活動報告/クオリア京都
第6回クオリアAGORA_2013/ディスカッション
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ディスカッサント
堀場製作所最高顧問
堀場 雅夫 氏
同志社大学大学院経済学研究科教授
篠原 総一 氏
佛教大学社会学部教授
高田 公理 氏
京都大学大学院理学研究科教授
山極 寿一 氏
同志社大学ITEC副センター長 総合政策科学研究科教授
山口 栄一 氏
山口 栄一(同志社大学ITEC副センター長 総合政策科学研究科教授)
まず、篠原さんと私のスピーチで、何かインスパイアされたことがあれば、ご自身の分野に引きつけながら、それを語っていただきましょうか。
髙田 公理(佛教大学社会学部教授)
その前に、山口さんにお聞きたいことがあるのですが……。 よろしいか? まあ、単純なことなんですが、2号機と3号機など、最長で72時間、炉内の温度も圧力も、安全圏内に収まっていたというデータは、どこから入手しはったんですか。 そんなデータを見たら、東電の経営者の判断がまちがっていたことが、アホでもわかるやないですか。 それがメディアで、まるで問題にならへんというのは、実に不思議なんですね。
山口
不思議でしょう。 政府事故調の報告書にも載っていません。 手に入れる仕方は非常に簡単で、原子力対策法のおかげです。 東電は30分おきに、官邸にすべて現状を報告しなければなりません。 官邸は、東電からきたファックスをそのままウエッブサイトにのっけていったんですね。 全くの1次データです。 3月11日から始まって4月の半ばまで、約1カ月間出し続けていて、ものすごい量になります。 すべてアナログで作業者が,水位とかデータを手書きしてファックスにかけていましたので、私は、仕方ないので、それを全部Excelにいれて、2週間ほとんど徹夜してグラフにしました。
髙田
なるほど、そうすると、基のデータは実在したのだけれど、それを山口さんが入手して、いま提示されたオリジナルな資料に整理されたわけですね。 当然ほかに同じものは存在しない。 とすれば東電も、ことここに至って、「そんなデータは出してない」とは言えないわけですよね。
山口
そうです。 そこがすごく大事でですね、1号機が厄介で、1号機のデータを見る限りは、1号機はRCICではなく、IC(非常用復水器)というやつなんですが、これ、8時間動いているんですね。 これは元々設計上8時間動くようになっていて、その通りに動いています。 だから、2、3号機同様、意図的に海水注入をしなかったという議論はできるんですけれども、5月15日に、東電が突然、「1号機の原子炉水位は間違っていた。 水位メーターが壊れていたので、データは信用してはならない」と言い出したので、これは、現場にもいけず、ホントのことかどうかも分からない。 だから、私は1号機に関しては議論できないので、1号機を除いています。
髙田
そのことは、東電としても隠せないはずですね。 にもかかわらず、新聞記者をはじめ、さまざまなメディアは、それを無視して報道している。 それって、むちゃくちゃな話やないですか。 堀場さんには以前から話してきたことですが、原発って、非常に野蛮な湯沸かし器ですよね。 そう思って考え直してみると、今回の原発事故というのは、まあ、台所でお湯を沸かしていたら、ヤカンの水が全部なくなった。 で、そのヤカンに水を入れたら、割れてしまいそうや。 それはもったいないから、水を入れるのを躊躇してたら、やがてヤカンが真っ赤に焼けて、家が火事になってしもぅた。 そういうことでしょ? ほんま、アホみたいな話ですね。
山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)
私、この問題から一番遠い立場におりまして、原子力の技術も実態のことも知らないし、経済のことにも無知なんですけれど、お話を聞いた印象を言わせていただきたいと思います。 安全、危機管理を超えて重大な問題を、齊藤さんも山口さんも篠原さんもご指摘になっています。 それは何かというと、この事態の責任を、どう誰がとるかという話です。 そして、それを日本の国民である私たちは、どう考えるかという問題です。 生物学者の立場から言わせていただくと、この放射能汚染という問題は前代未聞です。 これから100万年間使えない土地ができちゃったわけです。 使用済み核燃料にしても、1トン当たり10の18乗ベクレル、100万年後でも、10の12乗ベクレルの放射性物質が残るわけです。 これは、取り除けません。 ということは、われわれは、未来永劫にわたってこの地域を使うことができないということです。 特に、農業立国である日本にとっては、大変困ったことです。
最近で言えば、2010年にCOP10(生物多様性に関する国際会議)が名古屋で開かれました。 ここで「愛知目標」を立てた。 その中に、「人間と自然がこれから共生する未来をつくっていく」と書いてあるわけですね。 だが、放射能汚染という問題を抱えながら、どうやって人間は、自然と共生できるんですか。 環境省は生物多様性に関する四つの危機をあげて、どうやったら、日本が国際的にリードできる生物多様性立国になれるのかを論じてきました。 でも放射能汚染については言及されてこなかった。
大震災の後、「三陸復興国立公園計画」が立てられました。 ここで目指しているのは、震災後の土地、特に津波で大きく破壊されてしまった土地ですが、そこ国立公園としてみんなが見守る保護地域にして復興を図ろうということなんですね。 ここには、いくつか観点が入っていると思います。 つまり、あの放射能大汚染をもたらした地震と大津波という自然災害を、これから、日本人としてどう見つめていくのかという話。 実はわれわれ日本人は、まだ日本列島の地理、自然の豊かさをほとんど利用していないんですね。 日本列島に豊かな自然が残ってきたというのは、牧場を作らなかったとか、脊梁山脈が列島中央に走っていて、そこが農業に利用できなかったとかいろいろ理由はあります。 雨も多く農業に適しているし、海流が豊かな魚資源をもたらすので、狩猟や牧畜に頼らなくても豊かな食生活が送れてきたわけですね。 そういう自然の恩恵を利用した将来はまだ日本でしっかり構想されてはいません。 今、政府がやっていることは、土木でどんどん国土を押し固めて、災害が起きても大丈夫なように防衛することばかりです。
でも、そういう投資が、われわれの利益になって跳ね返ってくるのかというとそうでもないような気がする。 いったい日本政府の投資が、本当にわれわれの将来の役に立つかどうかは見えていません。 さっき篠原さんがいったみたいに、試算がいい加減だからですね。 こういうことを、もう一度考えなおさなくちゃいけないということです。
特に、自然災害に対して日本人がずっとやってきた方法は、自然災害は避ける、あるいはそらすということですね。 例えば、桜島の人たちは、未だに噴火する火山のすぐそばに住んでいるわけですね。 だけど、家の構造とか退避をする場所とかきちんと考えて暮らしています。 だから噴火が起こっても誰も死なない。 ちゃんと緊急対策ができているからです。 日本人は、火山に寄り添って生きてきたんです。 ところが、今回の原子炉は、そういう対策を打ってこなかったし、安全神話で大丈夫と言い続けてきた。 だが、実際に起こってみたら、全く危機管理ができていないことに気がついたわけです。
われわれは、これから福島と同じようなことが起こっても、桜島の人たちと同じような緊急避難ができるとは思えないし、汚染された場所に再び戻って暮し続けることもできません。 その方法が確立されない限り、原子炉の再稼働は難しいと、ぼくは思いますね。 地震、津波、台風という自然災害が、これからかなり大規模で起こるだろうということを見越しながら、日本人は自然をもっと利用していかなくちゃいけないし、その予測に立ってエネルギー政策も考えていかなければいけないと思います。
さらに重要なのは、未来の世代に残す価値をどうわれわれはどう計算するかということです。 現代生きるわれわれ自身のためにさまざまな投資をするのではなく、未来の、50年後、100年後のわれわれの子孫が恩恵を受けられるような国土にするために、投資を考えなければいけないと思います。 その計算を経済学者にしていただきたい。 今日のお話は、そういうことも含めて、もう一度日本の将来を考えるいい機会になると思います。
山口
いいお話ありがとうございました。 感銘しました。 高田さん、何かインスパイヤーされたことはございませんか。
髙田
福島の原発事故は、起こってしもぅたから、結果、大変なことになっているのですが、早めに海水を入れてたら、現状のような被害は出なかったわけでしょ? それって、「備えあれば、憂いなし」ということでもあろうかと思います。
その上で、今の山極さんのお話はとても大事なことを指摘しておられたと思います。 それは自然とのつきあいかたに関する知恵の問題です。
たとえば、少し昔の淀川の流域の農家には、どこも軒下には舟が吊ってあった。 洪水が起こったら、それで逃げようというわけです。 そうすると、洪水が起こっても水害にはならない。 そういえば、阪神大震災の際にも、昔は、けっして家など建てなかった川の流れていた軟弱な地盤に、高度成長期に建てられた家が軒並み、倒壊したといったことがありましたね。 つまり、昔は確かに存在した、自然との付き合い方に関する知恵が、近代化の過程で失われてしまったというわけです。
そういえば日本列島も、いわば崩れ続けています。 なかでも六甲山などの場合、100分の1ぐらいの模型を作ると、1㍉角ぐらいの砂を積み重ねて作ることになる。 だから当然、地震が起これば、だだっと崩壊せざるをえない。 そういう大地と、どうつきあっていけばいいかということを、日本人は長い歴史のなかで学んできたわけです。
今回の原発事故は、そうした天災とは少し違っているわけですが、ただ、「まだ使えるものを潰したらもったいない」という、どっちかといえば意地汚い根性で、水を入れなかった結果なんですね。 こういうことに関しては昔から日本人は、「損して得とれ」と考えてきたのではなかったか。 という意味で東電の経営者は、全然ダメな人たちだったんだなと思わされますね。
山口
じゃあ、堀場さん何かございましたら。
堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)
フランスの理工科大学の研究団地にうちも研究所を作ったので行ってきたのですが、そこにみんな集まった時に福島の話がでました。 その時、日本は大変なことになっていて、実に気の毒だけど、ええ実験ができたということを言ってました。
どういうことかというと、東北電力の女川の発電所はびくともしていない。 しかも震源地からいうと女川は135キロ、福島は185キロでより近く、震度も3割以上大きかったのに、壊れなかった。 いままで、耐震については実際に揺らしてではなく、計算でやっていただけだったが、今回の地震で女川が壊れなかったので、原子炉は大丈夫ということが確認された。 これで、どんどん作ってドイツに電気を売ると言っていました。
このように、フランスと日本では、サイエンティフィックな面での原子炉に対する評価がぜんぜん違う。 災害があったから当然やけど、日本人は「大変や」ばかりいっているのに対し、フランス人は「これで原子炉は大丈夫」というんです。 あの時、停電でポンプが止まったわけですけど、発電所が上の方にあって電気が来ていたら、あんな事にはなっていなかった。 女川は、20メートル以上のところにあるんですね。 誰に聞いたか忘れましたが、それに比べ、福島は本当は30メートルの高さに作るはずだったのを、10メートルにした。 水中ポンプを使わなくても水を引き込める高さの限度が10メートルで、学者が津波は5メートル程度と予測し、それなら10メートルでOKということになったと聞いています。 東北電力の20メートルは、昔から、社とか大事なものはみんな20メートル以上のところに作らなアカンという言い伝えから20メートルのところにしたらしいんですね。 それで、津波は大丈夫で、震度も福島より大きいのに、炉心も付属装置もびくともしなかった
福島原発の問題は、事故が起こって大変だということと原子炉がどうやという話がごっちゃごちゃになっていると思うんですよ。 結果が大変だから、その原因をつくった原子炉が悪いといわれているわけだが、正直言うたら、ぼくは原子炉が可愛そうやと思う。 どんな素晴らしい車でも、運転を間違うたらね、ぶつかるし人をひきますよ。 運転手が悪いと言わんと、例えば、フェラーリが悪いと言ってるわけでしょう。 ブレーキも働いてるのに、ちゃんと運転もせずブレーキも踏まずに大事故を起こしておいて、この自動車が悪いと言ってるみたいなもんですよ。 日本人は福島の問題、その後処理とかで、こんなこと言ってるようなもんです。 日本人ええと思っていたけど、ほんまにあかん。 ええやつはごく少数やなとつくづく思いますね
山口
篠原さん、再稼働の問題で意見まとめていただけますか。
篠原 総一(同志社大学大学院経済学研究科教授)
京都に住んでいる人間として気がかりなことが一つあってですね、福島と違って、万が一福井の原発で事故が起こった時どうなるか。 これは京都にとって大変なことになりそうなんですよ。 福島の場合は海ですので、放射能が拡散して薄まってしまうから今のところ問題ないと言われている。 でも、福井の原発で事故が起こった時には、近畿の水瓶である琵琶湖に来るんです。 これは薄まらないんですよ。 そうすると京都の下にある巨大な水瓶に影響し、なおかつ淀川水系で大阪に流れていくことになる。 これはとんでもないことになるんだってことを認識しておかなければいけないなと思います。
そうしたうえでのことなんですけど、堀場さんがさっきおっしゃったこととも関連するんですけど、素人ながら、なぜ、福島第1だけが事故がおこって、福島第2とか女川とかはセーフだったのか。 これは、どうも第1は古いものを使いすぎていたんじゃないか。 そこに一点集中するんじゃないか。 もしそうなら、なぜ、途中で、ここを修理しようということを大々的にやらなかったのか。 確かに手直しはやっているんです。 しかし、私が読んだ本では、ベント修理をいろいろやってはいるんですけど、変に小細工しながら少しずつやるもんだから、結局うまく作動しなかったと書かれている。 これを見ると、経営者がやはり手を抜いていたんだろう。 じゃあ、経営者が変われば、ということですが、当然、変わったわけですけど、あの汚染水の対応を見ると一緒ですね。 やはり東電は組織としてちょっとおかしいんじゃないんですかね。
山極
篠原さんが先ほど、9電力が70年代半ばから、一斉にまとまって経営基盤を共通にし始めた、とおっしゃったことがずいぶん気になりました。 もし電力会社の地域独占を基本にすれば、発送電のやり方、電気代など、地域に自治権を与えてもいいんじゃないですかね。 今のように、国が電力会社を支配して、口を出すという体制は変えられないんですか。
篠原
ぼくは変えるしか方法がないと思っています。 それは原子力に限らず、社会保障とか、政府のやっていることには義憤を感じることがたくさんあるんですよ。 どうも。 趣味がよくない。 ただ、地域独占だから地域でファイナンスせよというのは考えたことなかったんですけれども…。
山極
いや、例えばね、地の利だって、その危険度だって、地域によって違う。 例えば南海トラフの地震は、17年以内に必ず起こると言われている。 そういう危険性は、地域ごとに全然違うわけでしょう。 そういうことを頭に入れながら、地域の自治が判断できるような仕組みはできないものですかね。
篠原
それをやろうとするならね、ちょっと応用の範囲が違うけども、道州制ですよね。 基本的には、ある種公共事業みたいなものは単位がなきゃいけなくて、今、山極先生がおっしゃったことを極限まで推し進めたら、個人個人で一人ずつやるということになってしまうのです。 だから、どこかで止めなきゃならない。
山極
今、電力会社が、個人が作った電気を買ったりする仕組みを作っていますよね。 水力発電とか、ソーラーとか。 規模からいったらとんでもなく小さなものなんでしょうが、こういう見直しというのも、少しずつ積み上げてやっていけるんじゃないかという気がするんですが。
篠原
そりゃそうだと思います。 ただ、私が印象として思うのは、そこのところの技術の予測が立たないから、どういう方法で、今おっしゃったようなことを進めていっていいか。 手探り状態ですね。 それをどうすべきなのか、知恵を絞らなきいけないんだと思います。
髙田
さきほどの山極さんの、「エネルギーは、地域ごとに自前で供給する」というのは、非常に大事な点だと思います。 だけど、再生可能な自然エネルギーだけで、そうしたことが実現できるのかどうか。 むつかしいところですね。
確かに太陽から降り注ぐ自然エネルギーは、ものすごく巨大で、その1時間分が、全人類が1年間に使う総エネルギー量とほぼ同じなんです。 そこで翻ってみると、原子力を除外すると、すべてのエネルギーは基本的に太陽エネルギーに由来しています。 太陽光はもちろん、風力も化石燃料も、もとはといえば太陽エネルギーにほかならない。 で、それらを巧みに濃縮して利用すれば、全人類が自然エネルギーだけで生存可能なはずです。
そういうわけで、ぼく自身も将来的には原子力発電をすべてなくしたほうがええと思っています。 だけど、現時点で、そういうことが可能なのかどうか。 そのあたりの問題も考えなければならないでしょう。
そこで考えるべきは、日本だけではなくて世界のエネルギー事情です。 まあ、日本だけなら近い将来、自然エネルギーですべてをまかなえるようになるかもしれない。 しかし、世界には60億人余の人が生きているわけでしょ? で、たとえばインドの人々は日本の12分の1程度、エチオピアの人々は日本の200分の1程度のエネルギーしか使っていません。 これらの人々に、「今後ともエネルギー使用は我慢しなさい」とはいえません。 当然、電力需要は世界規模で大きく増えていく。 そうした状況に、どう対応していくのか。
そこでは、原子力発電が重要な選択肢にならざるをえない。 実際、ドイツを除いて、今後とも原子力発電は世界中で増えていくにちがいありません。
そういうことを含めて、今年の10月6日の『京都新聞』に書いたことなんですが、お隣の韓国には、すでに21基の原子力発電所があります。 そして、そのほとんどが日本海側に立地している。 で、これらがボーンと爆発したら、日本も少なからざる影響を受けます。 けれども韓国に、「だから原発はやめなさい」とはいえないわけです。
それに日本の国内に限ると、今すぐ原子力発電なしの状態で、石油と石炭の火力と再生可能エネルギーだけでカバーできるかというと、これも難しそうです。 くわえて、すでに大量のプロトニウムが溜まっているし、今後も溜まっていくわけでしょ? こうした問題を、どう解決すればいいのか。
そこで思い出すべきは先程の、1970年前後に日本の電力会社事情が大きく変わったというお話です。 その背景には多分、どのような原子力発電をするのかという日本の政策の問題があったんだろうと思います。 というのも、ちょうどこの時期に、初代の南極越冬隊長を務めた西堀栄三郎さんが、「南極の次は原子力や」と言ぅて、原子力開発に手を染めます。 ただし、このとき西堀さんは「固体燃料を使う原発は危ない。 液体のなかで核反応を起こさせるトリウム溶融塩原発をやろう」と主張しています。 このタイプの原子力発電なら、現代日本の100万キロワットの10分の1、10万キロワットぐらいの規模のものができる。 しかも、西堀さんの言葉をそのまま使うと、「これなら皇居の横に建てても安全や」というわけです。 しかも、このタイプの原発はプルトニウムを燃料に使えますので、現在の核のゴミ処理の問題も解決できるんですね。
にもかかわらず、なぜ70年代に、こうした原発を選ばずに、現状のような原発が建設されるようになったかというと、トリウム溶融塩炉がプルトニウムを消費するという点が最大の欠点だと考えられたからです。 なかでも、やがて総理になる中曽根さんが、「原爆の材料となるプルトニウムを消費するような原発では駄目だ」といった意味の主張をした結果、現状のような原発が林立することになったわけです。
そういうわけで、私自身も、原発はいやだと思っています。 将来的に原子力発電はやめたほうがよろしい。 しかし、今後とも世界の国ぐにが原発を造り続けていくという状況の下では、核のごみの問題が一層大きくなる。 ならばトリウム溶融塩原発の建設と普及を進めるといった政策が採用されるべきなのではないかと思うわけです。
ここでいうトリウム溶融塩原発は1960年から10年間、アメリカのオークリッジ研究所で実証実験が行なわれ、めざましい実績をあげています。 ですから、そういうものの可能性を、今一度、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
できたら今日、お見えになれなかった齊藤先生とトリウム溶融塩炉の推進を目指しているNPOの人にお出でいただいて、クオリアAGORAで話をしていただくというのは、いかがかなと思っているところです。
堀場
ちなみにね、さっき話したフランスに行った時のことですけど、半分冗談でいってるの聞いたんですが、フランスの原子炉は、すべて独仏国境に作りますという。 なぜかというと、ドイツ人は電力料金を値切ってくるだろう。 その時、「分かりました。 それなら安全率を下げますとドイツ人にいうんだ」と話すんです。 確かに、ドイツは原発を国内に作らなくても、国境に作られたら、被害は同じなんですね。 ことはもう一国の判断では済まない。 今お話があったように、韓国にしろ中国にしろ暴発したら、日本にとっても同じことで、日本だけに作らなかったら安心と思っているアホがまだおるんですね。
とにかく、ぼくが言いたいのはね、原発についてね、自動車に例えると、ちゃんと運転したら大丈夫やと思って使うのか、これは危険なものとして運転するのか、その出発点がね…。 原発そのものが悪いのか、運転者が悪いのか、原発は、女川で大丈夫やと証明されているんだから何でそれをはっきりせいへんのか、ということなんです。
髙田
ヨーロッパの産業革命の時代、「ラッダイト運動」、つまりは「機械打ち壊し運動」が起こります。 というのも、生産性の高い機械が普及して、失業者が増えたわけです。 そこで、労働者たちは、失業の原因は機械にあり、と考えて機械を壊したわけです。
それに対して、近代以降、そうした機械を取り入れた日本では、「機械も仲間だ」と考えて、それらを打ち壊したりすることはありませんでした。 機械を人間の仲間だと考えたわけです。 実際、トヨタ自動車の工場などで、冬場にはロボットの関節のような場所のグリースを柔らかくするため、人間とロボットが一緒になって、毎朝ラジオ体操をするんだそうです。 つまり日本では、機械を大切にし、巧みに人間との共存をはかってきたわけです。
そこで原発の問題、とくにトリウム溶融塩炉のような装置のことを考えると、それを巧みに、かわいがって大事にしていくという可能性もありそうな気がします。
その点で東電の経営者は、ただ「もったいない」と考えて、瀕死の原発を温存しようとした。 そこでは、思い切って殺してしまうことこそが、未来に向けて原発の可能性を大事にすることなのだと思い至れなかったという点で、彼らは、日本の近代化過程における機械の受容の歴史と意味を理解していなかったのだと考えることができるかも知れません
山口
経営者と言っても、経営能力のない人も常にいますから、だから「現場判断で海水注入をするようにしなさい」と。 そして、その時、それをした人は必ず懲戒免職され、500億円とか1000億円の損害賠償訴訟をされることが予測されますから「その時には免責されるように法的担保をする」というのが私の説で、これによって原発を再稼働してもいいと思うんです。
山極
堀場さんがおっしゃったように、原発問題は国際問題です。 地球的規模の問題で、一国がやめても、ほかがやれば一緒です。 核施設に一発ミサイルを打ち込まれたら終わりです。 こういう危険的な状況に世界中がなっています。 一国の出来事が世界中に波及し、世界中で起こっていることが一国に波及していく。 こういうことをきちんと考えながらやっていかなきゃならない。 だから、山口さんが提起された、あの時、何が起こって、誰がどういう責任をとり、誰が悪かったのか、これをきちんと納得しなければ、この人たちに運転を任せてもいいといいうことにならない。 それと、篠原さんが提起した経済の問題。 例えば、われわれも、東北復興にお金をとられているが、そのお金がどこに使われるのか。 土木工事で何が起こるのか―その将来像がきちんと示されていない。 それが、ぼくらがいらいらするところなんです。 まだ、国民のコンセンサスが得られていない。 きちんと問題点と経緯を明らかにすることで、納得させてほしいっていうのが私の言いたいことです。
篠原
それに関連してなんですが、お三方の話とものすごく関係があるんですが、経営者の長期的な視点がなかったということでしたが、政府も同じなんです。 基本的にね、経営者も、政府の役人も数年で変わリますね。 どうしても、モノの見方が極めて近視眼的で、先程山極さんが提起されたようなことは、念頭にも及ばない。
山極
その場しのぎですね。
篠原
創業者企業の堀場さんを持ち上げるわけではないが、コロコロ変わるあの体制を変えないと、やはり同じことをやってしまう。
山極
どうしたらいんですかね。
篠原
創業者企業に任せるとか…。
山極
とにかく、先の堀場さんの意見も含めて、今、きちんと討論すべき時期だと思うんですよ。 例えば、2009年に、アメリカは、バイオマス燃料のコストがどのくらいかかるか計算しています。 そしたら、べらぼうにコストがかかるかということがわかって、割にあわないということで廃案にしたんです。 ところが、そういうことを、日本では全然やってないわけですよ。 原発の安全性ということについても何も出していなくて、再稼働、再稼働と言ってるだけですよ。 でも、それじゃまずいんじゃないか。 特に、マスコミが、一番悪いと思っています。 意見を平等に国民に示していない。 公共圏という国民が共有するコミュニケーションのネットワークが弱体化していると思います。 高田さんの書いた京都新聞の記事がどれだけ評判になるかというのもそのいい例なんだけどね。
髙田
全く何の反応もありませんでした。
山極
ちゃんといいこと言っているのに、今は、マスコミに、きちんと提示してもらえない状況にあると思いますね。 いろんなところで、意見をいうんだけど、都合のいいところだけ吸い上げられて、ウエッブページにポンと載ってしまったりする状況にある。
山口
非常に議論が膨らんできたところで、きょうのテーマである「東電問題を考える」というところに意見を集約していきたいと思います。 では、私が話したことを、ちょっとまとめます。 4つのメッセージです。 まず、ひとつは損害賠償を思った時、何が何でも東電に収益を生み出す構造を作ってもらう。 今の資産15兆円では間に合わない。何年かかっても損害賠償はしてもらわなければならないので、苦肉の策だが、軽水炉は動かさざるをえない。
2番目は、再処理、プルトニウムを作ることは意味が無い。 今から10年前の話で、鈴木達治郎さんという原子力工学の権威の方ですが、プルトニウムの値段はマイナス、つまり引き取り手がないということです。 先ほどのトリウム炉が可能なら使い道があるわけですが、現状では、再処理はすぐやめる。 つまり、もんじゅと六ヶ所村への膨大な投資はダメだ。 3番目、損害賠償はきちんと東電が行う。 東電が倒産すれば新たに考えなければいけないが、一応、会社更生法の枠内で再生させ、投資家には責任を取ってもらった上で、損害賠償をする枠組みをきちんと作る。 4番目は福島の再生。 これは東電の手にはおえません。 これは国民的議論を持って国がやっていく。 この4つが、私の、と言うより齊藤さんの提案です。
堀場
東電の問題について、山口さんがおっしゃっているように、この、全体の真実というものをベースにして東電にどれだけ責任を持たすかということであり、福島は東電ができんから国家がやるとか、損害賠償は東電がと言っても何の裏付けもないやないですか。 この問題が起きた責任を明確にして、責任に対応する損害賠償が出てくる。 これができない場合は仕方ないから国が、これだけ助けるということでしたら国民も納得する。 東電側に立っていうと、すべてどうするこうする、細かい設計も全部国に提出し、「よろしい」と言われたわけでしょう。 もし、私が東電の者やったら、「今さら何であかんというんや、何で、あの時、これではあかんというてくれへんかった」というね。 真実をあからさまにしないで責任論をああだこうだいって、いろんな議論しているから、2年経っても何もできてないといいうことになってるわけでしょう。 マスコミも誰も真実をとらまえ、伝えようとしない。
髙田
1970年前後に、なぜ、こういう原発づくりをするようになったのか。 すでに触れたように、1960年から10年間、アメリカのオークリッジ研究所は、きちんとしたデータを出してトリウム溶融塩原発やってるわけです。 それが、その後どうなったのか。 現在、一基だけがインドで稼働しているのですが、それ以外にトリウム溶融塩炉は存在していないようです。 先ほども言ったように、1970年代にはプルトニウムにプラスの価値があった。 それが現在では明らかにマイナスの価値しか持ち得ない。 こうした点を見直すことなしに、この問題は解けへんと思いますね。
山口
政府の責任は非常に大きいと思うんですが、特に政府事故調の責任は大きいです。 彼らは、最初に、犯人探しはしない、事故の本質だけを追及します、と始めたのですが、これは、公的鑑定人としての責任を放棄している。 あそこで、きちんと、誰がこの事態を招いたのか、それを追及しなかった。 これ、国会事故調も同じことです。 もう一度、草の根というか民間レベルでもう一度責任は誰にあるのか、探すべきだろうと思います。
髙田
ちょうど、こういう時期に「特定秘密保護法」という、アホみたいな法律つくるわけでしょ? みんな闇に葬ったら、おしまいなわけですよね。
山極
元々、根本的な原因をきちんと精査しなかったということに端を発すると思うんですが、まだ、問題は全く解決されてないんです。 汚染の問題、避難した住民の問題。 単にインフラを再生すればいいという話ではないわけですよ。 社会をきちんとつくりなおさなければなんないわけでしょう。 就労やお年寄りの介護の問題とか、さまざまな問題が終わってないわけです。 「このくらいのお金で何々ができますよ」というだけでは、その予測は実現していかないだろうと思います。 つまり、実情に応じながら、長い視野でこういうことを補償していきますという約束をしなければいけないはずなのに、どこかで打ち切っているんですね。 ここはもう終わっています。 ここはもう終わりにしましょうなんて終了宣言していますが、実際は全然終わっていないし、問題は膨らんでいると思います
政府が責任を持って東電にやらせるべきはやらせ、政府が責任持つところは責任を持つと宣言しないと、こういう事態が再び起こった時に、さっき桜島の例を出しましたけれども、こう対処すれば大丈夫ですということを、われわれは確認できないわけですよ。 これがぼくは一番の問題だと思います。
山口
問題がだんだんクリアになってきたと思います。 そろそろ、会場からのご意見を伺おうかと思います。 龍谷大学学長の赤松(徹眞)さんがお見えになっています。 いきなりで申し訳ないですが、いかがでしょう。
赤松 徹眞(龍谷大学学長)
まず、テーマが東電の責任問題というところに焦点がいってるわけですけど、先ほどの事例なんかでも、いくつかの近代的な工業システムの中での問題というか、堀場さんの車と運転手の問題という指摘がありましたが、原子力問題は、放射能、核分裂性エネルギーという基本があるんで、そこから出される放射能物質なりそういったものが廃棄物として出ていた場合に何らかの処理をしなければいけないわけです。 そういった場合、人類というか、われわれの場合、日本列島の中での今までとは決定的に違ったある種の近代的物質、作られた物質と、今後も作られていくわけですから、それとどう共存していくことを考えていくかです。 これは、経済的な問題でもあるし、ある種世の中で考えないといけないことであって、これは哲学といえ、きちっと議論しなければいけない。 つまり、いくつかの経済的でもあるし、技術的な問題でもあるし、山極先生のおっしゃった普遍的な問題でもある。 やはり、一つの哲学的な所、もう少しそういう分野を踏まえて考えないと、経営者だけで議論するだけでなく、別の観点から、この問題については複合的に議論すべきだろう。 私の専門領域は、日本史の思想史で、そこから考えると、経営責任の問題については関心があるわけですが、経営者、特に東電の社長には、人間観というかフィロソフィーというものを、人間の生存には厳しいものを作り出している今の時代、どう考えていたのかということを聞きたいと思います。
山口
核エネルギーというのは数メガエレクトロンボルト、温度になおすと数億度を超えるようなエネルギーで、自然エネルギーとは全く性格が違うものであり、これと人類は折り合いをつけていけるものかどうか、これは重要な問題で、本当に考えていかないといけないと思います。
三木 俊和(市民)
5年ほど前まで経営者をやっておりまして、その時いつも認識してましたのは、社会的責任、CSRとかISOとかそういったものを常に念頭に置いていました。 要は、経営者は、企業というのはこういうものでなければいけないという思いがあったわけです。 今マイクを持たせていただいたのは、そのころ、福島県の方で、原発のことが問題になっていた記憶があります。 どういうことかというと、今の知事と同じ名字の前の知事の佐藤栄佐久さんが、最初の原発容認から反対に回ったら、圧力を受けるようになった、と。 これ自分の著書に書かれているんですね。 それで贈収賄疑惑で辞職されるんですが。 それで、あの地域では、津波が来たら危ないというふうなことがその数年前から言われていた。 改善命令も出ていたと言われています。 最後に出たのが麻生総理の時代で、「電源の位置が悪いから直せ」という話しを聞きました。 この話が、一般的にも、この会でも出てこない。 これが真実だったと聞きたくて、来てるんですけど…。
中西 宣夫(市民)
きょう話しを聞いていて思ったんですが、原発事故は、他の事故とは全く違う種類のものと思っていて、違う扱いをせないかんと。 きょうも、あの時に海水を入れていたら無事やったかもしれんという話がありました。 たしかにそのことを極めることも大事ですが、あの事故はまた起こる。 また同じように起こる可能性があり、原発事故は二度と起こってはいけないものなんですが、そういうところが出てこなくてもどかしく感じました。 それと、東電が守られているという話なんですが、誰がどう守っているのか聞きたいですね。
田中 頌宇将(同志社大学経済学部学生)
学生なんで、発言するのすごく緊張してますが、お聞きしたいことがあって手を挙げました。 原発を継続させていくという視点からいうと、運転手がよくても廃棄物という問題があります。 それに対して、トリウム原発というのがあるかもしれませんけれども、電力産業という事自体、その地域独占という問題は残ると思うんです。 企業は事業を行っていくことを前提とするから、価格の決め方とか、ミクロ経済学的に難しい部分は残ってくるかと思うんですよ。 そういうことを考えると、原発の技術を開発していくとともに、自己発電というのも一つのキーワードではないかと思う。 そういうふうに技術をあげつつ、日本がプロトタイプとして、技術を発展させ、世界に技術を提供しながら世界競争というのが、サスティナビリティーで考えていけるんじゃないかな。 こういう考え方、ぼくはできると思いますが、どう思われますか。
五十嵐 敏郎(金沢大学大学院生)
常に疑問に思っていることが二つありまして、日本には沖縄を含めて10電力ありますね。 沖縄を除いて、みんな原発持っているんですが、東京電力を除き、中心地から離れているにしても、すべて営業圏内に原発を持っています。 で、普通営業圏内に原発を持っておれば、それが、何か過酷な事故を起こした時の影響と原発そのものを維持していくことを両天秤にかけた時に、どうしても維持する側に傾くのじゃないか。 これが例えば〇〇○のどこかにあったらどうしただろうかなと。 いう風に考えた時に、非常に無責任な企業体質になっていたのじゃないか。 倫理上大きな問題を抱えていたんじゃないか。 それをどうして、東電だけに許してきたのかな、これがちょっとわからない。
もうひとつは、エネルギ―についてですが、私はマイナスのエネルギーというんですが、エネルギーを使わない社会という意味で使っています。 エネルギーのすべての中で、原発が占めているのはたかだか10%ぐらい。 全部稼働しても3割ぐらい。 その程度だったら減らせるじゃないか、という議論がどうして出てこないのか不思議でかなわない。 はっきりいいまして、今の原発はウランを使っています。 ウランの可採埋設量は40年ぐらいです。 今のレベルで40年ですから、これが10倍になれば4年で、すぐ限界に達することは目に見えています。
加藤 聡子(市民)
リスクの意味について、私たちは、福島の人たちと同じような事になった時、その時のリスクをどう考えるかという視点が必要だと思います。 そして、福島の人たちが、原発を動かしてもいいと思える環境を作って初めて再稼働ということが問題になるんだというのが一点。 もう一点、日本全体が原発を運転する資格があるかどうかにつきましては、福島原発事故の原因を、すべての事故調査委員会で失敗しているというか、意図して失敗しているというべきか、どこも事故原因を究明していない。 ということは、事故の前から関わってきた原発を運転する人たち、会社の人たちだけでなくって、政府、原子力村の人たち、もう完全に復活していると思いますけれど、そんな人たちが、今、再稼働という資格があるのか。 日本人の社会に、原発の運転免許があるのか、ということが気になります。
それから、原発事故が起こらなかったらそれでいいのかという問題。 バックエンドについて、プルトニウムなどの再処理は、経済的に成立するのか。 未来の人たちには負債ばかり残るのではないか、そうした経済的側面も経済学者の方々にも考えていただいて、やはり持続可能な社会、それはいろんな国がいろんなことをするからということから離れて、われわれはどういう道を進むべきかっていうことについて、もう少し縮小していく方向で、ソフトランディングで新しい方向を見出すという観点が必要なんじゃないかと思います。
橋本 誠司(市民)
きょうの話の題目で、「リスクに向き合う」という、この部分がやはり一番大事なことではないか。 スピーチや討議の中で正面から論じられませんでしたが、例えば、堀場さんが「原子炉はある意味安全なんだよ」というのは、これはリスクとしては小さいよ、ただし、その場合でも、どんなリスクか知っているかどうか、それを知った上で、どういうふうにそれをとらまえていくか、こうすることで我々は原発に向き合うことができる。 原発は、だましだまし使う、というのはちょっとへんない言い方ですが、やはり万が一のこと、二重三重の手を尽くしながらやっていくことです。 再稼働の評価について、加藤さんが「福島の方々がいいと思える環境ができたら」というふうにおっしゃいましたが、いい評価だと感じました。
角田 直人(香川大学名誉教授)
工学部に奉職していました。 学生の時に聞いた話で、ちょっと堀場さんに反応するようなことになりますが、飛行機が落ち、船は沈み、車は衝突するものです。 運転手がよければという話がありましたが、これ全部人間が扱うものです。 人間には必ずヒューマンエラーがあります。 何が言いたいかというと、科学技術に基づいてできた工作物は必ずリスクをともなっているんだということで、大小はありますが、できるだけそのリスクを小さくしたいという思いがあって、これまで、科学技術を活用していろんな改善をしてきました。 今では、衝突しない自動車のシステムづくりも進んでいるように、ヒューマンエラーをどんどん減らそうという試みは行われていくのですが、必ずヒューマンエラーはあります。 ですから、内在しているリスクをどういうふうに認識して、その技術を使っていくのかということがとても大切です。 もう一点は、原子力が他の工学物と違うのは、核分裂反応は、人間が制御できない反応なんです。 そこの所を考えないといけないということを頭においていただきたいと思います。
【会場の様子】
山口
最後に浮き彫りになったのはリスクの話でした。 リスクに向き合う覚悟ということで、ディスカッサントのみなさんの意見をうかがいます。
山極
さっきも言ったんですが、日本政府の世界に向けての政策発信はとてもちぐはぐです。 環境省の言ってること、経産省の言ってること、それぞれ別々です。 世界に、日本政府の実態はどう見えているのかと思わざるをえない。 福島の後処理の問題についても統一しているとは全く思えない。 だから不安なんです。 われわれ自身がもっと議論して、政府に、こういう戦略で世界に向かって行くんです、日本はこういう立場なんです、ってことを言わせるべきなんですね。
そこでもう一度強調しますが、大事なのはマスコミの役割なんです。 研究者の役割も大きいが、それをマスコミがサポートしないで、いったい何ができる。 政治家が一番弱いのはマスコミですから、マスコミがきちんとしてくれないと、われわれの声は政治家に届きません。
髙田
放射能や核反応を完璧に制御するのがむつかしいというのは当たり前の話です。 だから、原発なんかないほうがいいに決まっています。 実際、未来永劫、原発に依存しようなどとは言っていません。 ただ、現実に原発があるという状況の中で、あらゆるタイプの原発をやめてしまっていいのか。 本当に正しい選択肢なのか。 そうした検討が必要だということを言っているだけです。
堀場
リスクマネジメントのことをもっと議論できればよかったと思います。 日本ではですね、リスクマネジメントというと、リスクをとらないこと、リスクから離れる、あるいはリスキーなことをやらないことなんですね。 勘違いがある。 ほんとは、リスキーなことをやって、リスクを最小限にとどめるということなんです。 だから、日本ではベンチャービジネスが育たない。 未だに学生も、大手の企業や銀行にいって、われわれのような危険な会社にはこない。
そういうことで、原発の事故の問題ではっきりしたことは、日本というリスキーなことはやらない雰囲気が充満したところにリスクが起こって、右往左往するばかりで2年経っても何もできないという状態にあるという現実です。 教育というか、日本の社会的な問題で、こんな時に生まれてしゃあないなあということです。
篠原
フロアからの質問にも関連するのですが、原発がない方がいいに決まってると高田さんがおっしゃいましたが、ほとんど誰でもそう思っています。 また髙田さんは、「あるものは仕方ない」ともおっしゃった。 それで、私のいいたいのは、先にもいいましたが「進むも地獄、退くのも地獄」だということを考えた。 やめたところで、原発は残ってしまう。 これもリスクがあるわけですから、そこのところも同時に考える視点も大切。 そうなってくると、それを使い続けるかどうかも考えないといけない。 進む、退くどっちにしろ、将来のことも見据えつつ、お金ばかりでなく山極さんのおっしゃったことも含めての「コスト」をきちっと見極めていかなければならない。
長谷川 和子(京都クオリア研究所)
きょうは内容を変えて開催させていただきました。 大学の街京都ということで、こういう施設を使ってやれればいいなと思い寒梅館で開いてみましたが、いかがだったでしょう。 20年ほど前、亡くなった京都大学の高坂正堯先生が、テレビの番組でご一緒したとき、「パネリストの議論も面白いが、市民から寄せられる意見がとても面白い」とおっしゃっていたことを思い出すのですが、多分、きょう来ていただいた方には、こういうフリーな立場で話し合いができるのが、京都の特徴なのかと感じていただけたのではないかと思います。 原発とか、リスクの問題は難しいテーマで、先月ぐらいから、マスコミについての発言も目立ってきていて、われわれも、マスコミを動かしながら、どう考え発信をしていくのか意識していかないといけないなと感じたところです。 広くオープンな議論ということできょうは同志社に参りましたが、また、きょうお集まりの方に、いろんな場所で、いろんなテーマで関わっていただけたらと思います。