活動報告/クオリア京都

 


 

 

第1回クオリアAGORA 2015/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

ウエダ本社社長

岡村 充泰さん


陶芸・美術作家

近藤 高弘さん


武庫川女子大学名誉教授

高田 公理さん


京都大学大学院理学研究科教授

高橋 淑子さん



モデレーター

写真家

荻野 NAO之さん




長谷川 和子  (京都クオリア研究所)


高橋さんに、発生生物学の観点から、細胞のお話をしていただきました。 とても楽しかったです。 時間が大幅に超過したのもわからないぐらいでした。 では、これから高橋さんのスピーチをもとに、ディスカッションに移りたいと思います。 今年のクオリアのテーマは、「2030年の未来を京都から創ろうじゃないか」ということです。 東京では、20年のオリンピックに向けてガンガンいっているのですが、京都人は、もう少し先、それより10年先のことを考えながら、未来を京都からつくっていく、この哲学を、この場からやろうよということですので、きょうの発生生物学の問題提起をベースに、社会とか、組織のありようについて討論できればいいなと思っています。 今回から、モデレーターを写真家の荻野NAO之さんに務めていただきます。 では、よろしくお願いします。 



 

荻野 NAO之 (写真家)




高橋さん、素敵なお話をありがとうございました。 私も、一応理系だった時代もありまして、ま、過去のことはなるべく触れないようにしているのですが、それから逃げてきた人間で…。 何だかわからなくて、で、いろいろとやって、今は写真家をしております。 


では、早速、話を回していきます。 ディスカッサントの方々のプロフィルを見ますと、これ、私の偏見ということかも知れませんが、あと、こういう見方をしてはいかんかもしれないんですけど、みなさん、お三方とも、何となく家業というものがあるようなところにお生まれになっているような気がしたんですね。 例えば、岡村さんの項を見ますと「本業」ということが出てきますし、近藤さんの場合は、これ家業と言っていかどうかわかりませんが、陶芸一家である、と。 また、高田さんのところについても、家業の初生ヒナ人工孵化ということが書かれております。 


それで、どういうふうに振ろうかと思ったんですけど、お三方に自己紹介を兼ねて、みなさんの家業の現状といったら、あれかもしれませんけど、家業を、一人の、例えば人間の一生涯ととらえた時に、今の年齢は、何歳ぐらいでしょうか、ということをお聞きしたいと思います。 先ほど、高橋先生のお話で、胚から発生しまして、何時間で、何日でこうなるという写真が並んでましたけども、恐らく、それぞれの中で、自分の家業について、今、生まれ変わってもう1回青年期やってるんですとか。 あるいは、老年期になりまして、もう、実はなくなりました、ということもあるかもしれません。 その中で、今後、みなさんの家業とご自身の関わり方と今の生物学的なところで、何かじゃあ、その家業が若返るって何だろう、それが変化するって何だろう、みたいなところを、強引につなげていきたいと思ったわけです。 では、準備の出来た方からよろしくお願いいたします。 



高田 公理 (武庫川女子大学名誉教授)




むちゃくちゃ面白いお話、ありがとうございました。 で、家業の話をしろということですが、私の経歴には「初生ヒナ人工孵化業」という記述があります。 と言っても、イメージがわきにくいと思うのですが、その前に、戦後日本における働き方の変化について、少し述べておきます。 というのも、現在では「家業を持っている人」は少数派なんでしょうが、昭和30年、つまり1955年以前の日本人のほとんどは、農業をはじめ、八百屋さんや魚屋さんなどの商業、いろんなものづくりといった生業的な家業に従事していたわけです。 ところが経済の高度成長につながる近代化の過程で1955年、日本の勤労者の50パーセントが勤め人になります。 で、家業としての各種小売業に従事していた人も、やがてスーパーやコンビニといった企業の勤め人にならざるをえなくなっていくわけです。 


そこで翻ってみると、私は今年71歳になる1944年生まれですが、生まれた家の家族は家業に従事していました。 ただ、私が生まれたのち10年ぐらいが経つころから日本社会はひたすら「家業的ではない社会」に変化していったと言えようかと思います


そこで私の生家の家業について説明します。 まず初生ヒナ人口孵化業とは、自営や委託の種鶏場から受精卵を集めてきて孵卵器、つまりはインキュベータで温めてヒナに孵し、それを農家や養鶏場に販売するという仕事です。 これを始めたのは、私の爺さんなんですが、ほんらい彼は、明治時代には農村であった京都の七条千本で喧嘩鶏、つまりはシャモ(軍鶏)賭博の胴元を生業とする地回りのやくざだったんです。 だから、強いシャモを育てると確実に儲かる。 じゃあ、どうすれば強いシャモが作れるか。 いろいろ考えて彼は、大量の卵を孵したら、なかに強いシャモが出てくるであろうという結論に到達するのです。 ところが当時、ヒナを孵すには受精卵を親鶏に抱かすしか方法がなかった。 これでは数は稼げない。 と思っていると、アメリカに孵卵器というのがあるらしいという話を耳にした彼は、練炭を焚いて一度に大量の受精卵をヒナに孵せる孵卵器を輸入するんです。 すると母集団が大きくなって、強いシャモが生まれるようになった。 


こうなると、喧嘩鶏仲間が、「何でおまえのシャモは、そんなに強いんや?」ということになる。 で、理由を説明すると、「そんなんやったら、わしらの卵も孵してくれ」という要望が返ってくるようになる。 と、爺さん、商売人だったんですね。 「ただでは出来ない。 委託孵化賃をもらうでぇ」ということになり、それがきっかけで、ヒヨコ屋が本業になったという次第です。 


そういうわけで、実は、高橋さんが発生学の研究をされた京都大学の岡田節人先生の研究室に、私は1970年前後、胚ができて、やがてヒナが出てくる孵化寸前の鶏の卵を納入するのを仕事の一部にしていたことがあるんですね。 まあ、大学卒業後しばらく、私はそういう家業に従事したいたのですが、やがてそれに飽きて、大工の下働きをしたり、酒場を経営したり、広告制作会社に勤めたりしているうちに、あまり頭の良くなかった長兄が家業を食いつぶしてしまった。 ちょうどアメリカやカナダから多数の卵を産む採卵鶏や成長の速いブロイラーが輸入されて、初生ヒナ人口孵化業界においても、弱小の家業が淘汰され、大規模な企業だけが生き残るようになる時代の出来事でした。 


それはまた、生業的な家業に従事していた日本人の多くが巨大企業の勤め人に変化していく過程でもありました。 で、私自身も、何度かの変転ののち、今年3月まで勤めていた大学の教師になったというわけです。 



荻野


はい、ありがとうございます。 続いて、後のお二方に家業のお話ししていただき、その後、高橋さんにお戻しして、できれば、発生生物学や細胞のお話と絡めて、3人の方のお話に関連して、ちょっと感想なり意見なり伺えれば、と思っています。 では、近藤さんお願いいたします。 



近藤 高弘 (陶芸・美術作家)




高橋先生にまだまだ聞きたいことの方が多いんですけど、まずは自己紹介します。 私が、なぜ、陶芸・美術作家といって陶芸家といわないかということは、後ででも話すことにして、家は、祖父(悠三)、父(濶)、叔父(豊)、そして私とまあ、私で三代目になるんですが、そういう京焼・清水焼といわれる陶芸の家に生まれました。 祖父悠三は、磁器染付の人間国宝でしたが、呉須と呼ばれるコバルトの絵の具で白地に絵を描く仕事を中心に作品を制作していました。 父も同じ方向の仕事をしていました。 ただ、叔父は、京都市立芸術大学の教授をしていて、まったく祖父とは違う作品を制作しておりました。 やがて、自ら命を断つんですけれども…。 まあ、京都の場合で、陶芸でたかだか三代なんていうのは山ほどおられますし、樂さんでいうともう十五代続いているわけですね。 うちの家というのは、まったく世襲制ではありません。 ですから代々流れを次ぐとか、そういうプレッシャーは全くなく、自由にしろという気風で子どものころから、一度も陶芸家になれとか、家を継ぎなさいなんてことをいわれたことはありませんでした。 それで、私は、たまたま中学から卓球をやって、一応高校の時、日本チャンピオンとなり、大学、社会人と日本代表選手として国際大会にも出ていました。 だから、もうそのころには、家に帰るというつもりは全然なかったんですね。 


ただ、スポーツ選手というのは、現役で一生いけるものではないし、それと、作品づくりに悩んで叔父が自殺してしまったことが大きなきっかけになって、京都に帰ってきて焼き物をしようと思ったわけです。 ですから、スタートはとても遅いです。 25歳で一から勉強しまして、自分のモノが少しできるようになったのは30歳ぐらいでしたね。 


それで、きょうのお話とつなげると、京都というのは、深い伝統があって、その伝統を守っていくっていう一方で、やはり、自分の個性を出していく、という作り手・作家が多いんですね。 それが、京都の一つの気風っていうのか。 私も、そうで、自分のオリジナリティーがある仕事をどうするかと考えた時、近代のモダニズム的思考を使うしかなかったみたいなところがあるんです。 ですから、最初の技術だけは、伝統的な祖父、父の技術を勉強しましたけれど、それ以後、きょうは作品持ってきませんでしたが、一般的な焼き物といえないようなカタチや実験的なことやアバンギャルドなことを約25年間してきました。 それは、やはり、近代西洋のモダニズム、つまり自分のオリジナルを作るとか、自分の一つのコンセプトをつくるとかいう、そういった影響があったと思います。 それによって、家業である家の染付のスタイルから脱却するということをやってきましたので、陶芸のための陶器を作るのではなくて、陶芸という手段を使って、いわゆるアート、美術に向かうという考え方や方向で進んできたかと思います。 


さて現在、京都の焼き物には、地元の土を使い薪窯で焼成するというその本質は、ほとんどないですね。 昭和の40年初めまでは、京都の焼き物は、作家も職人も、皆、薪窯(登り窯)で陶器を焼いていましたけど、今や電気窯、ガス窯で焼いています。 それから、土は、京都でほとんど取れません。 すべてブレンドされた土。 電話をすれば、宅急便で世界中の土が届きます。 そういう意味では、現代の陶芸は、一つの自分を表現するための目的ということでもあり、造形表現の手段であると思います。 そうであるのであれば、それは、現代の作家である以上、アートに向かわざるをえないという現状も感じてきましたし、当然、国際的なアートシーンとの関係性も近い状況であるわけで、そういう思考やプロセスの中で作品を発表してきました。 それで、冒頭、申しあげたように、陶芸・美術作家としています。 


ただ、最近、実は、この5年ぐらい、特に2011年「3・11」の災害と事故以降ですね、「本質的な焼き物とは何か」っていうことを、考えざるをえなくなりました。 先ほどの、自分の家業が何歳かということのご質問に関連付けると、私は、50歳の時に自分のセルフポートレートをつくりました。 それは、ライフマスクでもありデスマスクでもあるというものなんですが、ちょうど叔父が死んだ50歳を死と再生の起点として造った作品です。 それは、これまでの活動を一旦リセットするきっかけと考えていました。 そして、この作品をNYのギャラリーで発表し展覧会が終わった直後に「3・11」が起こりました。 それ以後、これまで本当の焼きモノらしいものをあまり作ってくることが少なかったので、一から本質的なの焼き物をやってみたいという思いを持つようになり、現在、試行中です。 



荻野


今うかがって、また、高橋さんに答えていただけると思いますが、私も一応表現活動やってますけど、今、アートっていう言葉が出ました。 アーティストっていうのは、ほぼ組織の中に属していない人間なんですよね。 そうすると、私たちは、がん細胞なんでしょうかね。 いやいや、われわれが作る作品によって、人々が、何かハッて蘇生するのであれば、iPS細胞的なものなんでしょうか。 がんだといわれると非常に痛いなという感じがするんですけども…。 では、引き続き岡村さんからお話をいただきたいと思います。 



岡村 充泰 (ウエダ本社社長)




きょうは、呼ばれてどうなるかと思っていましたが、ずいぶん関心事で、いっぱい聞きたいことが出てきました。 


私のところは、もともと文具の卸からスタートしまして、法人の方には、事務器のウエダとかとウエダ事務器、そのようなことでよく知っていただいております。 今年で創業78年目です。 それと、事務器ということでいいますと、先ほどからよく出てきた岡田節人先生のご自宅のパソコンの環境とかコピー機は、全部私どもでメンテさせていただいております。 きょう、そんなつながりがあるので、高橋先生のお話を聞いてびっくりしました。 


代数でいうと私が四代目、世代でいうと三代目なんですけども、私は弟の方だったので、あんまり家に入る前提ではなく、自分で独立創業してやっていたんです。 が、実は、ウエダという会社がつぶれかけまして、それで入らざるを得なくなったというのが経緯です。 



もともとの文具卸っていうのは、年齢ということでいったらもういったん終わっているかもしれない。 みなさんもご存知の「アスクル」(中小企業向けオフィス用品の通販会社)というのが登場して、まあ、これ、私からいわしてもらったら、そんなに新たなこと何もやってなく、業界の常識を破ってインフラを整えてやったというだけなんですけど。 ちょうど、私がウエダという会社にはいる10年ちょっと前ぐらいにアスクルというのが、ババッと登場していったということで、まず、そこで、いったん文具卸の業界は終わった。 新たなフェーズに入ったといえるかなと思います。 


事務器のウエダは、実は、文具業界の中で、事務器、いまでいうOA機器ですが、それを持ち込んだのが先進的に早かった。 ただ、もう事務器って、今の学生さんはわからない。 そういう意味でも、それ自体、もう終わっているといえるかもしれません。 そういうところの卸業も、私が入ったころには、商社不要論でもう存在価値がないという状況で、そういう流れの中、私のところも、もう、倒産寸前にあったわけです。 私は、家業を継ぐ気もなく、自分でやっていたので、結果的に良かったのは、規模の縮小が気にならなかった。 結果的に、採算が取れる6分の1の規模にして作りなおしたというのが、今の会社です。 


それで、きょうのお話に関わるんですけれど、われわれ、オフィスのディーラー、オフィス向け職場環境のいろんな機器類とか空間の設計とかやっているんですが、今でも、日本のオフィスとか職場環境って、人のこと全然考えてないよな、ということを思っていまして…。 これよくいうんですけど、プロダクトアウトなんか終わってしまったって、もう2、30年前からいわれている。 なのに、日本の職場環境はプロダクトアウトから脱しきれていないと、私がずっと思っているところです。 


それで、きょうの話につなげて言うと、組織ですよね。 組織のあり方って、まあ、まさに細胞みたいなもので、それの関連性がどのように組織力を生むかとか、モチベーションをどのように高められるかとか、多様性がどうか、多様な人が偶発的に出会うと、どんな価値を生み出すかとか、ずっとそんなことを思っているんですね。 ここで、オフィスだとか職場環境の運営をやっていけば、規模の大小じゃなくって、独自性が出せる、というところが、ずっと私どもがやっている取り組みです。 きょう案内を配布しておりますが、もう8年前から、「京都流議定書」というイベントをやっています。 京都府や京都市もいろんな方を巻き込んだイベントなんですが、先ほどいいましたような、多様な人が交じり合ったらどうなるか、若いソーシャルイノベーターという人たちを入れてやっています。 ちょっと早くからこういうことを始めましたので、イノベーターの登竜門的な存在になっています。 こうした取り組みと、きょううかがった細胞のことを考えていくと、その関連がとても興味深いです。 



荻野


多様性とか交じり合いとかいろいろ出てきました。 高橋さん、今までのお話を聞かれて、生物学用語というか、細胞のファンクションというか、何か、この話って、自分の研究のこういうものに似てるなとみたいな、ちょっと強引で申し訳ないですが、思いつかれたことコメントしていただけますか。 

 

高橋 淑子 (京都大学大学院理学研究科教授)




はい。 そういうことの以前にですね、きょう、ここにいらしってくださった方、アーティストが多くて、それは、なんという御縁なんだろうと思います。 私の岡田節人先生は、アートのことばかりいっておられました、研究室で。 そして、私の音楽好きも、岡田先生のおかげというか、所為というか。 もしかしたら、アートの雰囲気を、私たちは皮膚呼吸させてもらってたのかもしれません。 恐縮ですけれども、息子さんの岡田暁生さん、きょうここにお見えになり、そこにいらっしゃいます。 京都大学人文研の教授でいらっしゃいますが、音楽学の専攻でNHKでも坂本龍一と一緒に出ておられたりします。 大学院の時から知っていますが、岡田先生のお子さんなんで、てっきりサイエンティストだろうと思っていたら、「ぼくは音楽やってんだ」とかいって、「えっ」ってびっくりしましたが…。 でも、今になると、何かわかるような気がするんですね。 でも、ちょっと、暁生さんのことばかりいっていてもいけませんね。 


それは後にして、要するに言いたいことは、岡田先生はね、「発生生物学はアートだ」とずーっといっておられました。 私も、ようわからないままに、「ふんふん」とかいってたんですね。 じゃあ、今のおまえにわかるのかといわれたら、こういう方々を前にして、そんな恐ろしいことはいえませんけど、自分ではわかっている気になってるんですよ。 きょうの私のお話で、覚えておられるかどうか、私、いくつかスライドを見せながら、「ねえ、きれいでしょう? これ、すごくきれいですよね」っていわなかったでしょうか。 これ、なぜ、きれいかといわれても困るんですよね。 きれいと思うからきれいなんであって…。 私たちは、顕微鏡を覗くたんびに、まず、自分の論文の結果よりも、「ああ、きれいだ」と思います。 そうすると、一生懸命やろうという気持ちとか、そして、この美しさはどういうところから出てくるのか、それを私たちは、たまたま、細胞という言葉で語ろうとしているんだと思います。 それと同じように、シャーレの中に飼って、培養している細胞をみていると、これはきれいだと思います。 


岡田先生に最初にいわれたのは何か、ですよ。 修士の1年の時、まずにお説教されたことは「おい、淑子、培養してるんやったら、朝、研究室に来たら、まず、細胞のところに行け。 そして『おはよう』いうてこい。 家に帰る時には、『さいなら』いうて帰っていけ」と。 「何言うてんね、この先生」とか思ってたんですけど、今、私も学生に同じことを言っています。 それは愛するということなんですね。 一生懸命やる。 それ、はっきり言ってないんですけど、愛おしいと思って、そして、きょうのテーマでもあります、細胞の声が聞こえるようになる、と思うんです。 自分で思うわけ。 


それで、もっと、固いこといいますと、プロになるっていうのは、みなさんにお聞きしたいのは、プロとは一体何か、です。 私も、いろいろ考えるんですけど、自分が対象としているもの、今日の場合、陶芸作品、写真、私の場合は、細胞、エンブリオですが、その声が聞こえるようになるんじゃないか、そういうふうに思えるようになるのが、プロかなあと思うんです。 これ、後のワールドカフェでそんなことを話し合えたらいいですね。 


アートのことですけれど、岡田先生の音楽って、私の中のど真ん中、一番深いところにずっと残っていまして、結局ですね、誤解を恐れずに言いますと、アーティスティックなセンスがないと、創造性・クリエイティビティ、クリエーションが出ないだろう、と。 自分のことを棚に上げて言いますが、どの分野においても、特に生物学においては、小理屈ばっかりたれていると、生きものは応えてくれないんです。 「これの細胞、この組織を再生してやろう」、そういうことをやったら、大体、生きものから反乱がきます。 


「どういう風にしたいんや」、「きょうは、ごきげんですか」っていう感じで、それに合わしたように、生きものに語りかけながら、私たちがオペをしたり、培養したりするのがいい、というふうに私は思っていて、それを、院生にいいます。 すると「なんやね、このカルト集団の教祖みたいな人」ぐらいに思えるんでしょうが、私は、それを曲げたくはないなと思います。 多分、彼らも、5年、10年したら、多分、同じようなこというてますからね。 そういうものなのかもしれません。 


さっき、岡村さんがおっしゃったんでしたっけ、多様性という言葉、これも非常に重たい言葉なんですね。 いろんなものがあります。 細胞レベルで見ても、生きもの1個1個見てもいろんなものがあります。 で、きょうのお話で、私は、「きっちり切れるでしょう」とか、そんな話をしましたが、どこを見ても「グズ」なのがおるんですよ、細胞でもね。 なぜか、まだよくわからないんですが、でも、結局、最後は、うまく形を作っていきますよね。 よっぽどの例外がない限りは、みな私たちは同じ格好をしています。 手が、ちょっと足に近い所によって生えてくるなんてことはないんですよ。 必ず、両腕はここにありますし、両足はここにある。 みなさまが、そのことをなぜかと考えないのは普通なんですね。 耳が、なぜここにあるかなんて考えたって、一銭にもならないんですが、私たちは、そういうことを考えているわけです。 


そういうことで、グズな細胞がいるけども、最後はきっちり作っていきますね。 そこら辺に、これまた、岡田先生の受け売りですけど、「細胞のしたたかさ」というのがあるんです。 「したたかさ」―これがわからないと、サイエンティストが何をいうのかといわれそうですが、生きものはさわれないですね。 機械じゃないんです、生きものは。 何かよくわからないしたたかさがあって、最後に帳尻を合わせてくるわけですね。 そういう、深い、深い対象と一緒に生きていられるというのは幸せだと思っております。 


多様性は、申し上げるまでもなく社会にも必要ですし、いろんな意味で、多様性をどういうふうに見るかっていうところに、いろんな「知」、知恵の幅があるんじゃないかなと、私はそう思いました。 



荻野


ありがとうございます。 今、「生きものの反乱」っていうことを聞きまして、ある染色家の方がおっしゃっていた事を思い出しました。 桜色を染色する時、桜の木を切らしていただかないといけない。 その木を切る時に、ちゃんとその木と対話をして切ってくると、染める時には、木をチップにして染める液を出すらしんですけれども、ちゃんと話をして切ると、きれいなチップができる。 しかし、対話をせず、無理やり、どうしてもいるんだと切ってくると、チップにする時、木が弾けて自分の顔や体にボンボン飛んでくるというお話を聞いて、おお、怖いなあと思ったことがあるんです。 



高橋


それ、さっき言った、私たちが細胞の研究で感じていることと同じです。 



荻野


ええ、それでは、さっき、家業のことをうかがいましたが、これからは「声」をキーワードにみなさんにお話していただきましょうか。 つまり、みなさんも、何かの声を聞いてらっしゃいますよね。 つまり、いろいろ、家業の現状の中で、新たなことをされていると思いますが、それぞれ、未来にどんな声を聞いてお仕事をされていますか、ということをおうかがいしたいと思います。 声っていうのは、堅い言い方すると、課題とか、問題とか、対処すべきミッションとかというものになっちゃうんですけど、そういう言い方より、声がいいと思いましてね。 社会の声や身の回りで聞こえてくる「今何をするべきか」っていう声とか、未来に向けてどんな声を聞いてお仕事をされているか。 岡村さんからお願いしましょう。 



岡村


先ほど続きのような話になってしまうんですけど、日本って、確かにものづくりが大事ですし、製造業が強い。 そこに、日本の強みがあると思っておりますが、件数で言いますと98%が中小企業といわれるような会社でありますし、そこで、非製造業に携わる人っていうのは7~8割ぐらいおられる。 ここがプロダクトアウト的な考え方で、効率的ないわゆる管理をするとかいうことだけの、いまだに、そういう流れが続いていて、これを何とか変えたいというふうに思っております。 


単純にいえば、少子高齢化ということで、GDPの掛け算でいう側の一つの母数が確実に減っていくわけですから、そこでカウントしているような競争というか、そういうところでは日本は減っていくしかないんです。 けれども、今言いましたように、98%が中小企業であり、そこで、7~8割の人が非製造業に従事している。 そういう人たちの付加価値っていうか、モチベーションも含めた価値を上げられるとかですね、あるいは、偶発的な出会いとか、そんなことも含めて掛け合わせることによっての価値創造みたいなことが、仕事の周りで起こしていければどうかと思うんです。 ほかの先進国に先んじてそういうことやっていくことで、今後、日本の付加価値を高めていくことになり、急成長するアジアとかに向けて、それを提供できるようになっていけるのではないか。 そういう場合、京都っていうのが、日本が凝縮されたところがありますし、目に見えない数値化されないような価値を一番保有しているところであり、また、東京と比べましても、そういう価値を見いだせる、そういうところの尺度を持っています。 そういうのを研究して発信していきたいなあ、というのが、私のずっと思っておるところです。 


きょうのお話で、一番興味があったのは、これ、問われたことにも関わるかもしれませんが、細胞というものが、毎日毎日、生まれ変わっていて、違う部位ごとにその部位にあったものを構成していっている。 そういう面で、人間の場合ですが、成長期、中学生、高校生の時に、同じように顔の一部とかは、ちゃんと同じ部位をつくりながら、成長している。 見た目そのままなんだけど、変わっていっている。 こういう若い人の時の細胞と,中年、老年の場合、身長、体重は増えないけど、同じように見えながらシミが出てきている。 この違いは何か、ということ。 


なぜ、こんなことを聞くかというと、身長や体重が増える、つまり見た目成長している時の細胞と、数値的には成長していない、でも毎日生まれ変わっている時の細胞は、どう違うのか? 後者の様な見た目の成長をしない細胞、でも生まれ変わっている細胞は、成長や、進化とは言わないのか?という事に興味があるからです。 組織というものを考えた時にも、同じ様に、壮年期にある企業や、成熟・停滞した業界にある中で、細胞の考え方から、ヒントになる様な事がないかという関心の中でお話を聞いていたからです。 



荻野


今、成長と老いの違いは何かということですが、小説家の塩野七生さんが、どっかでおっしゃってたと思うんですけれども、イタリアのヴェネツィア共和国は1000年以上も国として繁栄を続けた、と。 歴史家の目で見るとほとんどの国の寿命ってのは、そんなんじゃなくて、下手をすると30年、50年、100年も続くところがほとんどない中で、なぜヴェネツィアだけが生き続けられたのだろう、と。 今のお話でいくと、どうやって成長と老いが繰り返す中で、もう一回リセットしていくのかというのを、私も細胞の部分から聞いてみたいと思います。 では、近藤さんどうぞ。 



近藤


工芸の世界は、素材の声を聞くっていうことが一番重要なことだと思うんです。 陶芸でいえば、土っていう素材は千差万別、いろんな土があるんですけど、その土の声を聞くというのは、陶芸家の方々が、よくいわれると思うんです。 それで、その声を聞く、その素材を生かしきる、ということには二つの方向があると、私は思います。 


その素材(土)というのを、自分よりに引き寄せる時に、自分のコンセプトや造形を実現するために私が今までやってきたのは、その素材である土は、より均質な方がいいんですね。 例えば、ブレンドする。 山から掘ってきた土っていうのは、ものすごく扱いにくい場合があります。 すごい個性を持っているんです。 それで、その土を精製してブレンドすればするほど、自分が生かしやすい素材になってくれる。 自分のコンセプトとか表現を生かすことが可能になりやすくなってくれる。 つまり、自分のイメージしたものが実現できる。 そうした、プロセスで私自身はオリジナルなものを制作してきた。 しかも、私の場合は、電気窯で、完全コンピューター制御で温度管理をしています。 そうすると、データが確実にとれていくわけです。 はじめは難しい焼き方が、どんどんどんどん、自分の手中に入ってきて、今までできなかった巨大な作品も、時間の経過によってできてくる。 つまり、「素材を自分の方に引き寄せてくる」ことで、自分の思ったような作品が現実化するっていうのが一つあると思うんです。 


ところが、最近、私がすごく興味を持っているのは、今、話したやり方とは真逆で、自分の表現ということを消して、この土がどうなりたいかっていうのをやってみたいな、ということなんです。 ここ数年の、これ、私の中の矛盾なんですけど…。 普段は、さっき言ったように、均質化した土とコンピューター制御の電気窯で作品を作っています。 もう一方で、この土がどうなりたいのかというのも、やりたいんですね。 例えば、今、ぼくがライフワークでやろうとしているのは、ちょっと専門的になりますけれども、志野という焼き物です。 志野焼は、日本で一番初めに焼かれた白い焼き物といわれていますが、これ、やっぱり、登り窯っていうか薪窯でやらないと、ほんとにいい白が出てこないのではないかと思うのです。 もちろん、もぐさ土と言われる原土も大切です。 もう5年ぐらい試行錯誤していますが、電気窯じゃダメかもしれない。 できるかもしれないけど、最後の最後の、何ていうか、質感、目に見えない所も含めて。 …クオリティーが出ない。 これ、私が、そう思っているだけなのかもしれませんけどね。 


要するに、自分ではない、その素材や自然の火に、自分がどれだけ合わせていけるかっていうか、そこから学んでいくっていうのか、そういう、むしろ自分が表現するっていうことを、ある種、打ち消していくっていう作り方も、これ、日本の工芸で重要なことなんじゃないか。 このように、世界のアートシーン、ファインアート、現代美術というものを考え、焼き物の本質のことを考えていくと、自分の中で、ちょっと相矛盾する領域があるんですが、やはり、自分自身が陶芸というものに関わっている以上、この二つのことに、課題として向き合わなければならないと考えています。 


それで、高橋先生に一つお聞きしたいことがあります。 細胞が、最初の3段階の時から、急に変わるとおっしゃっていたと思うんです。 どの生物も。 ここから変わるのは、それは何がどうなるのか。 


それと、私自身、作品のキーワードは水です。 まあ、焼き物というのは「土」と「火」がメインの仕事です。 しかし、私の作品は水を表出されたイメージのものが中心です。 土を媒介にして火の中から生まれる「水の表象」をずーっと重要なコンセプトにしてきました。 人間の身体は70%以上が水で出来ていますね。 細胞と水の関係ってどうなんでしょう。 水も千差万別。 水道の水と、私がよく行っている奈良の天川神社の水、これ、大分違います。 水の違いが細胞に何か影響を与えるでしょうか。 それから最後に、私は今土の声を聞きたいと思っておりますが、先生は細胞の声をどのように聞いておられるでしょうか。 



荻野


今のお話を聞いていて、何故か、思い出したことがあります。 多分、文化人類学者の実験だったと思いますけれども、小学校の校庭で遊んでいる子どもを撮影して、その映像を音楽家に見せ、「ある音楽が流れている中で遊んでたんだが、どんな音楽と思う」と聞くと、ああ、これは何々の音楽、といって、ちゃんとそれに合った音楽をつける。 それを、今度は別のところで別の人にその映像と音楽一緒にしたものを見せると、ああなるほど、この音楽に合わせているから、ここでぴょーんと跳んだりするんだ、と勝手に思い込む。 これ、何の音楽もないところでとった映像なのに、なんで、そうなるのか不思議です。 お話を聞きながら、何かで読んだこのことが、頭の中にふっと浮かんだもので、ちょっと話してみました。 では、高田さん、どうぞ。 



高田


ちょっと教えてほしいことがあります。 さきほど話題にのぼされたレプラ(ハンセン病の病原菌)は、細胞を初期化する能力を隠し持っているというわけですね? とすると、レプラを利用して、iPS細胞のような幹細胞を作ることのできる可能性があるのですか。 


こんな質問をするのは、バクテリアの性質が一筋縄ではいかないと思えるからです。 実際、最近までピロリ菌は胃がんの原因になるので、抗生物質で始末してしまおうという動きが盛んでした。 でも最近、そういう治療をすると、今度は逆流性食道炎になる確率が高まり、結果、食道がんで死ぬ危険性が高まるのだといった知見が発表されたりしています。 つまり、簡単に何かを選択して突き進むと、まるで別のしっぺ返しを受けたりすることがある。 生命現象には、そういうむつかしさがあるように思えるのですが、いかがですか。 


もう一つはアートに関連して、秩序世界を作り出すアートの可能性に関するものです。 というのも中国の古代、孔子の時代に彼は、人々を儒教的秩序に導くために、いちばん何を重視したかというと、音楽だったのだそうです。 たしかに美しい音楽を耳にすると、人間の気分というのは落ち着いたり、リラックスしたり、できるような気がします。 すると社会の暴走が食い止められる。 そんなふうに孔子は考えていたのかもしれません。 
ところで、細胞の社会にも「暴走」の危険はあるわけでしょ? たとえばがんというのは、その一形態だと思えるのですが、通常の状態のもとでは、たとえば人間の身体を形成する60兆個もの、それぞれに分化した細胞が、一つの身体という秩序世界を形成しているわけですね。 そういう話を聞くと、素人の私なんかは、なんでそんなことが可能なのか。 現代の人類社会はせいぜい60億人程度なのに、さまざまな混乱に見舞われてるわけでしょ? それに比べて細胞の社会の要素単位は、人類の1000倍の数に達してなお、一定の秩序を保つことができる。 このあたりに発生学の最も重要な問題が隠されているような気がするのですが、いかがでしょうか。 






荻野


ちょっと難しい質問ばかりですけど、時間も押しておりますが、高橋さん、コメントお願いいたします。 



高橋


はい、まず、レプラ菌とiPSですけれども、今、研究中だと思います。 世界の研究者がやってると思います。 肝心なことは、レプラ菌がですね、本来、私たちが持っている機能をハイジャックしているということなんですね。 レプラ菌だけに、あれだけの能力はないんですよ。 だけど、うまいこと感染して、その細胞の能力を、自分の都合のいいように使っている、と。 こういうこと、結構、レプラに限らずいっぱい起こっているっていうことを私たちは知らなければいけません。 それが、いかに〇〇になっているか、というのはレプラに関してはよくわかっていないと思います


もう一つは、写真三つの話で、ここまで同じで、ここから違うよといったことをお聞きになりました。 これは、まさしく、発生生物学の中で、今、大問題でありまして、簡単にいいますと、同じですよといったのは、脊椎動物であるためには、絶対にそのプロセス以外にはありえない。 それは、なぜかはわからないです。 遺伝子的には、いろいろわかってますが、別にそれ、「神の力」だって絶対言っちゃいかんわけで、脊椎動物というのは、ああいうもんだっていうことです。 ですから、まず、あの原型ができるんですね、プロトタイプができるんです。 その後で、耳が長くなるのがありいの、甲羅を背負うのもありいの、というようなことになる。 だから、絶対変わらない法則が、あそこにある。 私たちがやっている大きなテーマの一つです。 この質問をいただいて、私、ちょっとご機嫌なんですけど。 


それから、「土の声を聞く」とおっしゃっているのを聞いて、大変、私もうれしいと思いました。 「細胞の声を聞く」という風に言ったのは、ま、そう名づけたのは一応、私のオリジナリティーなんですけど、私は、奈良に住んでおりまして、奈良には宮大工さんが結構おられるんですね。 そして私の近くでも、今、興福寺が復元されています。 法隆寺の復元がありました。 薬師寺の金堂の復元があります。 私、テレビを見るのが好きで、番組の中で、宮大工の棟梁さんが、お弟子さんに「木の声を聞け」と、かなり厳しく言っておられます。 ただ、寸法を測って、うまいこと鉋かけてってやったりすると、バシバシバシって、「もう、馘首!」って感じでやられるんですね。 「この木が何百年生きてきて、この木が、これから千年生きていく時、どれだけ歪んでくるか、おまえ、それがわかってから、寸法測れ」と。 すごい世界だなと思いましたが、私たちの世界と共通項があるように思いました。 きょう、土の声を聞く、とお聞きして、うれしい気がしました。 これ、かなり共有できます。 


それで、ちょっと私のわがまま聞いてください。 きょう、岡田暁生さんが、特別ゲストでいらっしゃっています。 音楽と大発生生物学者の中でどう人生を送られてきたのか、暁生さんに、そのお話をぜひお聞かせ願いたんです。 



岡田 暁生 (京都大学人文科学研究所教授)




父のこと、いろいろお気を遣っていただきありがとうございます。 最初に、30年後のことを見通してES細胞を渡したんだろうとおっしゃってましたけれども、家族の私の印象としてはですね、昔から、うちの父は、ちょっと予感的な能力は、確かにあったことはそうなんです。 でも、本人は、それこそ、辣腕経営者の「30年先を見越した経営をしましょう」なんて発想は大嫌いだった人ですから、つまり、面白ければいい。 多分ビリビリくるんですよ。 面白けりゃいい。 「30年後を見越した研究なんて馬鹿なこと言うな」って絶対言いますね。 ビリビリきたら、それが結果として30年後になるというだけ。 


それから、もう一つはですね、何故かうちの家っていうのは、父親の趣味を子どもが職業にして父親の仕事を子どもが趣味にするという変な交差が代々ずっと続いていて、私も実は、アフリカの熱帯のメダカを15年に渡って飼っていて、毎朝、毎朝、シャーレとピペット…と、よく考えたら、うちの父と同じことを趣味でやってるんですね。 一部屋、実験室みたいにしてやっています。 


それでですね、一つ思ったのは、きょうの高橋さんのお話に出てきた社会観、世界観がピンときました。 何に対して、何と違ってピンとくるかというと、今日の非常に息苦しい工学モデル、何でもかんでも見える化しろ、数値化しろ、と。 ところが、きょうは、見えるっていうような話は少しもでなかった。 聞く聞く聞くばっかり。 それで、要するに工学モデルと決定的に違う。 つまり社会を、ロボットみたいに見るんじゃなくて、部品とっかえてみたいじゃなく、有機体ですよね。 つまり、細胞自体を一つの生態系というか、一つアンサンブルというか、結局、生態系とアンサンブルというのは一緒になるんだけど、何かうまいこと波長が合ってピッタリくるみたいな。 そうやって、波長の合ってるアンサンブルっていうか生態系っていうのは、結果としてきれいだ。 だから、ある種の芸術的センスが必要なのかなと、共感した次第です。 



高橋


ありがとうございました。 発生が何となく芸術だと思っていたのを、芸術のプロの暁生さんから、こういうふうに言えば理解してもらえると学ばせていただき、今わかりました。 目からうろこです。 サイエンスって、よく、偉大なサイエンティスト、ノーベル賞を取った野依(良治)先生とかがおっしゃっていますね「理屈じゃないんだ」と。 確かに、最後は理屈です。 論文書く時は、100%理屈で書きますが、実は、その論文に至るまでの自分が何を見つけるか、何を見つけようとするかっていうところで決まってるんですね。 論文の価値も決まる。 で、その一番最初は何かというと、理屈ではなく、自分の感性で決まります。 あのう、それは価値観かも知れません。 ですから、怒られるかも知れませんが、よくね、「理学部」というと「固い感じがして、難しい感じがするんですけど」、って言われるんですが、真逆なんですね。 柔らかいところで、温かい心を持って、しかも、教養の時は、いっぱい遊んどかないといかんです。 そうでないと、大きな仕事はできないです。 しかし、こんなことだれでもわかることなんですけど、文科省が細かいことをうるさくいっぱい言ってくるんです。 遊んで、いろんな陶芸から何からいっぱい見て、山に行って死にそうな経験をして、命を感じてやる―そういうのが、京大の理学部には、昔からがさっとおりましてですね、みんなそういう経験をして大モノになってこられたんです。 ということを付け加えて、私のきょうお話したことから、サイエンスは暖かいんだということをご理解いただければ、と思います。 



荻野


昔、遊びってことを「広辞苑」でひいたことがあるんですが、第一の意味に「別天地に身を委ねること」だと出ているんですね。 今おっしゃった意味での遊びは、そこまで入っていると思うんですね。 単にパチンコをするということではなく「自分が普段いるところではない別の世界に自分を放り込んでしまう」ということだと思います。 では、これから「ワールドカフェ」に移ります。 みなさんが、それぞれのお立場でどんな声を聞いているか。 それと、岡田さんのお話にあった「どんなことにワクワクして面白いと思っているか」。 その「声」と「ワクワク面白い」は結構密接につながることのような気がするんですね。 その中で、ここがちょっとできないという時、周りの人たちの力が役に立つかもしれない。 単なる感想ではなく、そういったところを、きょうの細胞の話と絡めて、それぞれのテーブルで話していただけるとありがたいです。 





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