活動報告/クオリア京都

 


 

 

第9回クオリアAGORA_2014/グローバル人材とは何か!~



 

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国境を越えて活躍できるグローバル人材の育成が最重要課題と言われて久しい。所がこのグローバル人材については、英語が話せて高学歴というイメージのみが先行しており、具体的にどのような人材を言うのかが明確ではない。グローバル人材が意味するもの、そして必要な能力とは?

 

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第9回クオリアAGORA 2014/グローバル人材とは何か! 求められる能力とは?/日時:平成26年1月23日(木)17:00~21:00/場所:京都高度技術研究所10F/スピーチ:堀場雅夫(堀場製作所最高顧問)、岡田暁生(京都大学人文科学研究所教授)/【スピーチの概要】国境を越えて活躍できるグローバル人材の育成が最重要課題と言われて久しい。 所がこのグローバル人材については、英語が話せて高学歴というイメージのみが先行しており、具体的にどのような人材を言うのかが明確ではない。 グローバル人材が意味するもの、そして必要な能力とは?新年最初のクオリアAGORAでは、このグローバル人材について、元祖学生ベンチャーの堀場雅夫さんと音楽研究の岡田暁生さんを迎え徹底的に考えてみたいと思います。 /【略歴】堀場雅夫(堀場製作所最高顧問)1924年京都市生まれ。 45年京都帝国大学(現:京都大学)理学部在学中に堀場無線研究所を創業。 国内初のガラス電極式pHメーターの開発に成功し、53年、(株)堀場製作所を設立。 社員に博士号の取得を奨励し、自らも61年に医学博士号を取得。 78年に会長、2005年に最高顧問に就任。 企業家の育成に力を注ぎ、「イヤならやめろ」「仕事ができる人できない人」など、著書多数。 /岡田暁生(京都大学人文科学研究所教授)1960年京都生まれ。 大阪大学文学部博士課程単位取得退学。 ミュンヘン大学およびフライブルク大学で音楽学を学ぶ。 文学博士。 神戸大学助教授などを経て現職。 著書「音楽の聴き方」(吉田秀和賞受賞、2009年度新書大賞第三位)、「ピアニストになりたい - 19世紀 もう一つの音楽史」(芸術選奨新人賞)、「恋愛哲学者モーツァルト」「オペラの運命」(サントリー学芸賞受賞)など。 「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」(NHK)や「名曲探偵アマデウス」(NHK・BS)など、TV出演多数。 朝日新聞の演奏会評のレギュラーで、日経新聞の書評欄も執筆




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京都クリア研究所 長谷川和子


去年辺りから特に「グローバル人材」という言葉を、新聞とかいろんなメディアで毎日毎日目にするようになってきていますが、グローバル人材って一体何なのか。 英語が話せる、外国語ができるということがグローバル人材の条件なのか、それ以外に何があるんだろうか、もう一方で、グローバル人材って、ほんとうのところがもう一つよくわからないという声もよく聞くようになりました。 そこで、原点に帰って、このグローバル人材についてどう考えたらいいかを、みなさんとともに、ここで考えてみようということにいたしました。 これから、堀場製作所最高顧問の堀場雅夫さん、京都大学人文科学研究所教授の岡田暁生さんのお二人にスピーチをしていただき、その後、お二人を交えてのディスカッション、ワールドカフェとつないで議論を深めて参りたいと思います。



スピーチ1



堀場製作所最高顧問 堀場雅夫氏

堀場製作所最高顧問 堀場雅夫氏


実は、私は、もっとええテーマで発言したかったので、このテーマはちょっと不満なんですが…。 正直言いってですね、グローバル人材って、何のこっちゃ、わからんのですよ。 ただですね、数字的にいきますとね、私の企業も今、グループ全体で5500人いまして、そのうち2000人プラスアルファが日本人で、あと全部外国人、その多くがアングロサクソンですね。 そして、売り上げも60%が外国やし、ほな、グローバル企業や、っていわれたら、ああそうかというわけで、そやから何やねん、と聞かれても、普通に仕事しているだけで、看板にグローバルと掲げているわけでもないし、毎日、「グローバル、グローバル」というてるわけでもない。 英語で会議もするし、日本語ということもある。 韓国の人は韓国語、中国の人は中国語、ドイツ語、フランス語も話す人たちがいるというのが、日常としてある。 それが別に何やねん、といわれても何やねん、というのがグローバルなんです…。 


そうは言うもののですねえ、以前、私もグローバル人材というテーマをいただいて、ええ格好して、まあ、「国際的視野に立って、先進国の人間と対等に話ができるような人間」とか言っていたんです。 


これも、しやから何やねん、といわれたら終いで、実は、現在進行している、世界全体、まあ、先進国は先進国、発展途上国は発展途上国でですね、どうも、われわれが今まで「正道」と思ってきたいろんなことが、外れてきているんですよね。 一番大きい問題は、外れてんのを知りながら、外れたトレンドの中で生きていくのか。 あるいは、それはおかしいと、そういうものをなおす事こそ、ほんとうにグローバルな企業であり、国家であると思うんですけども、それをやるのは、政治家なのか、経済人であるのか、あるいは、社会人なのか、学者なのか、いうところが、一番大きい悩みのタネになってるんですね。 で、私は、外れてきたものを正常に戻すということがない限り、ほんとうの意味のグローバル人間を育てるという大それたことは、なかなかできないと思うんですね。 


堀場氏スピーチの模様1

そこで、何が外れとんにゃ、ということを考えるとですね、例えば、福島の原発でいろいろなことがあった。 で、フランスは、あの事故が起こってすぐですね、政府専用機を日本に送ってきて、長期間、日本に住んでいる人はともかく、短期に日本に来ている人は、全部、国に帰れといったんですよね.うちの会社にも、フランスの会社から何か連絡が来て、何のこっちゃろうなんて言っていて、その後、帰ったのか帰らなかったか、どないしよったか知らんけど、それはそれで、とにかく、それぐらいフランスは早く反応して、一刻も早く、危険なところから国民を連れ出さないかんという判断をした。 それほど敏感な国がですよ、後でずっと、福島や宮城の女川の発電所(東北電力)を調べた。 その結果、これ、前にも話しましたが、私がこないだフランスに行った時、「日本は大きな被害を蒙り、心からお悔やみ申し上げたい。 ただ、そのおかげで、われわれフランスの原子力関係者は、原発へのはっきりしたスタンスを持つことができた」と言ったんです。 


どういうことかというと、女川は、震源地が福島よりはるかに近く、震度も福島より大きかったが、女川の原子炉、並びに配管など付帯施設を全て調べたが、ビリッともしていない、ということなんです。 現在の原子力発電所の設計というのが、地震に対してどうなるか、誰も、シミュレーションしただけで、それを実際に実験するなんてできなかったところを、今度の地震と津波の大変な被害の中で、今の原発はこれほどの地震にもびくともしないということが実証されたというわけです。 つまり、現在の原発の設計は、パーフェクトで安全だという結論が出て、もう安心だと。 フランスだけでなく、世界中がこのデータを持ち帰ったんですね。 


それに比べて肝心の日本というのは、「大変、大変」と言うばかり。 その大変なのは、もう、非常にはっきりしていて、あの時に、送電回路が切断されて、ポンプが動かなくって、非常電源、非常ポンプも水につかって、結局、冷却ができなかったことです。 とはいうものの、これ、山口先生によると、福島第一原発の3号機と2号機は、それぞれまる1日半あるいは3日間、中の炉の水蒸気のプレッシャーでタービンを回してRCICが冷却して暴走していなかったんですが、結果的には、海水注入の決断が遅れて、冷却できずに終わってしまった。 で、冷却水を確保すれば、どんなことが起こっても大丈夫やってことが明確になった。 だから、あの事故で、今の炉というのは、冷却の問題さえしっかりすれば大丈夫という結論が、先進国ではだいぶ出ていて、それなのに、日本だけは、原子力発電所は「危険がいっぱい」ということになっている。 


つまり、同じ事象がですよ、日本は曲がりなりにも先進国のトップを行ってるわけで、フランスもそうですよね。 同じトップを行く国が、同じ現象を見て、一方は、こりゃえらいこっちゃ、一方は、これで大丈夫なことがはっきりした、といっているわけですが、これ、グローバルな人間いうたらどっちに付くの、日本側? フランス側? わからへんやん。 だから堂々と、その、先進国に出て説得できる人間いうても、これ、どっちか、サイエンティフィックにはわからへんさかい、要するに、そういう現実をですね、完全にサイエンティフィックに、思想なしに、それを理解してちゃんといえるような国に住んでんとですよ、一人だけが、国の政策、世論と全く違うこというて、日本代表として、私はグローバルに発言します、と言うたって、おまえの国のみんなはちがうことゆうとるやないか、おまえは何や、どこの人間やということになりかねんですわな。 


ですから、私は、ほんとうにグローバルな企業、グローバルな人材を育てるには、まず、その国がですよ、やっぱり、その国の考え方、施策というものをはっきり出して、しかもそれが誰もが納得するものでなかったらですね、そこの国民が、いくらええことをいうても、あらあ、けったいなおじさんが、けったいなことを言うとる、というふうなことになってもしょうがないわけです。 



堀場氏スピーチの模様2

そこで、私は、グローバルな人間というのは、ただ単にAさん、Bさん、Cさん、いろんな人が個人で「私はグローバル」っていうのも結構ですけれども、私は、グローバル人材っていうのは、国家とともにですね、正常な判断ができて、正常な施策ができて、という人物と思うんですが、まあ、マスコミはとびっきりおかしいんでちょっと置いといてもですね、せめて政治家、経済人とか学者とか、まあ、世間のリーダーの人々が、しっかりした国の判断や施策を背景に、正常な判断と正常な実行力を持たない限り、個人でいろんなことを言っても、これ、なかなか通じませんわ。 私なんかも、いろんなとこでいろんなこと話ししますが、またあのおっさんが来て、変なこというとる、ということであって、決して誰にもなかなか認めてもらえない。 


その証拠にですよ、あれだけ騒いだダイオキシンは、一体どこ行きよったんや。 オゾンホールでみんな皮膚がんになるというとったけど、誰が皮膚がんになったんや。 CO2、温暖化の問題にしろですよ、IPCCがいろんなこというけど、あのICPPのスキャンダル、要するに、温暖化のネガティブデータをみんな捨てて、ポジティブデータだけ集めたという、あんなスキャンダルがあったのに、日本の新聞は、こっから先もそれを伝えてませんわね。 そういう問題はどうなんやと。 何や、「原子力発電所が大変」というたら、みな「大変、大変」。 「ダイオキシンでみな死ぬ」と言うて、死なへんかったら、放ったらかし。 オゾンホールの皮膚がんも、もう忘れてますわな。 「ものすごく寒い」というと「温暖化があるから寒なった」という、なんぼ聞いてもわけのわからん温暖化の説明がされている。 こんな日本の社会の中で、グローバル人材が一体どう育っていくのか、みなさんに考えていってもらったらいいなあというふうに思ってますが、私は結論が出ないんですね。 


それから、この中に、オリンピックを大切にしている人がいたら申し訳ないんですけど、東京オリンピックは、全くこれまでの流れに逆行していますよ。 もう、今は歳ですから出ませんけど、かつてはですね、地方分権、ぼくは、この言葉が嫌いで、「地域主権国家」っていうたら、ついに民主党がやっと、地域主権という言葉を使い出しましたが、地方分権をいかにするべきか、首都移転、首都機能分散というような委員会にいろいろ引っ張りだされて、いろんなこというたけど、これ、どっかに消えてしまいましたわな。 今、東京オリンピックでわあわあ騒いでいるけど、これと東京一極集中排除と、どういう関係があるんやろう。 オリンピックを開いたら、東京が困ってバラバラになってしまうの? そやから、首都機能分散のためにオリンピックを開くんですかね。 何万人の選手村は、その後マンションになるそうですが、入るのは人間ですわね。 まさか、サルや山極先生のゴリラが入るわけではない。 つまり、オリンピックをしたら東京一極集中がさらに進むということと東京一極集中反対というのを、一体、誰がどこで調整しているんでしょう。 そんな高度な政治的なことを、ロジカルに説明できる人がいたら話を聞いてみたい。 こういう矛盾を誰もいわないので、先日、ちょっとそういうことをいうたら、「お前はオリンピック反対か。 国賊や」といわれてしもて、まあ、なかなか日本というのも恐ろしいことになってきてるんかな、と…。 


それから、リニア新幹線もそうなんですね。 京都に駅を作れと言ってますが、それはそれでいいんですけどね、500キロで走るやつが京都停まって大阪に停まったら、どうなります。 これ、飛行機と一緒ですやん。 伊丹から京都に飛行場があるみたいなもので、かえって離着陸だけで時間がかかり、結局、「のぞみ」のほうが速かったということになりますわな。 あんなもん、ビューンッと行って、なんぼですから。 それと、もう一つは、リニアの関係者に聞いたら、これで、大阪の方(かた)も名古屋の方も、東京に「出勤」できますと言うんです。 これまた、東京一極集中や。 何にしても、東京一極集中のために何兆円、何十兆円のお金を使ってるのを、何でみんな黙っとるのかと思うんですが、日本は、東京一極集中がええみたいですね。 


堀場氏スピーチの模様3

みなさんも、韓国に行かれたことがあると思いますが、今、ソウルは一極集中で東京と競争してるというふうな具合なんですね。 人口の30%、GNPの35~40%がソウルに集まってます。 で、フィリピンはマニラですし、今、ごちゃごちゃになってますけど、タイは、バンコックに集中しています。 こうしてみると、途上国は全部一極集中なんです。 これは、要するに昔のコンビナートの考えがそうなんですね。 石油を持ってきて貯めて、発電して、石油を蒸留しガスから液体、個体まで精製し合成繊維などいろんな化学製品を作る。 これが、10キロ四方にあったら、モノを動かすのも、人が動くのも何もかも便利ですわね、一極集中したら。 効率という面では、一極集中がいい。 ところがアメリカに行くと、ワシントンは政治の中心だが、東から真ん中、西にかけて、ローカルにそれぞれのいろんな文化や産業が起こって、それから合衆国が成り立っている。 フランスも、パリは確かに首都としてすごいが、各地方に有力な産業、独特の文化がある。 もちろんイギリスだってそうですよね。 つまり、先進国というのは、ローカルな文化をベースにした産業、文明が起こっている。 それのトータルが、その国の力になっているんです。 


実は、日本だって、この縦長がいいんです。 北海道から沖縄までね、冷たいところから暖かいところまでずっとあって、食べるもんも違うし、人間の考え方も、四季折々のできるもんも違い、価値観も違う。 それ全体を含めて、それぞれの特徴を持ちながら、日本国民、あるいは日本国家としての大きな国ができあがって、価値観の多様性に対応できるはずなんです。 それこそが、グローバル国家であり、そこに住んでる人がグローバル人であると思うんですが、その一番ええところを東京一極集中でダメにしている。 よくいわれる同じ駅前の風景。 あるいは、女の子のファッションは、四条河原町と六本木も変わりがない。 何もかも東京の価値観が全てであるって、つまり、文化の「全体主義」ですね。 これが、せっかくの日本っていうのを台無しにしている。 私が、グローバル人材で言いたいのは、こういう問題を含めて、ほんとに、日本の国全体で考えたグローバル化の施策をはっきりさせ、それに、われわれ国民の価値観をシンクロナイズドさせることが大事なわけで、そうでないと、グローバル人材なんていうても、おかしなことになるんではないか。 


それともうひとつはですね、


18世紀の産業革命から、ずっと近代西洋文明が発展して、大きな役割を果たした。 日本も、明治維新で西洋文明を取り入れ、特に戦後は、日本は、資本主義と科学技術というものが車の両輪になって、急速に、ゼロからわずか半世紀の間に経済大国になりましたよ。 これ、近代西洋文明を一番うまく利用したのが戦後の日本だと思いますが、それ自体が、今やですね、限界に来てますよね。 特に、資本主義というのが、金融工学、いわゆるマネーゲームといわれてですよ、いわゆる「お金を弄ぶこと」によって金儲けをする。 必ず得する人があれば損する人もある。 これいうたら、詐欺師みたいなやつが横行しているわけですよね。 こんなもの、資本主義でも何でもないんですが、ルールの上においては成り立つという、変な方向に行ってるような気がします


また、科学技術の方も、電気、機械、物理、化学、すべてを利用して日本は発展してきたけど、私、やっぱりね、生命というものの中に足を踏み込んだ時に、非常に大きな問題が起こると思う。 NK細胞とかクローンの問題とか、iPS細胞とか、不治の病が治るとかいろいろあって、これ、例えば、どんどん人工の臓器が生まれて、お金持ちの人は次々部品交換して、なんぼでも生きていく。 こうなったら、これどないなるのか、ちゅうことも考えていったら大変なことですわ。 ただ、私も、個人的には、できたらクローン2、3匹ほしい。 ものすごええもん。 家に置いといたら嫁はん安心するし、会社においておいたら、よう働くし、私は、先斗町や祇園とか行きたいところがいっぱいある。 みんなハッピー、と言いたいところですが、会社や家にばかりいるのは、もっと面白いことをしたいと、遊んでる堀場雅夫に不満が出てきて、結局、どれが本物かわからんけど、3匹で血で血を洗う争いをすることになってしまうかも知れない。 


堀場氏スピーチの模様4

まあ、いずれにせよですね、生命の中に踏み込むと、ややこしいことがいっぱい出てきよるんですよ。 こういう問題は、モラル的にもみんなのコンセンサスをピシっと得て、ほんとにサイエンスの発展は人間の幸福につながるか、あるいは、資本主義というものはどういう条件の元において、人間のためになるか、こういうフィロソフィーをですね、もう一度ビシッとやらないといけない。 こういうことを踏まえた上で、グローバルな人間ができ上がらなかったらダメではないかな、っていうのが、私の問題提起です。 





京都クリア研究所 長谷川和子


第二次世界大戦がなかったら、多分物理学者になっていたのではないか、という堀場さんの科学者らしい内容、それに経営者のスタンスも織り込みながらの1月にふさわしい堀場さんとしてのグローバル社会、あるいはグローバル人材をどう捉えるかという話をしていただきました。 次は、岡田さんにスピーチをしていただきます。 西洋で生まれたクラシック音楽が、世界共通の文化になっているわけで、その辺を一つのヒントにしながらグロ-バルということがどう捉えられるのか、グローバルな人材をどう捉えるか、どう育てるのかということでお願いいたしました。 



スピーチ2



京都大学人文科学研究所教授 岡田暁生氏

京都大学人文科学研究所教授 岡田暁生氏


2日前に歯を抜かれまして、ちょっと滑舌に不安があるんですが、嫁はんにいわせますと、いつもの早口をなおすいい機会だということらしいので、その辺を意識しながら、進めていきたいと思います。 


「グローバル人材」というのは、純企業的な、官僚的な概念だと思うんですけども、実は、私の家系は、嫁はんの家系も含めましてですね、サラリーマンってのがほとんどいない家系なんですね。 一人、日経の記者がいますけど、それぐらいですから、私は、大袈裟に言うと部長さんと課長さんが、どっちが上なんかも、まだわかっていないような人間で…。 つまり企業的なグローバル人材の意味するものを、全く知らない。 ただ、最近は大企業の研修会のようなところに呼ばれることが結構ありますので、まあまあ、企業文化というものが、どんなもんかというのは全くわかっていないことはない。 それと、大学におりますと、この問題を避けては通れない、ということ。 それと、もうひとつは、私の専門である音楽の世界は、言葉が介在しませんから、非常に国境を超えた人の行き来ができるので、だから、その辺りから、独特の「グローバル人」というようなイメージは、それなりに持っているつもりです。 その辺りを、お話ししたいと思います。 



まず、「グローバル人材」というのは、まことに奇っ怪な言葉でございます。


「Global Human Resource」これ、英語を母国語にする人に言っても「はあ?」みたいなもんで、こんな言葉を考えたのは、どこのバカかと思うんですけども。 そして、これ定義せよと言っても、誰も定義できない。 なんとなく、みんなが漠然としてイメージがあるだけ。 それは、どういうイメージかというと、想像するに、ウォール街エリート、ハーバードのビジネススクールかどっか出たようなね。 それから、ハーバードの中を肩で風きって歩いているような中国人のエリート学生。 こういうものへのコンプレックスみたいなものが、多分すごくあるとぼくは思いますね。 この言葉の中に、外でべらべら英語をしゃべりよる中国エリートに負けたらあかん、みたいなイメージが、結構、この言葉を使われる時にはあるんじゃないかと気がします。 それから、ノーベル賞を受賞するようなスーパー科学者のイメージ。 そこに、半沢直樹のイメージがちょっと入ってくる、と。 まあ、きわめて劇画的なイメージなわけですね。 で、だれも、それが正確に定義できないにもかかわらず、まるで、それを出したら何でも通用する「錦の御旗」のように、これが見えぬか、みたいに、言葉だけがひとり歩きしている、これは、非常にやばい状況だと思います。 


岡田氏スピーチの模様1

最近の中央公論で「大学の悲鳴」という、とてもバランスのいい特集がありました。 その中で、同志社大学の学長に就任された村田晃嗣さんが、鼎談で面白いことを言っているんです。 それは「そもそも、グローバル人材の定義がはっきりしていません。 定義がはっきりしない中で進められているのが、日本のグローバル化を反映しているように思われます」。 これ、すごいですね。 何のことか誰も説明できないのに、あることにされて、ものごとがザーッと進んでいく。 それからもう一つ。 司会が「世界大学ランキング上位100校入り支援するため、年間100億円の大学予算を組み込んだ。 10校を『スーパーグローバル大学』に指定しランキング上昇をめざしていますね」と尋ねたのに対し、村田さんは「そもそも、『スーパーグローバル大学』という名称がダサイですね。 こんなこと英語で言うのはかなり恥ずかしい」その通りだと思います。 はい。 


それで、もちろん、私は、「グローバル企業に求められる若手人材」などということがお話できるわけでもなく、あくまで音楽という文脈で、何かグローバルということを話すことを求められているわけで、それで、すぐに思い出しましたのは、私が最近、習って心酔しているジャズの先生なんですね。 アメリカ人、白人ですけど、この方、めちゃくちゃ上手い。 ニューヨークでもロサンゼルスでも、どこでも生きていけるようなミュージシャンですけど、何故か日本が好きで、大阪の中津に住んでいるんです。 フィリップさんといいます。 つい最近、そのフィリップさんに「ジャズミュージシャンは、世界のどこでも、ナイトライフのあるとこならどこでも生きられるからいいですね」と言いましたら、彼は「お金持ちにはなれないけれども、自分の生まれた国にこだわらなくていいのは、ジャズミュージシャンの一番いいところだ」と言っていましたね。 生まれた国に縛られる必要がない。 自分が住みたい国で暮らせるというのが一番いいところだと。 確かに彼ぐらいの力があったら、ニューヨークでもロサンゼルスでも、上海でもケープタウンでもパリでもベルリンでもストックホルムでも、どこでも日銭は稼げるので、自分が住みたいところで、住める。 ぼくに言わせたら、これこそ最高に幸福なグローバル人であります。 多分、めちゃくちゃ金儲けはできないだろうけど、彼は、レッスンも含めて、毎日3万円ほど稼ぐという話なので、3万円も毎日稼げたら、もう何にも文句はありませんわね。 


ところが、問題はこっから先です。 つまり、「グローバル人材」と口にする時、文部官僚や大学執行部、企業人が思い描いているのは、言うまでもなく、こういう幸福な人のことではないはずなんですね。 彼らは、「兵隊」がほしいだけなんです。 これ、非常に問題なんですね。 グローバル人材っていうのは、実は、上から目線の言葉であって、個人の幸福を含意している言葉じゃない。 上が使いやすい兵隊がほしい、ということですね。 なぜなら、グローバル人材が、どんどん日本に生まれてですね、それこそ、私のジャズの先生のように、生まれた国と関係なしに、自由に世界のどこでも生きていけるようになったら、恐らく今の日本だったら、別の国で生きたいという人もいっぱいいるでしょうから、もう、大リーグ状態というか、日本のプロ野球状態、サッカー状態が始まるわけです。 一番いいやつは、どんどんどんどん、外へ出て行ってしまう。 これ、いいんですかね。 私、個人のレベルとしては、これ大変素晴らしいことだと思うけれども、国家、会社レベルにしたら、困るわけですよね。 当然、グローバル人材みたいなことを口にしている人間は、なぜか、極めて希望的な観測として、外に自由に派遣できるけれども、ブーメランのように自分のところにもどってくる、そういう人間をイメージしているんですね。 端的にいうと、鵜(う)飼の鵜ですわ。 鵜飼の鵜として、長良川の鵜が鮎(あゆ)を加えて戻ってくるように、海外で得た「獲物」を日本に、会社に、大学に持って帰って来い、と。 まあ、これ、悪いとは言いませんけど、一応、こういうことが明らかに含意されているといことは、押さえておくべきだろう、と。 


岡田氏スピーチの模様2

ここからわかりますように、グローバル人材ってのは、ようく見ると、この言葉だけで、結構、いろいろ分析ができるわけですね。 私は、似たような言葉だけども、三つカテゴリーを区別したいと思うわけです。 一つは、「グローバル人」もう一つが「グローバル人材」そして「グローバルエリート」です。 で、最初のグローバル人は、いうまでもなく、私のジャズの先生みたいな人です。 世界のどこでも生きていける人、オンリーワンで、その人の代わりがいない人、unnsubstituableというかな。 ま、真の自由人で、極めて幸福な人でしょう。 先程も申しましたけれども、これ、人の幸せという点ではすばらしいことだけれども、もちろん、国家や大学や企業人は、こういう人を求めてるのじゃないんですね。 求められているのは、グローバル人材です。 どうも、グローバル人材教育は「エリート教育」の一種だと、多くの人が勝手に思い込んでいるようです。 しかし、実はこれ、エリート教育でも何でもございません。 何故かと言うと、人材というのは、兵隊と同じです。 兵隊は代替(かえ)がききます。 一人死んだら、代わりをぽっと入れたらしまいですからね。 代替がきくような人間は、エリートでも何でもないわけですわ。 エリート教育と違うんですよ、グローバル人材を育てようというのは。 兵隊教育なんです。 次から次へと部品のように、代わりを入れたら終いなんです。 


それで、そもそも、こんな風に代替がきくような人間、兵隊に、グローバルな活躍ってできるのかという問題があるわけですわ。 当然ながら、そいつの代わりなんてなんぼでもおるで、みたいな人間がグローバルに活躍できるはずがないやろ、という話です。 なんかこの辺り、結局、高度成長期の「企業戦士」のイメージが、21世紀風に言葉、装いを変えて流通しているだけの話なんですね。 企業のためにしゃにむに働け、東南アジアに出て行け、中国に出て行け、テロに遭っても、南米に、中南米に出て行けっていうわけです。 


言うまでもないけど、兵隊というのは、自分の頭で考えませんから、言われたことを機械的にやるだけですから、自分の頭で考えられないような人間って、グローバルに通用するはずがない。 しかし、逆に、自分の頭で考える人間っていうのは、伝統的な日本の社会の上司にとっては、結構扱いにくいわけですよね。 ぐちゃぐちゃいう奴というわけです。 この辺りの認識不足というのかなあ、これまでの日本の成功体験が妙に影響していて、そこから決定的に先に出られず、でも、なんか21世紀風の見せかけだけは整えて、このあたりから、グローバル人材という妙な言葉が出てきたんちゃうかなあ、という気がします。 


それでですね、私も50歳を超えまして、同級生なんかで、すでに大企業の執行役員とかになっている連中とかが出てき始めております。 彼らからいろいろ今の企業の状況とか聞くことがございますけど、彼らが口を揃えて言いますのは、今の企業のトップ連中の多くってのは、完全に思考停止に陥ってんにゃと。 どうしたらええか、さっぱりわからへんにゃと。 だから、ひたすらどうしたらええかってのを教えて欲しいだけやねんということで、こうした話をよく聞きます。 もし、そうだとすれば、グローバル人材という言葉は、何か、思考停止に陥っている今の日本の指導的立場にある人たちが、いわば、そこに「ウルトラマン願望」を投影しているような気がして私は仕方がない。 つまりですね、世界中のどこにでも派遣されて、がんがん仕事を取ってくるような「スーパーサラリーマン」が出てきてくれ、出てきてくれ、という願望ですね。 スーパーマン願望。 


まあ、大学人としてはですねえ、正直申し上げて、多分、大学が盛んにグローバル教育というのは、大学も企業のお金がたくさん入っていますから、そういう人たちから「グローバル人材を育ててください」と言われるので、こういうこと言うんでしょうけれども、あえて大学人として、堀場会長始め企業の方も多い中ですけれども、あんまり勝手なこと言わんといてよ。 自分たちのウルトラマン願望を大学に押し付けんといて、という気がちょっとします。 結構真面目に怒っています。 でまあ、言ったら、海外のどこにでも派遣できるような兵隊作れって、大本営でガダルカナルやどっかに、兵隊作って行かせるような勝手なこと言うなよ、とちょっと思ってしまうんですね。 


もう1回言いますと、「人材」という言葉は、極めて横並び的だ。


これ、歩兵に対して使う言葉なんだということなんですね。 グローバルときたら、普通は次に来るのは人材ではなく「エリート」なんですよ。 やっぱりエリートなんです。 で、「グローバルエリート」を育てますと言うべきであって、つまりその他大勢はいりません。 グローバル人材を作ります、なんてお茶を濁したらあかんで、とぼくは思うわけです。 ちょっとずるいんですよね、平等幻想を振りまくという意味でね。 グローバルと言ったら、エリートです。 選ばれた人です。 


岡田氏スピーチの模様3

では、私の考えるグローバルエリートってのは、私も大学人として、もし可能なんだったら、そういう人を育てたい気持ちが、非常に強くありますから。 ただ、あまりバカバカしい、グローバル人材なんてこと言われますと、そんなもん、作れるわけないやないか、と思ってしまうわけですし、今の大学は極めて劣悪な環境にございますから、なんか、そういう教育者としての夢が、次から次へと潰れてまいります。 でも、それなりに夢はございます。 私の夢のエリート教育みたいなものをちょっと考えますと、先ほど堀場会長もおっしゃいましたけども、グローバルエリートというのは、フィロソフィーがある人間ですよね。 自分の頭で考えられるということです。 


で、問いを発してみたいと思うんですが、では、エリートというのは育てるものなのか。 育ててもらわなエリートになれないのか、という問いが出てきます。 これ、世話をしてもらわんとエリートになれない。 つまり、養殖ハマチのような若者がエリートになるのか。 実は、育てられたエリートなんていうのは、ある意味、言語矛盾であるわけですよね。 私が思い出しますのは、もう亡くなられましたけども、音楽評論家の吉田秀和さんのある記者会見での話です。 彼は、吉田賞という自分の名前を冠した評論賞を出しておられ、その会見で、ある記者が「吉田さんはあまり後進の育成はされてこなかったように思いますが」的なことを訪ねたのですね。 自分の立場を守るために、ライバルになるような人を引き上げなかったんじゃないかというニュアンスがなくもなかったと、その場にいた方はおっしゃってました。 しかしこの質問に対する吉田さんの応答が実に見事なもので、「才能は勝手に出てくるもんだ」と一蹴したということです。 もう一つ思い出しますのは、大ピアニストのアルフレート・ブレンデルがインタビューで言っていたことです。 小さいころ習ったピアノの先生のことを言っている言葉ですが、こういっていたんですね。 「私は、彼女に非常に感謝しています。 なぜなら彼女は、私に何も教えてくれませんでしたが、私の邪魔をしなかったから」。 そして、「これは冗談ではない。 ほとんどの教師は、教育しているつもりで、実は邪魔している」というんですね。 けだし名言と思います。 


これらの言葉が示しているのは、恐らく教育というのは、真の才能を潰すだけだと。 教育すればするほど、才能は育たなくなるという側面があるわけですね。 重要なことは、恐らく教育プログラムよりも、環境を作ることの話なんですね。 そして、エリートができやすい環境を作って後は待つ。 作ろうとしない。 多分一番大事なのはこのことなんです。 エリートの促成栽培なんかできない。 促成された養殖ハマチみたいなもんはエリートじゃない。 意地悪くいえば、エリート教育のプログラムなんて立ててる段階で、アウトやいう話なんですよ。 その段階で出てくるのはエリートじゃないと、もう、最初から答えは見えているわけですね。 


ではですね、真のグローバルエリートが出てくるための環境とはどんなものだろうか、と私、考えました。 私、大学人として15年ぐらい、大学で奉公してきての恨みつらみを、ちょっと申し上げさせていただくと、きょうは企業の方がいっぱいいられると思うので、申し訳ないなあと思いながら言ってしまいますが、その最大の理由の一つが、企業の一括採用です。 大学で教えていると、ええかげんにせえよ企業、とい思いますわ。 さあ、これから、こいつは大きくなるでという時、パタっと授業に来こんようになるんですね。 半年間、下手すりゃ10カ月。 ほんまもう、戻ってきた時には、もう後、卒論と何かがちょっとあるだけ。 実質、半年ぐらいしか教育できないんですよ。 専門教育が始まって半年も経たんうちに、就職戦線なんかに駆り出すなよという話なんですよ、エリートを作ってほしいんだったら。 


いうまでもないけれども、グローバルに通用する人間が出てくるために最も重要なことっていうのは、恐らく、若い時の異文化体験のはずです。 これは、堀場会長もおっしゃった「複文化性」のような、複数の文化がわかるということでしょう。 一元的な文化の中で生きていてはいけない。 地球の表面には、無数のローカリティーがあるっていうデコボコ性をちゃんと理解するということ。 どれだけ世界がグローバル化、つまり一元化されているように見えたって、実はグローバルというのはすごくバーチャルな世界なんだ、ということを理解すること。 これが異文化経験です。 


岡田氏スピーチの模様4

そしてですね、こういうことをいうと、すぐに日本の大学は、これ京大もいうてますけど、授業を英語でするとか言い始めるんですよ。 つまりですね、異文化経験は、日本の大学で授業を英語でやっても、決してできるものではない。 だって、授業が終わったら、すぐ日本語に戻れるわけですからね。 若い時に海外に行って、酷い目にあわないといけないという話です。 放浪したってかまへん。 放浪の旅、半年、1年で、全然かまへん。 


ところがですね、今の若い人が、何でこんな外に出て行かないかというと、やっぱり一括採用のストレスなんですね。 これは間違いないんです。 つまり一括採用のあの時期を逃してしまうと、もう、社会からドロップアウトしてしまうんちゃうかという恐怖心がものすごくあるみたいなんです。 それは、例えば、ぼくぐらいの頃はですね、就職活動するのは、1年後にしようか、その代わり、1年、アメリカの大学に留学したいなんてのがいました。 そこまであくせくせんでも、ある程度就職ができるいということがあったからだろうとは思うんですけどね。 まあ、さらにいえば、大学紛争のころ、団塊の世代の人たちが学生のころは、4年間遊んでたわけですからね。 4年間、世界中を旅してたっていう人がいっぱいいたわけですからねえ。 恐らく、バブルのころまでっていうのは、今に比べると、ちょっと放浪期間みたいなのを、大学生活の中に作るっていうのが楽だったんだろうと思うんです。 そして今、学生はそれができなくなって、企業は一括採用。 焦って早い時期の青田刈りなどなどで、どんどんどんどん、若い人が大きく育つ前から刈り取られてしまうということが起こっている気がいたします。 


それで、私が言いたいのは、エリートっていうのは、「学校を真の意味でもう卒業した人」だってことです。 つまり、学校でプログラムを作ってもうて、餌付けしてもらわんでも、自分で学びができる人。 これがエリートです。 エリートに一番必要なのは、学校のプログラムをさっさと卒業してしまえという話ですね。 ところが、これに反して、逆に、どんどんどんどん高年齢化するわけですわ。 博士課程まで、「スーパーエリートを作るためのプログラム」やいうてるからお笑いごとですわ、ほんまに。 昔にですね、学校を卒業するための期間っていうのは、旧制高校の3年と大学の4年、7年あったわけですね。 7年かけて「学校を卒業」できたんです。 この間に、自立できたわけですよ。 今は…、という話ですね。 


私の「夢のグローバルエリートの卵教育」なんです。 私としてはエリートを育てるなら、最低6年、6年は大学にいさせたいですね。 その内訳は、まず、20歳になるまで、最低半年、海外経験をさせる。 これは、放浪生活でも構わない。 それから、1年半、海外の大学に放り込む。 私の経験では、1年ではものになりません。 慣れたところで終わりになりますから、ほんとは2年間といきたいところですが、まあ1年半。 これで、海外の生活がトータル2年になりますね。 あと、3年は日本の大学で勉強し、そして、就職活動と卒論でバタバタ、と。 


岡田氏スピーチの模様5

この間、2度海外経験をするわけですけど、一つは、英語圏で構わない、英語は大事ですからね。 しかし、もうひとつは、英語以外の国というのを義務付けたいですね。 これ複文化性という話です。 つまり、グローバルとか異文化経験というと、さっきからバカを連発していますが、バカというのは、すぐ、これを英語のことやと思ってしまうんですよ。 堀場会長も、先ほど再三おっしゃってますけども、一元的な世界っていうのは、これ非エリート的なんですね。 だから、英語話せたらエリートと思っている英語一元人間ってのは、実はエリートでも何でもないという話です。 とにかく、一つは英語でかまへん。 これは、ひょっとするとオブリゲーションだろう。 でも、もう一つは、英語以外、どこでもいい。 英語を使っていない国のほうが視野が広がるだろう、ってことですね。 


えー。 もう一つ英語の問題です。


 これ、私の国際学会に出た経験から言いますと、英語力というとすぐ喋ることと勘違する人がいますが、私にとっては重要なことは、喋ることではありません。 聞き取りです。 聞き取りが一番大事です。 日本人が、何で、英語のときに臆病になってしまうかというと、相手が何言ってるか聞こうとするからなんですよ。 多くの中国とかアメリカの人とかが、何であんなにガンガン喋れるかというと、僻みかもしれませんが、相手の言ってることを聞いていないからですね。 学会でやりとり見ていたらわかります。 「何で言わはったこと、また質問してるんや」みたいなこと、ブワーと喋りまくる。 ところが、日本人は、まずわかろうとするもんやから、ワンタイミング遅れてしまうんですね。 私の経験でも、「ちくしょう、あの時いうておけばよかった」ということになる。 一番大事なのは、リスニングです。 極端なこというたら、どんな会話が進行しているかわかっていれば、話すのは、イエスとノーだけで十分なんですよ。 こう、相手の横で聞いていて、ポイントでイエス、ポイントでノーというたらしまいです。 話はこれだけで通用するんです。 リスニングはものすごく大事ですね。 ぼくだったら、リスニング教育だけは日本にいるうちにやりたいですね。 ただ、結局のところ、聞いてちゃんと理解するためには、英語力以上に事柄がわかってなあかんわけですね。 例えば、ぼくなんか経済に疎いから、日本語でも、日経新聞の記事は、何が書いてあるかよく理解できない。 事柄の理解が一番大事。 で、事柄を理解するためには、やっぱり日本語が一番重要なツールやっていう、そういう問題も出てくるでしょう


最後に私の考えるグローバルエリート、こうなったらいいなあと思った最近の例を紹介いたします。


半年ほど前にですね、アメリカのホーランド市で大学の先生を呼んで、ワークショップをやったんですね。 その方はアメリカの海兵隊の兵士の息子さんで、生まれたのが沖縄で、その次、NATOの関係でドイツに行って、そこで育ったというかなり変わった経験の持ち主なんです。 ホーランド市で集まったオーディエンスの中にはいろんな分野の専門家がいて、それぞれ、話しやすい言語が違ったんですね。 みんなが英語が得意というわけではなかった。 もちろん、この方は英語で発表されたんですが、「質問は、みなさんの話しやすい言語でどうぞ」と言わはったんですね。 すると、みんな喋る喋る、ドイツ語、フランス語、ロシア語、リトアニア語、ポーランド語で聞いた人さえいました。 何とそれに対して、この先生は、聞かれた言葉ですべて答えられた。 そうした言語以外に、ヘブライ語もできると。 日本語は、まだちょっとということでしたが、北海道大学で客員教授をしている時、ずっと、日本語教室に通っていたとおっしゃっていましたけどね。 


これは、感動的な場面でした。 つまり、英語一元化と言いつつ、実は、アメリカ人ってこういう人がいるんですよね。 何も、アメリカ人って全員が、世界中に行って「Can you speak English?」っていうてるわけちゃうんですよ。 これだけ、世界のありとあらゆるローカル性みたいなものに対する極めてデリケートな感覚、謙虚さみたいなのをちゃんと持ってる人が大学の先生でエリートになっているわけですよね。 英語さえ喋れれば、グローバルエリートだと思っているバカに、この人の存在を見せてやりたかったですわ。 アメリカの奥深さというのは、こういう人がいる点か、と思い知った次第でございました。 ほんとうのコスモポリタンが、ちゃんといるわけですね。 私、今、コスモポリタンと申しましたけども、コスモポリタンってのは、ほんとうに美しい言葉だと思います。 なになに人といった、人種、生まれた国、そういうものの枠からなかなか出て行くことができない人と違って、ひとりのヒューマニティーとして、人間として生きていけるんだ、と。 このコスモポリタンという言葉は、とても美しい言葉と思いますけれども、しかし、今の日本で喧伝されてるのがですね、決してコスモポリタンの育成ではなく、グローバル人材みたいな極めて下品な言葉になってしまうという、この辺りが、今の日本の精神風土の貧しさを、図らずも反映しているような気がして、私は憂鬱になる次第でございます。 




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