米では、そういうことを乗り越えて、在宅ケアという方向に行っている。 つまり、それは何かというと、精神障害の人だって、きちっと人間の尊厳は守られる方向に行かなきゃいけないというふうに社会は進んでいるということなんですね。 


確かにそうなんですが、それでもなおかつ、私は、精神障害の方々をどうやったら社会に復帰させられるかと思ってしまいます。 日本の場合、受け入れは欧米のようなわけにはいかないだろう。 地域ケアの中に持っていった時、社会が、地域が、精神障害をどうケアしていっていいかわからないだろうし、すごく不安だと思いますね。 それを乗り越えて、なおかつ地域ケアができるなんていうのは、どういうことで可能なのか。 つまり、ヨーロッパ、アメリカは、どういうやり方をしているからこういうことができるんでしょう。 高木さんは、これを実践されていらっしゃるわけですが、実際に、精神障害を地域でケアするというのはどういうようにされているんでしょうか。 



高木


私も、すべてが上手くいっているわけじゃないです。 全然手も出せないというケースもあります。 精神障害にもいろいろありますけど、統合失調症の方っていうのは、本来は、エネルギーが非常に少なくて、人間関係を最小限にして、静かに自分の世界にいれば、安定するんです。 幻覚や妄想の自分だけの世界と現実の世界をうまく妥協させて…。 よく笑い話にありますでしょう。 精神障害の人が、風呂場で釣りをしていたところへ医者が通りかかり、その医者が「釣れますか」と聞くと、その男は「風呂で釣れるわけないでしょう」と答えるというやりとり。 これとおんなじことが実際に起こるんですよ。 例えば、盗聴器があるというんで、われわれが一生懸命探していたら、「そんなみっともないことやめてください」と患者さんにいわれたりします。 統合失調症の人は、空想の世界と現実の世界が、すごく二重写しになっていて、その中で現実から痛い目にあって孤立していくんですね。 この人は自分の世界を破壊しない人、という信頼感があれば、普通につきあえる。 ただ、エネルギーがないから、日常生活には何らかの助けがいる。 ですから、私はよくいうんですが、「安全で自由で絆があれば、精神病の方も支援でき、地域で暮らせる」。 安全っていうのは、「自分の世界が脅かされない」ということで、自由が脅かされない中で、自分なりの人生を送れるということ。 そして、それを助けてくれる絆、隣人、サポーターたちがいる、ということです。 


それから精神障害の人は、俗な欲がない。 変な欲がない。 で、人間関係に関しても敏感なわりにすごく素直です。 ですから、仕事なんかに行ってもとても好かれることが多いんですね。 健康人はもっとやりにくい。 それから、これは認知症の方にも言えますね。 あの、幻覚、妄想が激しくなっていって、自分のいろんな記憶とかがどんどん壊れていって、不安でたまらんわけですね。 自分が覚えている昔の世界に戻りたい。 でも、それを、邪魔されるとカーッとなって騒ぎになるんです。 そういうつきあい方があるんですね。 そこを乗り越えれば、認知症の人は進行とともにどんどん穏やかになっていきます。 



高田


なお話を聞いていて思い出すのは昭和20年代、ぼくの住んでいた京都の下町、中央市場の近くの小商店が並んでいた街の風景です。 


その当時、氷詰めの魚の輸送には、現在のような発泡スチロールではなくて、木のトロ箱が使われていたのですが、そのトロ箱を毎日まいにち、それも一日中、家の前の道路脇に座って、ひたすらトントン、金槌を振るって作っている爺さんがいたわけです。 まあ、それ以外に、その爺さんにはできることがなかったのでしょう。 ですから、まわりの人に尊敬されることもなかったようですが、逆に、他人とのコミュニケーションを強要されたり、馬鹿にされたりすることもなかった。 


そう思って当時の、ご近所の人たちの暮らしぶりに目をやると、パン屋さんも八百屋さんも、店頭に並べた商品を売るに際しては、お客との気楽な世間話を交わすだけで良かった。 特段のコミュニケーション能力などを身に着けなくても、ちゃんとメシが食えたわけです。 


ところが、高度経済成長以降、こうした仕事の多くがスーパーやコンビニなどの巨大企業に簒奪されていきます。 で、そういうところに雇用されるには、小難しい理屈を覚えたり、企業社会に適応しうるコミュニケーション能力を身につけたり……かつての小商店主のような暮らし方が許されなくなるという方向に、世の中が大きく変わってしまった。 そうすると、こういう仕事のやり方に適応するのがむつかしい人も出てくるわけです。 


このことは大学にやってくる学生見ていても、よく分かります。 大学では紙と鉛筆と文字の扱い方を教えられるわけですが、どうもそういうことには向かないという人、やがて大学を卒業して企業に入社しても、対人関係を微妙に調整しながらのビジネスを展開するなどということが、まるで苦手という人も出てくる。 それが昔の社会なら、人それぞれに得意な手仕事があったりして、ちゃんと生きていけたわけですね。 


そこで、例えばイタリア社会などを眺めると、生まれ育った街の工房などで、得意な手仕事に励むことで、自らの尊厳を守りつつ、衣食住をまかなっている人たちが少なくないように見受けられるのですが、いかがなものでしょうか。 


さらに台湾で見た祭の風景にも強い印象を受けたことがあります。 その人は、祭の興奮が高じてきたとき、長い針のようなものを右頬から突き刺して左頬に通してしまったのですが、どうも痛みなどは感じていない様子でした。 どうやら彼は一種のシャーマンのような存在で、その尋常ならざる行為が祭の盛り上がりに大いに貢献しているように見えました。 彼が尊敬を集めていたか否かは分かりませんが、こうした存在が日本でも、高度成長期以前にはありえたのではなかったでしょうか。 


実はヨーロッパでも、かつてはそういう変わり者がいたはずです。 ただ、近代化のプロセスで、そういう変わり者は一旦、排除したのでしょうが、その後の社会の成熟に至る長い時間をかけて、前近代には不要であった「ちょっと変わった存在に対する尊厳」の感覚を、あらためて創出したのではないでしょうか。 


今日、欧米では精神疾患患者が尊厳を受けて地域で暮らすようになっているというお話を聞いて、そんなことを考えてみたという次第です。 







山口


この夏休みに、私は、家内と下北半島の恐山に行ってきました。 私はぜひともイタコに会いたかったのですが、しかしイタコ祭の直後で、もうそこにはいませんでした(笑)。 私は家内の父親に会って生前に言えなかったお礼を言いたかったのですが、とても残念でした。 もっとも、家内は何をバカなことを言っているのかと笑っていましたが。 


要するに、これって亡くなった方に心残りを持っている人にとっての「心の安寧を保つシステム」なんだと思います。 日本の近代化というのは、今の高田さんのお話にあったように、そういうものをずっと殺してきちゃったなあと思います。 日本という国は近代化のプロセスで、一途になにかいろんなものを捨てていく中で、ついに「人間の尊厳」というものも顧みなかったと思うんですね。 一方、ヨーロッパは、こういうふうに、はっと気がついて精神障害の方を在宅で治すなんてことをやってしまう。 ちょっとしたパラダイム転換ですよ。 どうしてこんなことが成し遂げられたのか、不思議でならないんですね。 どのようにして、欧米は、在宅医療という方向に、勇気を持って進んでいったのか。 



高木


ひとつは、障害者運動が起きたからです。 特にイタリアの場合は、精神科病院がない国です。 ただ、お金持ちは、プライベートな病院に収容されるんですがね。 イタリアの精神医療をやっている人に聞いたら、イタリアではお金持ちが病気になったら不幸だ、病院に入れられるからっていうんです。 逆に、貧乏な人たちは、いい。 地域社会の中で、家族とともに生きていくことができるわけです。 


イタリアでは、障害者の権利を守る運動が、1960年代後半から起こって、障害者が社会の中で自立すべきという考えが一般化し、色々な試みが行われて来ました。 その中で、78年に、精神科病院が廃止されたのです。 そういう障害者運動があったということと、もうひとつは、採算の問題です。 19世紀の終わりから、政府が、精神障害者を大収容する時代というのがあったのですが、戦争の後、高度成長になってくると、1カ所に収容するということは、かえって利益が上がらなくなってきた。 実は今、日本でも、収容するほうが経費がかかっているんです。 精神科病院は1ベッド1年で400万円。 私のところは1年で120万円、150万円ぐらいです。 これ言うと精神科病院の院長さんたちはかーっと怒るんですけど…。 イタリアでは、収容では採算が合わないという経済的な事情があったわけです。 



山極


堀場さん何か。 



堀場


最近、神戸で、小学生の事件がありましたが、あの容疑者は、その前から、精神障害者的な行動をしていたということなので、なぜ、もっと早く隔離しなかったかという話もある。 ああいう人が、街の中をウロウロしていると思うと、これはみんな恐怖を感じるわけですが、そういう人と、先程からお話になっているんですが、人間の尊厳を守れば自立した生活が送れるという人との違いは、見分けられるものなんでしょうか。 



高木


見分けられないです。 絶対無理です。 例えば、もし、私が、明日、何か事件を起こしたら、ああ、ジーパンなんかはいてティーシャツを着て、そういえば反抗的な人だったとか…。 そういうふうにいろいろいわれるに決まっているんです。 事後的には、何とでもいえるだろうと思うんです。 実際の現象は、精神障害を持った人の犯罪よりも、一般人の犯罪のほうが率は高い。 先程も申しましたが、精神障害の中心である統合失調症は、エネルギーがないので犯罪は起こしにくい。 小学生の件ですが、新聞報道で、容疑者は知的障害があったんじゃないかとも言われていますが、知的障害と犯罪が結びついたかというとそうも言えない。 もしかしたら、ロリコン趣味とか、知的障害ではなく、そっちの方だったとしたら、ロリコン趣味がどれだけ危険かということになって、その場合も、普通の人に比べて、ロリコン趣味の人間はどれだけ危険かということになる。 


やっぱり、報道が非常にセンセーショナルに取り上げるのと、そういう原因を、精神障害者に帰属させたいという目で見ることが、精神障害者は犯罪を起こすということにつながっていく。 客観的に見れば、そういうことはないですね。 



山極


ちょっと、コミュニティーの問題で討論したいと思います。 山口さんや、高木さんの障害者の尊厳を守り、絆というものを確保していけば、自立して生きられるという話なんですけど、多分、1980年以降ですね、だんだん、個人の時間を大事にするようになって、いうならば、自分の時間を、障害者たちと過ごすことによって取られることを恐れたり、忌避したり、あるいは、コストと思ったり、…。 つまり、障害者を囲む人たちが、個人の時間を重視しすぎるあまり、他人の時間の中で生きる苦労をしなくなった。 今は、コミュニティーというものが、人を守ってくれない。 あるいは、安心を与えてくれない。 そういう中で、障害者だけでなくて、いろんな人たちが、不安を抱え、孤立していっているって気がしています。 だから、地域医療だけでなく、コミュニティーをどんなふうに再生していったらいいか、高木さん、例えば、福島でのプロジェクトとかいろいろやっていらっしゃいますが、コミュニティーの再生について、どうお考えですか。 



高木


地域の再生なんて、そんな偉そうなものではないですが、福島はたまたま関わってしまったんですよ。 福島の話がどっから始まったかというと、私が、講演にいったその1週間後に、東日本大震災が起こったんです。 それで、その関係者と連絡がとれなくなって、ようやく連絡がとれた時、最初の言葉が「福島にACT。 訪問医療を教えてくれ」っていうことだったんです。 「そんな場合か。 (放射能から)逃げろ!」といったんですが、「私たちに、どこに逃げろと…」という。 聞けば、彼らも避難したらしいんです。 でも、避難所は、精神障害者を入れてくれない。 ようやく、かみのやまの温泉でということになったが、福島からでしかも精神障害者ということで、そこでも何だか変な具合になり、嫌気がさして帰って来ちゃったという。 もちろん、帰ってきても病院はダメになっているし、どうすりゃいいんだということで、それで、「訪問医療」をということになったようなんです。 そういわれて、何かしないといけないということで、福島の方に診療所をつくる活動への関わりが始まったわけです。 でも大変です。 コミュニティーが原発事故で崩壊しているから、放射能が危険だからと子どもを保養に出すだけでも周囲に秘密にしないといけない。 3年経って、福島に帰りたくない。 八丈島で暮らしたいというようなことを言う子もいる。 でも人が一人でコミュニティー作れるわけではないんで、避難する人たちがきちんと支援されるコミュニティーを用意しないといけない。 


そもそも、私が精神科医になったのも、精神医療をやりたくてなったわけじゃないんです。 京大は、当時、まだ学生運動の名残があったから、教授のいうことを聞かなくていいという風潮があって、…、私そのころ、学生結婚をしていて子どもがおりましたので、嫁さんがで子どもを育てにゃいけないんで、それには精神科がいいというので、精神科に来たんですね。 それで、1年ほど遊んでいたら、「宇都宮病院事件」というのがあって、社会問題になったんです。 精神病患者でもないのに精神科病院に入れられている人がいたり、患者が職員のリンチで死んだりする事件があったんですが、そういう内容を書いた手紙が、その病院にいた岩窟王みたいな人から弁護士さんに届いて、朝日新聞が報じまして、それをきっかけに、日本の精神科病院のあり方が、国際的にも大問題になったわけです。 それを知って、精神科というのは、こりゃえらいことを抱えていると気付いたんです。 確かに、私が行く病院、行く病院でもやっぱり、職員の患者に対するリンチとかあるんですね。 2000年に、大阪の病院でも同じようなことがありました。 そういうことで、精神科とか精神科病院の診療体制のあり方とかを何とかしないといけないといろいろやってきたわけです。 まあ、ものの弾みみたいなところもあります。 



山極


では、ここらでフロアから…。 高木さんへの質問があればどうぞ。 



村瀬 雅俊(京都大学基礎物理学研究所准教授)




施設症のこととか医療におけるメリット、デメリットのお話がありましたが、これは、デジタルメディアにおいても同じことが言えるのではないかと思います。 新しいデジタル機器がどんどん普及して、ぼくたちがそれに乗っかっていて、依存しているから、まさに何か施設症と同じことになっているのではないか。


例えば、教育のデジタル化に積極的だった韓国で、教育にコンピューターを使うことに反省が出て、二の足を踏み始めているんです。 それは、病院で病気が治るというメリットの一方で、施設症というデメリットがあるのと同様に、便利さと引き換えに自由さとか自立性が失われるということに気付いての反省のようなんです。 高木さんの在宅ケアの方向というのが、教育においても参考になると思うんですが。 



高木


私、きょうは使いましたけど、今年になってから、講演でも、パワーポイントを使うのをやめたんです。 考えてみれば、例えば講義というのは、本来、学生が先生の話を聞いてまとめるものだと思っていたのですが、パワポが出てから、これが逆になって、教師がまとめるという風になってしまった。 便利で、考えをまとめるのにいいと思って使ってみたら、逆に考えをなくすための道具だった。 そういうことが、色んなところにあるんじゃないか。 


それで、デジタル化ということについていうと、このデジタル化についていけていけない人、統合失調症の人、使えないですね。 軽度の認知症とか発達障害の人…。 こうなると、仕事につけず、労働予備軍にもなれず、昼間からぶらぶらして、こういう一群の人たちが社会の中に出てきて、そして、危険視される。 こういう悪循環がデジタル化の進展のなかで起きてきているのではないかと思います。 



塩田 浩平(滋賀医科大学学長)




きょうのお話、精神の異常正常の境界ということなんですけど、誰にも、正常な部分とある程度異常な部分があるんですが、集団の中で、ちょっとエキセントリックな人は、昔は、社会が受け入れる余裕があった。 ところが、まあ、今のように、効率化の世の中になると、だんだんそういう人が住めなくなってきた。


唯一、そういう人の楽園だったのが大学なんですけど、実は、ある面、そういう人たちのほうが研究に向いている部分がある。 ある時、京大の先生、3割位が発達障害といったら、ある人にそんなに少ないか、といわれたことがあります。 大学は、そういう研究者もいて成果もあげているわけですが、最近は、障害者に対する理解が深まっている一方で、そういう人たちが排除されていく方向に進んでいってるんじゃないかと思うんです。 そういう人たちの社会における位置ということなんですが、将来どう対処していくべきなんでしょうか。 




高木


常識的に、障害者って1%ぐらいで、それ以外は普通だと思うんですが。 今ね、小学校の一つのクラスで調べると5人ぐらいが障害者って言われる。 50人のクラスの中で5人もいるのが何で障害なんや、なんか変やろと思いませんか。 それぐらいに、統計上の「障害者」が増えている。 昔だったら恐らく自由な雰囲気があって。 確かに研究者は発達障害的な人がいるんですが、発達障害的だから研究という埒もないものに四六時中取り組めるということでもあるわけです。 でも、そういう人たちが対人関係を強いられる3次産業、サービス業とかできるはずがない。 今は、そういう人も対人関係の上手下手で評価されるんですね。 彼らは、同僚とはうまくやれないし、1カ所にとどまれないという人もいるから、当然つまずきます。 そうやって、本来、障害と言わなくてよかった人まで障害者といわれるようになる。 そして、どうして、5%も10%もが障害者といわれるようになったかというと、これ、僕の考えなんですけど、従来の重工業の技術革新の進み方だったら、人口の1%から2%ぐらいの人たちがいらなくなり、生産から外されていたわけです。


今はその技術革新がどんどん高速になって、人口の10%、20%がいらなくなってきて、資本としてもそれほど多くの人間に「お前はいらない」とは言えないから、障害があるというようになったのではないか。 だとしたら、そういう人たちが戻ってこられるような産業、居場所、受け入れるものを地域に作っておかないと、そういうことをしないと、昔のルンペンプロレタリアートみたいな、どんどんそういう人たちが増えていくばかりになると思います。 



山極


はい、ありがとうございました。 いろいろな個別の問題が出てきていると思うんですね。 今、日本の産業が停滞しているのは、日本が均質性というものを追い求め、多様性というものを排除してきた。 つまり、色んな意味でスタンダードを狭くしてそれ以外を弾き飛ばそうという風潮が高まっていることが、社会の発展の阻害につながっているような気がします。 そういうことを含めて、きょうのワールドカフェでは、高木さんの方から出された、日常生活を支援し、障害者の自尊心を高め、一人暮らしが可能なコミュニティーという社会をつくるためには、どういうケアが必要なのか。 少し、このケアというものを広げて考えてみたいと思います。 つまり、これから日本の社会を、安全で楽しい豊かなものにしていくためには、どういうケアが必要かということをテーマに語って行ければと思います。 





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