活動報告/クオリア京都

 


 

 

第7回クオリアAGORA_2013/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

≪こちらのリンクよりプログラムごとのページへ移動できます≫

PDFをダウンロードして読む


 

ディスカッサント

京都大学人文科学研究所教授

岡田 暁生 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


同志社大学大学院総合政策科学研究科教授

山口 栄一 氏


 

京都市交響楽団常任指揮者

広上 淳一 氏


京都大学基礎物理学研究所准教授

村瀬 雅俊 氏




髙田 公理(佛教大学社会学部教授)




いずれも、実に面白いお話でした。 で、順番に話していこうと思いますが、村瀬さんが最後に示された、ご自作のアート作品ですね。 あれをじっと見ていると、中国発の道教、タオイズムが宇宙の始原として捉える「太(たい)極(きょく)図(のず)」を思い出しました。 これは、ユダヤ・キリスト教世界における宇宙創生の捉え方とは、まるで異なった考え方なんだと思います。 


ユダヤ・キリスト教世界では、宇宙は「クリエーター(Creator)」、つまり造物主としての神の手で造られたという観念が非常に強い。 それに対してアジア発のタオの考え方は「自然(じねん)のプロセス」そのものが世界、というか宇宙の秩序を造り上げたんだと考える。 それは一種の科学的世界観だというほかないように思います。 


それにくわえて村瀬さんには、アート、つまり芸術と科学の関係を多面的に語られました。 そんな話を聞いて思い出したのは、20世紀初頭におけるピカソのキュービスム(立体派)とアインシュタインの相対性原理の関係です。 


まず、相対性原理というのは、妄想とも言われかねない、驚くべき独創の上にできあがった。 まあ、私の勝手な素人考えなのですが、簡単に言いますと、2つぐらい、驚くべき点があります。 例えば、時速100キロで走る乗り物の先頭で時速100キロの矢を放つと、常識では、地面に対しては時速200キロのスピードになるでしょ? ところが、アインシュタインの相対性原理の基本となる秒速30万キロの光の速度は、秒速30万キロメートルで移動する物体から放っても、同じ秒速30万キロだという。 これは通常の常識とは大いに異なる考え方だというほかありません。 


いま一つは、「光は直進する」という当時の常識にたいして、アインシュタインは「重力を受けると光は曲がる」と考えた。 それが実証されるのは1919年、日食の観察によるわけですが、そうした仮説が1905年ぐらいに提出されています。 


そこで面白いのは、ちょうど同じころに、ピカソがキュービズム(立体派)という絵画の運動を起こしている。 それを極度に単純化していうと、「物体の裏側が見えても不思議はない」という考え方に裏付けられた表現法で、アインシュタインの相対性原理と、実に巧みに共鳴するように思えるのですが、いかがでしょうか。 先端的な科学と芸術との相互関係という点で非常に興味深い出来事なのではないかという気がします。 


ところで、広上さんは、「コンサートは、聴衆と演奏者がともに作り上げていく時間、空間の芸術なんだ」というお話をなさいました。 こういうことが広く認識できるようになったのは、もしかすると20世紀の半ばの出来事だったのかもしれません。 何を言っているのかというと、ジョン・ケージの「4分33秒」でしたか。 1952年の演奏会で彼は、4分33秒の間、ピアノの演奏を止める「無音の音楽」を創り出した。 すると、人々のざわめきみたいなものが演奏会場を支配する。 こうした試みが重要な意味を持ったのは、もしかすると、


「コンサートの時空間を支配しているのは、演奏者だけではないんだぞ」ということを、いわば裏側から教えるような、そんな意味を持っていたからかなあ、などと考えた次第です。 


そんなことが私の、お二人の話を聞いた上での感想のようなものなのですが、まずは村瀬さん、たいへん乱暴な話をしたのですが、いかがお考えでしょうか。 



村瀬 雅俊(京都大学基礎物理学研究所准教授)




大賛成です。 アインシュタインというのは、常識的な見方にとらわれないところが大発見、大理論の発想につながった。 遊び心っていうのがまさによかったんじゃないか。 ピカソも、全く独立ではあるけども、影響をお互いが受けていたかもしれないし…。 


髙田


アインシュタインとピカソが同時代に出てきたのが面白いなと、ぼくなんかは思うんですが……。 これって、一種のシンクロニシティ(共時性)のような気がします。 



村瀬


ピアジェは、そういうことを言っていますし、ユングも「共時性」っていうことをよく言っています。 それは、「なるべくしてなる」。 周りのパーツが揃っていると次はこっちしかないという。 ですから、「ゆらぎ」っていうかランダムな作用と「決定論」の作用と両方が必要っていうのはベイトソンが言っていて、「複合ストカスティックシステム」というのですが、乱数だけ頼りにしていてもダメだし、方程式だけ頼りにしててもダメで、両方あるから、いろんなことがサーチできるというわけです。 そうすると世の中、次に何が起こるかっていうのが、パーツ―歴史を見ると、次に抜けたパーツが生まれるしかないので、科学でも芸術でも新しいことというと、偶然によるいたずらともうそっちの方しかないという必然が複合して進んでいくしかないと思います。 



髙田


そういえば、細胞のモデルの図も面白かった。 粒子説で来た素粒子への認識が、今や超弦(ひも)理論になってきているわけですが、細胞の図にも、それと似た感じの「ひも」のような図柄があった。 それで「何かよう似てるな」という、素人っぽい印象を受けました。 


ところで、広上さん、勝手なコメントをさせていただいたのですが、いかがでしょうか。 



広上 淳一(京都市交響楽団常任指揮者)




今、ああそういうことなんだんなあと、村瀬先生のお話をうかがっていました。 実は、ぼくも、15歳の時だったんですが、車に轢かれた、はねられたことがありまして、奇跡的に助かりました。 宙に浮いたんですよ。 猛スピードで自転車を走らせ交差点に飛び出したんですね。 先ほどの脳の話で、ああ、そうだったと思い出していました。 走馬灯ということをよく聞きますが、その間、たった、2、3秒だったんでしょうが、宙に浮いている時に15歳までの自分の人生が、絵巻物のようにタタタッタッタッタッと見えたんです。 心の中で、「ぼく死ぬかな、生きるかな」と無意識のうちにクリアに考えていました。 まさに今、村瀬先生が言われたことを瞬間的に体験していたんだと思います。 


髙田先生の言われたことなんですけれども、音楽というのも、芸術というのも、あるいは、料理もそうだと思いますが、人がいて、その人の影響を受けて演奏会というものは成り立っている。 きょうもリハーサルをやって来ましたが、お客さんがいないところでやるのは、一つの組み立てであって、最後は会場で、お客様に来ていただいて、どうなるかわからない。 やはり、最後の瞬間っていうのは、まさに聴衆の皆様に委ねて、そこで音楽会が成功するか失敗するかというのを、お客様とともに体験するということなんだと、最近わかってきました。 髙田さんのおっしゃる通りです。 



髙田


ありがとうございます。 そこで、岡田さん、お二人のお話を聞かれていかがでしたか。 



岡田 暁生(京都大学人文科学研究所教授)




まず、広上さんに関連するお話からします。 ほんとうに今の京響は信じがたくうまくなっているんですね。 ぼくは35年京響を聞いていますけど、ほとんど信じられない。 京都会館でやっていた頃の京響ってあれは、一体何だったんだろう、と。 もちろん井上道義さんがこられたころから少しずつ活気がでてきていたことは確かですけれども、広上さんが来られて劇的にうまくなられた。 確かにオーケストラトレーナーとして定評のある人というのはいる。 そういう人が来ると確かにうまくなることがあります。 ただ、そういう人は、えてして自分の音楽パッションは出さず、オーケストラの今の実力に合わせ、そこから、ちょっとずつ上手くしていくという人が多い。 だけど広上さんはそういうタイプじゃあ恐らくない。 じゃあ一体何をしてこんなにうまくしたんだろう、と不思議で仕方がない。 今のスピーチでも、何もされてないとおっしゃっていましたが、実は、なんか後ろでやってるんかいなとか、よく人と話していました。 


今のお話を聞いて少し納得したのは「転校」の話です。 つまり、指揮者に一番大事なのは、広上さんもおっしゃっていたが、「気配を読む能力」ですね。 「KY」では絶対つとまらないんですよ。 しかも、プライドの高い連中が100人。 誰も指揮者のことを先生だなんて思ってるものなどいないし、隙さえあれば、「こいつの足下見てやろう」というのが100人以上もいて、しかも、それぞれが職人の誇りを持っていて、「この曲はオレのほうがよく知っているぞ」と思っているんです。 そういう人間の一瞬一瞬、常に気配というのがあるわけですよね。 あの奏者はここで出たがっている。 こっちはこっちで出たがっているみたいな気配ですが、これ皮膚感覚みたいのものだと思うんです。 指揮者は、これをまとめなあかん。 だから、いくらいい音楽が頭の中にあっても、彼らがいま出たいと思っている瞬間に、その指揮者がキュー出さなかったら、「何やあいつ?!」ということになるわけです。 転校という話を聞いて、広上さんは、その辺りの気配察知力がすごくあるんだろうなと思いました。 


自分でも、実はこういう体験があります。 私、中学、高校は、オーケストラ部のある洛星というところに行っていたんですが、珍しく進学校にオーケストラ部があるということだったのか、ある時「オーケストラがやってきた」というテレビ番組に出たことがあります。 山本直純さんの指揮で演奏しましたが、びっくりしました。 「大きいことはいいことだ」というテレビCMぐらいでしか知らないおじさんでしたが、「何でこんな吹きやすいの」「おれってこんなにうまかったっけ」みたいな感じ。 ふだん指導してもらっていた指揮者と全然違うんです。 このあたりの感覚が一番近いと思うのは、ベタな話ですが、デートですね。 もっとも女性とデートするなんて長くやってませんけど…。 昔を思い出すと、あん時、もう一押しすれば…とか、なにかずれたことを口にしてすっかりしらけさせたりとか…。 要はタイミングですね。 オーケストラと指揮者の関係と一緒。 「いま出たいな」と向こうが思っているその時に、「出して頂戴!」とサインを出せるか。 逆に言えば「まだ出たくない」と思っている時に、「出ろ!」なんてやると…相手は著しくやる気をなくしてしまう。 


もっと簡単な言い方をしますと、オーケストラと指揮者の関係は、工学じゃないんですよね。 社会工学じゃないんです。 もう少し職人の世界。 あるいはもうちょっと近いのは生物学とか有機化学の方に近いんですね。 まさに、人間関係の化学反応といえばいいですね。 さらに、もっというと、音楽は、野球ではなくてサッカーに近いと思います。 野球というのは、一球投げるごとに停止させて設計図ひいてというのを繰り返しますが、それに対してサッカーは、常に状況が動き続けていて、完璧な設計図をひいてその通りにやろうということはありえない話なんですよ。 常に動いている状況の中で、自分が今どこにいて全体がどうなっていて、という気配を察知する能力がいる。 あのフォワードが今、パス出して欲しがっている、みたいなのがすぐわからんといかん。 演奏中の指揮者も同じです。 動いている中で、全体で刻々と起こっていることがわからない指揮者、その時、ヘボしてサイン出せなかった指揮者は、もう二度と呼んでもらえない、というわけです。 


それで、科学と芸術の違いについてはふれますと、工学的な発想か職人的発想か。 あるいは、反復再現可能な世界か、反復再現なんてのは不可能な世界。 ということは、100点を取るのはありえない世界の中で、いかに80%、85%狙っていくか、みたいなことが勝負になる世界。 そういう違いかなと感じました。 


後一つだけ申しますと、クラシック音楽の世界は、サッカー的な世界とは思ってるんですけど、しかし、ジャズと比べますと―実は、私、3年ほど前から、ジャズにはっていまして、毎週レッスンに通っておりますんですが―ジャズと比べると、クラシック音楽は楽譜がありますから、まだ、再現可能な世界にちょっと近いですよね。 やはり、ヨーロッパが生み出したもの。 工学を生み出した文化から出てきた音楽という感じがします。 これに比べジャズは、楽譜がない世界で、「セーノ」で始まって、どこへ行くか。 反復再現性はさらに難しいです。 それだけにエキサイティングで面白いんですが…。 



髙田


広上さんはコミュニケーションという言葉を使われました。 でも、お話の内容から考えると、ちょっとニュアンスを変えたほうが分かりやすいような気がします。 と言いますのも、「コミュニケーション」と「やりとり」とは、かなり違うからです。 


つまり、コミュニケーションの語源は「ホーリーコミュニオン(聖餐式)」、つまりは、磔になる日の前日に、キリストが十二使徒と一緒に摂った食事のことです。 では、なぜ、そんなことをしたのかというと、すべての知恵はキリストにあるのであって、その考えや知識や知恵を12人の弟子たちに伝えるために、キリストの肉に擬したパンと、キリストの血に擬したワインを共に摂取したわけです。 そこでの情報の流れは「一方向」なんです、本来は……。 だからこそ最近は、わざわざ「双方向(インターラクティブ)コミュニケーション」といった言葉が使われたりするようになったのだと思います。 
ところで、このコミュニケーションという言葉は日本語に翻訳できない。 なぜかというと、日本人にとっては「一方向的な情報の伝達」というのが、余りしっくりこないからです。 それよりは「やりとり」という言葉のほうが分かりやすい。 これって、そのまま「双方向コミュニケーション」という意味でしょ? 日本人にとっては、こちらのほうが根源的な人と人とのかかわりかただったのではないかと思います。 


今ひとつ、高度経済成長期の日本では、なにはともあれ、スポーツの世界では野球が圧倒的な人気を集めました。 これって、いわば「(一方向的)コミュニケーションのスポーツ」でしょ? 監督の差配のもとにチームメンバーが力を合わせて敵と戦うわけですから……。 


それに対して、ポスト高度成長期に人気が出てきたのがサッカーです。 ここでも監督が差配をしないわけではありませんが、それ以上に、選手同士、選手とサポーターの間の「やりとりのスポーツ」なんだという印象を受けるのですが、いかがでしょうか。 


そんなことを考えて見ますと、広上さんの話に出てきたアルトゥール・トスカニーニなんかは「(一方向的)コミュニケーションの指揮者」だった。 それに対して広上さんは、文字通り「やりとりの指揮者」なんではないか。 その結果、うるさ型の職人である演奏者たちが、「気分ようやろうやないか」と考えるようになったのではないでしょうか。 



広上


今、お話うかがっていると、ああ、そうかと教えられるところが多いですね。 まさに、昔は、絶対主義の時代の指揮者というのは、わがままも通りましたし、自分の意志を伝えることが第一前提だったんです。 今は、プレーヤーの技術力が上がってきたこともそうなんですが、昔とは社会体制も違います。 団員の心理というのは、岡田先生がおっしゃったように、まさに板前さんの心理でありしてね。 昔は、指揮者が芸術家であり、プレーヤーは下僕であるから、ピアノでいうと人間の指のように、手足になってくれる人間たちという、何か勘違いしている指揮者がいて、まあ今でもいらっしゃいますが…。 実は、シェフはオーケストラの団員であって、指揮者ではないんですね。 プレーヤーは、まさに板前さんで、ひとり一人、技術とプライドを持って、彼らだけでも、音を奏でることができます。 指揮者は、「こいつのために一肌脱いでやるか」、「まあ、これだったら。 やってやろう」、「この監督だったら、オレたちイレブンでやりとりちょっとやってやろうか」という気にさせること。 まさにその、心理上のやりとりが、実は、「これが京響か」とびっくりさせたことにつながったのだろうと思っているのです。 つまり、何もやってないが、団員の持っている潜在能力に勇気を与えたということは、いえるかもしれません。 だから、口の悪い私の友人は、私のことを「人たらし」といいます。 あのう、人たらしは、坂本龍馬が上手だったと言うふうにうかがっておりまして、彼が、土佐から抜けだして亀山社中を長崎につくった時に、全く関係ない藩からの浪人の仲間たち、どこからの藩士であろうと全員を受け入れたと。 当時、藩は一国だから、そういう考え方をしたのは彼だけだった。 龍馬がコミュニケーションというか、「やりとり」を好んで、そういう会社にしていったことは、今の指揮者とオーケストラのことを言っているなあと、思いましたね。 



山口 栄一(同志社大学大学院総合政策科学研究科教授)




村瀬さんの話は、グッと来ました。 なんだか新しい科学の芽生えがある、と思いました。 この神経科学という非常に客体的な科学の中に、何やら「人間の意識」を捕える新しい科学の芽生えを感じました。 とりわけゾーンの話は、すごく面白かったし、ああやって、半導体電流で説明できるんだ、なんて思いました。 


そして、広上さん。 お話を聞いているうちに、「ああなるほど、広上さんの秘密はこれだ」と思いました。 「人たらし」という言葉がありましたが、広上さんは、一瞬にして、みんなを共鳴させるんですよね。 きっと演奏家ってみんな天邪鬼(あまのじゃく)で、「オレが一番」って思っている人たちの集合体ですから、「こんな指揮者なんて」と思いながら演奏に入るんでしょう。 でも、広上さんの指揮を見た途端グッと来るんだろうなと思いました。 
私たちも教壇に立つときに、場の雰囲気をセンシングしながら話を始める。 たとえば大学生に教える時と経営者を教える時とは全然ちがっているので、5分か10分ぐらいかけてチューニングするのですが、共鳴した瞬間ってわかるんですね。 そこで、「共鳴」のことを話題にしようと思います。 


002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊さんにお会いして親しくお話したことがあります。 ちょうどその10年前の1992年のことでした。 その会話の中で、小柴さんが面白いことをおっしゃったんです。 その前日に彼は、ピアニストの中村紘子さんと対談したそうで、その時、彼女は小柴さんに「科学者って本当にすばらしい。 独創的ですよね」といったそうです。 それに対して、小柴さんは「とんでもない。 科学者なんて独創性のひとかけらもないんですよ。 たとえば、相対性理論は、アインシュタインが発見しなかったとしても後日、かならず誰かが発見しています。 だって、自然は斉一ですから。 だから科学者なんてちっとも独創的ではない。 出来上がったものは、だれか別の人間でも作れる。 確かに創造のプロセスはあるかもしれないが、できあがったものは独創的ではない。 それに比べて音楽家は極めて独創的だ」とお答えになったそうです。 


これを聞いて、そのときは科学と芸術はぜんぜん違うと思いました。 ただ、同じことがただ一つある。 それは、「創発の瞬間」だと思うんです。 創造や発見のプロセスの瞬間があって、それが共鳴だと思います。 そこで何か、新しい音楽表現を見つけた瞬間と、科学で何か新しいものをつくりあげた瞬間というのは、人間の知的営みの中で似ているんだろうと思います。 これ、まさに村瀬さんがスピーチで語ってくれたことだろうと思います。 


村瀬さん、いかがでしょうか。 



村瀬


実は、物理学者で脳の研究に転向された武田暁先生が、岩波から「脳は物理学をいかに創るのか」を出しておられますが、その中で、すごく大事なことをおっしゃっています。 つまり、「科学は心が作るものだが、作られてしまった後は、心の働きを忘れちゃってる」ということです。 公式とかできちゃうと、後は式の展開で先に進めちゃうんですね。 そうすると、その式を創りだした時の心の働きを追体験することをしないんですね。 そこがネックじゃないかということです。 このことを今の山口さんのお話で思い出しました。 



山口


そうですね、ぼくら、科学と技術を同一視したがるんですけど、これは結構危険で、科学は、できあがってしまったものは、教科書になってしまって全部読めますし、数式で書いてありますから、誰でも学んで獲得できる。 その瞬間、創った人の心を離れてよそに飛んで行くことができる。 そして飛び去ったとたんに、心から離れてしまう。 出来上がったものを読み取った人間は、それから技術を作り上げるんですけど、そこに心はない。 その創造の瞬間の共鳴はない。 ほんとうは、技術をつくりだす人は、その科学を生み出した人の情念をも知るべきなのでしょう。 







広上


山口さんのお話を聞いていて、科学と音楽の違いは、よくわかりませんけど、共通したこところがあると感じました。 こういう言い方ができるんですよ。 音楽家、演奏家は、やはり技術がいるんですよね。 ただ、技術がうまい演奏家でも、感動を与えられない演奏家もいるんですね。 私のような拙い人間でも、世界中を回ってきていろんなオーケストラやソリストの方を体験しますとですね、これオペラの世界、歌手も含めてなんですが、アシュケナージ先生とか一級のアーチストは、ものすごい技術も持っているんですが、最後は見せないんですね、技術を。 心が優しいんですね。 私のような小僧でも、舞台上で、同じ人間として非常に尊重して扱ってくれるんです。 二流のトップというのがいるんですね。 これ、とても粗雑な言い方ですが、それでも私が吹っ飛ぶようなかなりのレベルなんですけれど、そのレベルの人たちは、いざ、なにかパニクった時、ステージ上で何かあった時に、相手のせいにしちゃうんですね。 ギリギリのところで。 剣の達人でも、刀を抜いて人を斬っちゃうのが、多分二流のトップ。 一流は抜かないんでしょうね。 


それで、科学と技術といっても、やはり生み出すまでの公式は、多分、芸術性があるんでしょう。 でも、公式ができあがった時点では、それが技術という炭化物になってしまう。 それから、医学も、人の命を助けるというのが常識だが、実際の臨床で、患者さんを目の前にした時は、心のあるお医者さんは、その患者をものすごく精神的に救っていけるだろうから、患者は体を預けられ、メスを入れてもらえ、耐えられる。 しかし、心のない場合は、どんなに上手にメスを入れられるお医者さんでも、もしかしたら、その患者さんは治らないかもしれない。 山口さんのお話から、そういう繋がりを勉強させていただいたように思います。 



村瀬


実は、今のお話、すべて一言で集約できるんです。 それは「プラシーボ」です。 これ「偽薬効果」と呼ばれるんですが、現実にあるんですね。 



髙田


それと、今ひとつ、プラシーボ(ニセ薬)に比べて、本当の薬の効能って、そんなに大きくない。 頭痛の薬の場合など、ニセ薬でも5割ぐらいは治る。 むろん本当の薬なら7割ぐらいが治るのですが、それでもその差、つまりは薬の本当の効果は2割ぐらいしかないようです。 だから、薬の効果を検定する際には「二重盲検」という方法が使われる。 患者に薬を渡す人も、どちらがニセ薬で、どちらが本当の薬かを知らないという条件のもとで薬やプラシーボを患者に手渡すわけです。 手渡す人が、こちらが本当の薬だということを知っていると、それが患者に伝わって、正確な薬の効能が捉えられないから……。 



山口


せっかく、岡田さんがいらっしゃっているので、お聞きしたいと思います。 クラシック音楽が生まれた場のことなんです。 ドイツの19世紀の後半ぐらいから、科学がムズムズと壊れ始めて、そして全く新しいものが生まれたのですが、その出発点は、多分、ボルツマンと思います。 ボルツマンは哲学者のマッハと論争した挙句、自殺しちゃいましたけど、最終的にはボルツマンが正しいことが分かった。 それから、プランク、アインシュタイン、ハイゼルベルグ、そしてシュレディンガーもそうで、ドイツからどんどん人材が輩出します。 ほんとうに旧来のパラダイムを壊していった人は、ドイツ語圏の人なんですね。 そして、これの40年前には、カントとかヘーゲル、フィフィテという哲学者によってドイツ観念論が生まれた。 それとちょうど時を一にして、やはりドイツ語圏でモーツアルトやベートーベンらが登場し、クラシック音楽が盛んになる。 こうしてみると、創造が起こる瞬間というのは、何か街に共鳴の場みたいのがあるようにさえ思います。 学問的には、どうなのかなあ、ぜひとも岡田さんにうかがいたいのです。 



岡田


確かに19世紀後半は、ドイツのクラシック音楽も爆発的に盛り上がりまくる時で、未だにわれわれがクラシック音楽だと思っている半分ぐらいが、この頃の音楽という気がしますね。 ひとつ単純に言えば、19世紀後半のドイツというのは、今の中国みたいなもんで、もう日の出の勢いの国力増強、重工業発展しまくり、まあ結局、そんな凄まじい勢いで発展したので、第一次、第二次大戦につながったわけですけど、第一次大戦でも、ロシア、フランス、イギリスを敵に回して4年間ほとんど優勢やったわけですからね、いかに国力が凄かったかわかります。 これを、ものすごく単純化して言うと、やっぱり文化が花開く時は、何か経済的な盛り上がりというか、国力がウワーッと伸びる時と重なるんやろなあということは、ひとつ思いますね。 もうひとつ、貧者の文化というのもあると思いますが、例えばジャズなんかそういうところがありますが、クラシック音楽というのは、貧しい人が、なけなしの金で買った楽器でできるというものと違いますからねえ。 楽器だけでもどれぐらいお金がかかるか、というものですからね。 圧倒的にお金がかかる。 


で、最近の京響のうまさということに関連していいますが、こんなご時世で、大阪のオーケストラとか、いじめられまくっているわけですわ。 金絞るとか、自助努力しろ、どんなけ業績を上げたかとかね。 それに対して、もう、公務員なんやから、「あなたたち信用してますから、安定した状況の中で思う存分やってください」、という環境に置かれたら、さっきのプラシーボ効果ではないけれど、いじめられるより、いいものができるに決まっていますよね。 







広上


今、岡田さんがおっしゃった通りで、もともとクラシックは、贅沢な貴族のお遊びから始まりました。 それで、先生が勉強されているジャズなんですが、ぼくも大好きなんですが、これは、黒人奴隷から来た魂の音楽。 どうも、ジャズとクラシックは、両方とも深い深遠な音楽です。 ポップスとか、今、時々、娘とAKBのコンサートにも行くんですが、そんなポップスとかユーミンさんの曲とかは、これはみんな19世紀までの西洋音楽の作曲法で全て解決します。 ところが、ジャズのコードだけは、クラシックの作曲家、西洋の音楽家が作れなかった設計図なんだそうです。 そのジャズの設計図から、20世紀の西洋の作曲家は、逆輸入して教わって、その発展の中で、ウェーベルンとかウィーン楽派が出てきたと言われています。 


これが、どういうことかというと、クラシック音楽というのは、もともとは贅沢な生まれだったのですが、ベートーベンの時代に、庶民の方に降りてきまして、で、まあ、モーツァルトが晩年に、「魔笛」を書いた頃から、庶民の人たちに広げる橋渡しをして、残念ながら、早くして亡くなったんですが、そこから、ロマン派の作曲家になると貧乏な人が多くなる。 メンデルスゾーンは別にして、シューベルトとか多くが貧しかった。 


このように、クラシックは、もともとは非常に裕福なところから始まっているんですが、実は庶民のところまで降りてきた。 で、先ほど京響で出た「安定」のお話なんですが、じゃあ、京響がこれ以上お金をもらうとうまくなるかというと、ジャイアンツのようになってしまう可能性がある。 岡田先生、とてもいいふりをされたのですが、確かに、いじめられると、クラシック音楽は栄えません。 元々が、ある程度の保護が必要なものではあります。 というのは、営利的なことができないからくりになっています。 だけども、あまりにも、素晴らしいからといって、お金があり過ぎると、恐らく団員も私も、こう、天狗になります。 こうなった時というのは、「平家物語」と一緒で、終わりの始まりになります。 今ちょうどいいバランスの状態だから、多分われわれも生きる喜びを見つけている。 庶民と一緒にがんばろうという、とてもいい状態にあるんだと思います。 これは、庶民の税金を使ってオーケストラや文化を保護しようというヨーロッパのやり方が、日本では唯一京響のシステムでうまくいっている。 大阪は、残念ながら、京都程の安定感がない状況で、そうなりだすと、今度は、明日のご飯のために死に物狂いで働かなければならない。 東京の6つのオーケストラもそうですね。 年間200回近いコンサートをしなければならない。 ヨーロッパでいうところのイギリスのオーケストラのように、たくましいが、明日もコンサートがあるので、決して、120%の演奏をしないんですね。 逆に、85%は確実にやっていくんですが、まあ、それで、イギリスのオーケストラの強さと膨大なレパートリーを誇る伝統が生まれたのですが…。 イギリスには、産業革命で、一切芸術家には援助しないヨーロッパでは珍しい歴史があって、これ、日本では評論家は評価しないですが、イギリスのオーケストラは、耐える力を持っていることは確かです。 大阪の場合は、今、試練として、その耐える力を音楽家が持てるか、もうダメと思うか、瀬戸際にあると思いますね。 それにしても、橋本市長は、小学校、中学校の時に、よっぽど嫌な音楽の先生に出会ったのでしょうかね。 


京響のことを、岡田先生は随分褒めてくださって、ものすごく興奮していますが、実は、団員には、「もうN響よりうまい」といってます、が、何もN響と比較することはない。 ただ、このまま、おごることなく努力していけば、日本で一番味わい深いオーケストラになるのは間違いありません。 このほどよい安定感が、今の私たちを育んでくれているんだと思います。 ですから、あまり甘やかされると、天狗になって、昔のオーケストラに戻ってしまう。 謙虚である心を忘れず、庶民に生かされて、彼らの喜ぶ顔を見ることで、われわれの仕事が成り立つという道理がわかった時に、初めて、このコミュニティーの中でのサイクルがいいように回り、私たちオーケストラの素晴らしさ、重要さが再確認されるのだろうと思います。 



高田


街には、それぞれ得意分野とそうではない分野があるみたいですね。 ウィーンには、私、半年ほどいたことがあるんですが、食材は非常によろしい。 牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉、それにハムやソーセージやベーコンなどは滅法うまいし、野菜も新鮮でおいしい。 ところが、レストランで出てくる料理は、どうもいただけません。 おいしいレストランが本当に少ない。 べつだんミシュランを信じるわけではありませんが、なにしろ星を持っているレストランが1軒だけ。 なんだか、お情けで星をもらったといった感じでした。 


ところで、19世紀の後半から20世紀にかけてのウィーンでは、優れた作曲家や作家の輩出、ウィーン学派の隆盛などが起こるのですが、この時代のウィーンは、実はハプスブルグの没落期でもあったわけでしょ? そういう意味でいうと、音楽が盛んになるのが社会の隆盛期と一致するとは限らないのではないかという気がするのですが……。 



岡田


経済的、政治的力を失い始める時、国が、体面を保つための有効なツールが文化なんですよ。 ハプスブルグは、それを音楽に求めたわけですよね。 ヨハン・シュトラウスやモーツァルトとかを生んだ国を馬鹿にはできんでしょうということです。 これが、16世紀ぐらいの絵画の場合だと、ベネチアがそれなんですよね。 ベネチアも、16世紀ぐらいから力を失うんですが、そうなってから、美術にものすごく力を入れて、あと数百年食っていくという形になるんですね。 文化の衰亡の形というのは、興味が尽きないですね。 



高田


いやあ、いよいよ話が面白くなってきたのですが、この調子でいくと、いくら時間があても足りません。 そういうわけで、山口さん、このあたりで、このあとのワールドカフェのテーマを提案していただけませんか。 



山口


さっきのアインシュタインというのが一つのキーポイントだと思います。 当時は、なぜ光速が一定なのだろう、と困ってしまった。 しょうがないから、エーテルにぶつかって地球を縮めてみようとかいろんな技巧を使って、パラダイムを守ろうとしたんですね。 ところが、アインシュタインは、光速が一定なら、時間が遅くなっていいじゃないか。 ものが短く見えていいじゃないかと、いとも簡単に時空のほうを変えちゃった。 つまり、パラダイムの方を変えてしまった。 ユダヤ人の心の奥には、自分が自分であってはならない、自分は、常に変化をしなければならないというのがあるんですね、常に迫害されていましたから。 ただ、この時、コミュニティーを形成する「街」の側で、「パラダイムを壊してもいいじゃないか」ということを許容する「中心性」のようなものが必要だと思います。 あのとき、3級の特許審査官に過ぎなかったアインシュタインは、マックス・プランクに認められたから、救われた。 


これが、「街」の機能の大切なところだと思うんですね。 パラダイムを変えることを許容するような街のあり方。 京都が世界に貢献できるとすれば、京都流の音楽、文化のありかたなど、京都の「街」が持つ「変革してもいいんじゃないか」という感覚ではないかと思うんです。 このことを、テーマに入れていただいたらどうでしょうか。 



高田


京都といえば、学術の新しい展開が連想されるのですが、どうも最近は余り元気がないようです。 逆に、昔は少なかった京都発の、若くて面白い小説家は増えています。 そこで思い出すのは明治時代、京都に国立大学を作ろうという話が出たとき、いろんな分野の人から、「遊興都市の京都で学問なんか出来るわけがない」


という反対意見が寄せられた。 ところが、実際に大学が出来てみると、じつは遊興都市であったが故に、独創的な学者がたくさん生まれました。 そして見事に、遊興都市であると同時に学術都市でもあるという状況がもたらされた。 それだけじゃない。 京都は、付加価値の高い製造業の都市でもあったわけです。 


そんな京都という都市のオーケストラである京響の質が、最近は急速に高まり、人気を集め始めています。 こうしたことも踏まえながら、今後の日本が世界の中で、文化や芸術、学術などを発展させ、どのように生きていくのか。 そうした課題に京都は、どんな資産をもって、どのように応えていけるのか。 これから始まるワールドカフェでは、そのあたりのことを考えてみてはいかがでしょうか。 そんなふうに思うのですが……。 



長谷川 和子(京都クオリア研究所)


お二人の出されたテーマに加え、変わってきた京響を核にして、京都の街を変えていくためには、どういうふうに、それぞれが変わらなければいけないか、そのための必要な装置は…。 コンサートホールに限らず、街全体をどう変えればいいか、これで具体的に話し合っていただいたらいかがでしょう。 

 



次の「ワールドカフェ」へ進む ≫

 

 

 

前へ

次へ

 



閲覧数:017955

 

 

Tweet 


 


 

メニューを開く


 活動データベース内を検索

 

  • 空白→AND検索
  • OR→OR検索
  • [キーワード]→NOT検索
  •