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第4回クオリアAGORA_2013/ディスカッション



 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

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ディスカッサント

京都大学大学院農学研究科教授

伏木  亨 氏


堀場製作所最高顧問

堀場 雅夫 氏


佛教大学社会学部教授

高田 公理 氏


京都大学大学院理学研究科教授

山極 寿一 氏


 

木乃婦若主人

髙橋 拓児 氏


佐々木酒造社長

佐々木 晃 氏




山極 寿一(京都大学大学院理学研究科教授)


まず、「美味しさ」の権威である伏木さんにですね、お二人のお話を聞いて、美味しさという観点から一言コメントをいただきたいのですが。 




伏木 亨(京都大学大学院農学研究科教授)


二人のお話には共通点がございまして、例えば、極めて皮肉にも、日本の本来の美味しいものを、感性も含め、違った観点から作ろうという試み。 つまり、合成的にというか、再構成的につくるという狙いが二人の中にありましてですね、はからずもそれは、やっぱり日本の手をかけたやつのほうが美味しいわ、と。 こういう結論になったことが、大変皮肉にもかかわらず、とても面白かったと思います。 


特に、一番感心したのは、佐々木さんの発表の中で工程表がありましたね。 これは絶対外に出したらあかんもんであろうかと思うんですが…。 この中で、二つ出ましたね。 大吟Ⅱと一般のお酒の品温のことなんですが、大吟醸は、10度以下に保ってずっと行きましたね。 一般用は、早い時間に温度を上げて、バーっとアルコールを日本酒度が16まで上げ、カラカラにまで行って、それにアルコールを足してさっぱり、すっとした感じで、割と安く売れるお酒を作っている。 これは大変合理的ですね。 一方、大吟醸は、多分、10度ちょいちょいを12、13度まであげたら、一発で終わりだと思うんですよ。 取り返しがつかない。 毎日、毎日、ずーっとこの温度を、この範囲の中で、特に大きな樽ですから冷やせと言ってもそんなに簡単に冷やせないし、温めろと言っても簡単にいかない。 そういうところをずっとその範囲の中で、まあ育てていっている。 


こういうことをやっている日本酒だから、はじめて一定の味ができるんですね。 そして、その一定の味が恐らく、一定の味の日本の料理を育てている。 そういう意味で、日本酒はこれだけきっちりとした範囲でできている。 それを科学的にみてみると、温度の推移、酸の変化とか、あるいは、グルコースが1%切ると、こんどはカプロン酸食っちゃう?とかいう話がありましたけれども、そういうのが今わかったわけで、これをずっとやってきた日本酒の歴史というのは大変なものです。 はからずも、こういうトライをされてはじめて日本のものづくりのよさがわかったということを、非常に強く感じました。 


それから、髙橋さんの方の鰻寿司のたれづくりのお話は、ものすごく斬新なやり方と思うんです。 例えば今、ノンアルコールの飲料、ノンアルコール梅酒とかビールとかいっぱい出てきましたね、これは、全く発酵もしていないし、ぜんぜん違う材料からああいうものを作っているわけです。 アルコールっぽい感じとか、ちょっとお酒っぽい感じを、全く違う香料から作っている。 こういうのが、実はフランス料理のやり方だというのにはびっくりし、なるほどと思いました。 それに対して日本のものは、発酵調味料を使い、丁寧にきちっとクリアしている。 この二つのやり方の違いが強く印象に残りました。 それで、日本のものはたいしたもんだなあと感心した次第です。 



山極


この中で、多分、堀場さんが一番うまい日本料理を長く食べてこられた方ではないかと思いますが、お二人のお話を聞かれていかがだったでしょうか。 



堀場 雅夫(堀場製作所最高顧問)


私の仕事がですね、分析装置なんですが、センサーが命です。 センサーの性能によって装置の性能が決まってしまうといってもいいほどなんです。 ガスや酸の濃度とかは簡単なんですが、最後、気体の中の香りとか味、特に味というのが曲者でして、液体だけかと思うと気相と液相が混ざってまして、鼻をつまんで食べた時の味と鼻を働かして食べた味はぜんぜん違い、味単独で何か、というのはなかなか難しい。 香りプラス味で美味さが異なってきます。 一番センシングができない分野が「美味しい」とか「不味い」とかで、われわれが入り込めない分野なんです。 結局、美味いとか不味いをセンシングできるのは人間だけ。 ただ、この人間というのは、いかにも非科学的で頼りにならない。 しかも、昨日確かでも、きょう不確かである。 政治家が一番そうで、とこれは、置いとくとして、味も、きのうめちゃくちゃ美味しいと思っていたものなのに、置いておいたから味が変わったとは思えないものでも、きょうは味が違う。 ということは、要するにわからんということ。 しかも身体の調子によっても食感は違うものなので、これは美味しいとか不味いとかはホントに難しいです。 


それから、髙橋さんのお話で面白かったのは、フランス料理と日本料理の違いです。 私も、どこが違うのかとずっと考えていて、答えが見つからなかったんです。 それが、この歳になって、きょうようやく、髙橋さんのお話でなるほどなあと思いました。 実は、日本料理というのは、われわれ二次産業でいうと「仕(し)掛(かかり)品(ひん)」で、美味い「部品」を集めてきて、最後、それを完成品に組み立てるんですな。 「一気通貫」ではない。 これに対して、フランス料理というのは、機械でいうと、ネジから、鉄板から加工して全部作って、すべてを作り上げていく。 これねえ、面白いのは、われわれ同業でもアメリカに行きますとね、ネジ、鉄板、板金、塗装まで小さいスケールでも自分のところでやってるんですよ。 それで、最後まで仕上げる。 しかし、日本はですね、徹底的に協力工場があって、ネジはネジ、メッキはメッキ、板金は板金…とあらゆる専門の協力工場があるんですね。 これでできたものを集めてきて、アッセンブルして商品を作ります。


まさに、日本料理も、われわれがやってる純然たる二次産業とも相通じるなと思いました。 あのトヨタ自動車といっても、あれ、ほとんど、何千という下請けがありましてね、専門分野で作らせ、そのアッセンブル工場なんです。 ですから、日本料理も、醤油とかみりんとか、そういうもの、つまりコンポーネントですわね、それを利用して、最後の仕上げをする。 というわけで、日本料理は、一般的二次産業と相似形であると、髙橋さんのお話で新発見をいたしました次第です。 また、これで、私の寿命も75日伸びました。 ありがとうございました。 



山極


日本の料理はアッセンブルである。 コンポーネントのより集まりである。 これに何かご意見はございますか。 



髙橋 拓児(木乃婦若主人)


きょうの試みは、もともと、日本の料理は調味料という足かせもあるので、そういうのを取り外してみて、日本料理を作ることはできないか。 例えば、海外で料理をする時、醤油もみりんもお酒もないところで日本料理ができるのかどうか、というところから始まった話なんです。


まあ、調味料を使わないで作ったものが、使ったものより美味しくなかったら作る必要もないのですが、そこが、料理人の一番大事なところで、まあ、ぼく自身も、そういう現地のもので日本料理をつくる新しい試みに挑戦するか、そんなことで時間をつかうより、業者さんが高度なレベルでつくったいい調味料を使って、今まで以上に日本料理を発展させていくほうがいいのか。 そのどちらを選ぶべきか、料理人としてぼくの中には、今、両方の考えがあるんですね。 



山極


日本料理の次の時代を考えておられますね。 では、山口さん、海外経験も長いと思うんですけど、どうでしょう。 



山口 栄一(同志社大学大学院総合政策科学研究科教授)


質問と問題提起をしたいと思います。 まず、堀場さんが、香りの話をされたので、思いついたことがあります。 私、4月の初めに大手術をしました。 鼻から脳の手術をするという難しい手術でした。 手術は大成功しましたが、そのために、鼻の匂い細胞が全部死滅してしまったんですね。 この再生には3カ月かかるといわれていて、最近ようやく匂いを感じ始めました。 それで、完全に匂い細胞が死滅するという初めての体験をしましたので、その体験談をお話しします。 


匂い細胞が死滅して退院し、では料理がどうなったか。 中華料理は普通に食べられます。 辛いものは、辛いとわかります。 フランス料理も、比較的普通に食べられます。 ただ、美味しさは半減しました。 で、日本料理です。 驚くべきことに全く美味しいと思わないんですね。 つまり、日本料理は、香りから相当成り立っている。 あの美味しさの中の、ずいぶんの量が香りから成立しているんだ、ということを発見しました。 これで私、やはり日本料理学という学問をつくって、日本料理の美味しさの本質は何かということを、誰かがきちんと再定義するべきだなあと思ったんです。 


それで、問題提起に入りたいのですけれども、今、日本料理は世界遺産に登録申請していて、もしかしたら10月に世界遺産になるかもしれないといわれています。 ご承知の通り、フランス料理はもうすでに、第1号の世界遺産に指定されています。 第2号が地中海料理、一方、韓国宮廷料理は申請したけども、落とされました。 さて日本料理なのですが、私は、この申請、むしろ、今は落ちるべきだと思っています。 なぜかというと、日本料理はきちんと定義されていないんですよね。


フランス料理は定義がなされています。 ご存じの方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、私がフランスのニースに住んでいた時、そのすぐ隣町に、ヴィルヌーヴ=ルーベという町がありましたす。 そこには、料理博物館があるんですが、そこで生まれたオーギュスト・エスコフィエっていう人がいて、この人は、フランス料理の本を書き、フランス料理をきちんと定義しているんです。 この他にもフランス料理に関しては、いろんな定義書、レシピの本も体系的に存在して、フランス料理とはこういうものだよということが定義されています。 このおかげで、日本でも、アメリカでも、フランス料理を食べて、ああ、フランス料理を食べているよなあとわかるわけです。 ところが日本料理は、皆さん方もご経験されていると思いますが、海外に行くとほとんど「なんちゃって」日本料理なんですね。 特に、田舎に行けば行くほど、見てくれは日本料理なんだけども味はもう全く日本料理ではない、というのが増えている。


それで、これ、私は、ひょっとして、これは進化じゃないかと面白く思いまして、実験をしてみました。 うどんというのは比較化しやすいので、フランスとイギリスに住んでいる間、各地のうどん屋に行ってだしを採取します。 各店のだしをろ紙に吸わせ、乾燥させて日本に持って帰り、九州大学の味分析機で分析してみたのです。 基準は同志社大学の生協のうどんで、これを原点においたのですが、面白いことがわかりました。 進化の経過がよくわかったのです。 ロンドンとかパリは、同志社のだしから少しデビエート(逸脱)します。 どのようにデビエートしていくかというと「旨み」が減って「酸味」が増える。 つまり、旨みというのがヨーロッパ人は多分嫌いなんだと思います。 この傾向は、田舎に行けば行くほど顕著になっていきます。 これは、まさしく進化だと思うんです。 なぜこんなことが起きるかというと、日本料理がきちんと定義されていないからだと思うんですね。


それで、先ほど、伏木さんが美味しいものを再構成されるっていうことが日本食で、手をかけたものが美味しいんだ。 日本食は、ある一定の概念があって、これが日本食だというのがあり、これは日本のものづくりの一つの精神だ。 〕とおっしゃってくださったのですが、残念ながら日本政府、日本の国は、それをやっていない。 それだけのものづくりをしている料理人の活動、文化というものを汲み取って再定義し、文章にしてから世界遺産に登録申請するということをやらなければいけないのに、やっていないんですね。 だから、先に言った進化―つまり、世界中で「なんちゃって日本食」が出ちゃうわけです。 これは、ある意味で、料理や食に関わる人たちの怠慢であり、われわれも、そこに気が付かなければいけないと思うんですよ。 



山極


和食の著作もいくつかある髙田さん、山口さんの話についてどうでしょう。 



髙田 公理(佛教大学社会学部教授)


堀場さんの会社は、何から何まで自分の会社で作らはるようですが、フランス料理の料理人も、これに似て、「これでもか」というところまで作り込むのでしょう。 で、彼らは「客には完成された味を味わってほしい」と考える。 結果、客が下手に手を加えたりすると、機嫌が悪くなるのだと思います。 


それに比べて和食の理想の一つは、「あたかも調理をしていないかのように見える料理を作ること」にあります。 それは、ある意味で日本の庭造りにも共通します。 日本の庭には、大変な手がかかっているのですが、見ると、ありのままの自然よりも自然らしく見えるわけでしょ? それに対してフランスの、たとえばベルサイユ宮殿の庭なんか、これみよがしな人工的造形が施してあります。 


そんなフランス庭園に似て、フランス料理も徹底して手を加えて完成させたものだという自負に満ちているように思います。 


ところで、あたかも調理をしていないかのように見えて、しかし見た目の美しさが徹底して計算され、しかも美味な料理に仕上げるには、非常に高度な技術が必要なんですね。 フランスの包丁はどうなのか知りませんが、それ以外の欧米の包丁は大体、余り良く切れません。 しかも皆、両刃でしょ? それに対して日本の包丁は世界で唯一、片刃で、しかも驚くほど鋭利に仕上げられています。 こういう包丁で切らないと、おいしい「お造り(刺身)」は作れません。 それだけじゃない。 造りに不可欠な、おいしい醤油の醸造にも非常に高度な技術が込められている。 こうした高度な技術がなければ、あたかも手を加えていないかのような、美しくておいしい料理は作れないのです。 和食には、そんな逆説的な美学が込められているのだと思います。 


じゃあ、日本料理、あるいは和食とは、具体的にどんな料理を指すのか。 そんな問いを、例えば欧米人に投げかけると、「寿司」「天ぷら」「すき焼き」といった答が返って来ます。 ついでアメリカの東海岸あたりの都市の日本料理店に行くと、最近なら「寿司」が含まれはするものの「トンカツ」「カレーライス」「ラーメン」あたりが代表的な日本料理としてメニューに載っている。 じゃあ、日本人の多くは、どう考えているのか、というと、関西人なら「造り」──関東では「刺身」ということになるのですが、これに続くのは「焼き魚」「野菜の煮物」「味噌汁」などが列挙されるのではないでしょうか。 


ということは、和食といい、日本料理というも、しっかりした定義というか、クライテリアが明らかにされていないというわけです。 そういう意味で先ほど、山口さんがおっしゃったように、こうした状態のまま、つまりは日本料理の定義なしに、それを世界無形文化遺産に登録するのは、とんでもない話なんだと、私も思います。 


そういうことを考えながら、2年ぐらい前に、和食の輪郭を箇条書きにして捉え直せないかと考えてみました。 それを髙橋さんは本日、いわば「フランス料理との比較」でおやりになったのですが、私は構築的に9項目に整理してみました。 


その1番目は「和食の献立の原型は主食の米飯プラス旬の魚と野菜のおかずである」ということです。 2番目は、「和食は伝統的に脂を多用することがなかった」ということでしょう。 と述べたところで、思い出すのは吉兆を始められた湯木(貞一)さんなどの経験です。 湯木さんは、フォアグラはお使いになったようですが、バターのような乳製品はお使いにならなかったように思います。 そのあたり、髙橋さん、どんな具合だったのでしょうか。 



高橋


そうですねえ、あまりこだわりはないので…。 


高田


なるほど、分かりました。 で、続けて3番目には、「和食のおかずは、だしと万能調味料・醤油で味付けされる」といったことがあります。 さらに4番目は「和食の食材は著しく多様である」。 5番目は、すでに示唆したように「和食の理想はあたかも調理をしていないかのようにみえることにある」。 その結果、6番目ですが、そうであるがゆえにかえって「和食は高度な調理製造技術の発達を促した」。 そして7番目は「和食の楽しみの一つは食卓調味と口内調味にある」。 つまり、料理人が完成した料理の味を楽しむフランス料理に対して、日本料理には、食卓で醤油をつけたり、さらには口の中でまで、造りとツマの味を混ぜ合わせて楽しんだり……といったことがあるように思えるわけです。 


そして8番目が「和食は柔軟に外来の食文化を取り込み、日本風に再編成する」。 これは、長い歴史の中で捉え直しますと、今は西洋的なものと考えられているコショウが、古くは平安時代から重用されてきたといった事実などに観察できます。 そして最後に9番目は、「和食の新しい料理はごく普通の大衆の間に芽生え、社会全体に広がる性質を持つ」。 というのも、欧米のレストラン料理は、だいたい王や貴族の贅沢料理に原型があるのですが、太古の昔は別として、とくに近世以後の日本では天ぷらや寿司、そばなど、町人の間で芽を吹いたものが高級料理になったといえるからです。 


と、まあ、これら9点を、日本料理というか和食のクライテリアとして捉え直せるのではないかと、私は考えてみたのですが、どうも日本のお役人は、そういうこととは無関係に日本料理を世界無形文化遺産に登録しようとしているように見受けられます。 これ、もしかすると大問題かも知れないなあと思うのですが、いかがでしょうか。 


山極


日本料理の世界遺産からちょっと離れて、初歩的な質問を佐々木さんにしてみたいと思います。 お話で酵母は非常に重要とうかがいましたが、米は重要ではないんですか。 これほど、いろいろ日本は米を作っていますね。 グレードもたくさんついて。 そういう米とお酒を作る米とはそもそも違うものなのですか。 



佐々木 晃(佐々木酒造社長)


いわゆる「飯(はん)米(まい)」でもお酒を作れないことはないんですが、例えば、山田錦で作ったお酒はむちゃくちゃ美味しいんですよ。 で、3年ぐらい前までは、鑑評会でも、山田錦を半分以上使ったものと、それ以外というふうに分けて行われていました。


日本人が美味しいというお米というのは、もっちりむっちりしたものなんですが、日本酒の場合、作るのも、麹を作ったり仕込むのも、ある程度パラパラしている方が扱う上で都合がいいんです。 だから、コシヒカリとかを日本酒に使うことはないです。 ただ、日本酒にならないわけではありませんが。 



山極


吟醸、大吟醸は、米をずいぶん小さく削りとってしまい、ほぼ「心白」だけにするというお話をされていましたが、なんであそこまで小さくするんですか。 


佐々木


心白の外側にミネラル分がありますんで、それをとるんです。 アミノ酸は旨み成分で、料理にはいいんですが日本酒にとっては雑味になり、くどい味と、マイナス評価されます。 これは美味しいとか美味しくないとかいうことは別として、日本酒でいいお酒といわれるためには、アミノ酸はマイナスになる。 減点法なので、できるだけ精米して削りとり、スッキリと引っかかりのない、いいお酒といわれるものに仕上げていくんです。 


ここまで、こだわりをもって突き詰めるというのは日本人しかできないと思いますね。 


山極


伏木さん、このアルコール飲料の作り方、日本のは、他の国とはずいぶん違いますか。 


伏木


そうですね、日本独特です。 並行複醱酵といって、糖化しながら酵母で発酵していって、すごく高い濃度のアルコールを作っているというのはものすごい工夫だし、乳酸で最初、雑菌が生えないようにやっていくのはまさに技術の粋です。 


それはそうとして、ついでに話して申し訳ないですけど、さっきの鼻がきかなくなると日本の料理が全然美味しさがわからなくなるという話は、ものすごく面白いと思いました。 私が思うには、ここに日本の料理のええとこが全部あると思うんです。 というのは、フランス料理なり、イタリア料理というのは、油脂を使うし、こてっとしたタンパク質が多いし、人間が動物としてほしいと思うもの全部持っているのが西洋料理やと思うんですね。 中華料理もそうだと思いますが、自分の体にどかっとくる料理なんですね。


ところが、日本の料理は、動物として大事なものをすべてそぎ落としていってですね、残ったのを、香りと風味で作っている極めて洗練された料理なのだと思います。 いわゆる、子どもでもわかる味を、日本の料理は多分否定してきたと思います。 子どもでもわかる、動物のような料理ではなくて、これをずっと排除していって、最後に残った、自分でイメージしてくれというような、そういうような料理が日本の料理で、ものすごい精神性があると思うんです。 日本料理の一番の特徴というのは、ものが真ん中になくてそれをイメージさせるような形で料理を作り上げた。 この精神性が一番際立っていると思うんですが。 


高田


今の話、たいへん結構ですね。 私が提起した「和食のクライテリア」は9項目から出来ていて、ややバランスが悪いと思っていました。 それが今の山口さんの話、つまり「香り」という視点を加えて10項目にすると、非常に都合が良くなるように思います。 まあ、タイ料理なども、香りの果たす役割は非常に大きいのですが、「日本料理は、香りを抜きにしては、その美味しさが成立しない」ということを、先の9項目に加えたいと思います。 山口さん、ありがとうございました。 


伏木


そうですね、それに、日本料理は、動物でもわかる、子どもでもわかる料理というのは、ダサいとか田舎臭いとか、あまり高評価しない。 そこからいかに離れるかという精神性が面白いんです。 


高田


香りは確かに大事なんですが、お酒の場合は、それが足を引っ張ったことがあったような気もします。 というのも、1975年ごろから後、日本酒の多くが「山田錦で造った吟醸酒」という一つの頂点に向かって収束していくことで、味や香りの多様性が減退し、その結果、日本酒全体の消費量が減るといった現象が観察されたような気がするわけです。 


それに比べるとワインは、フランスによって演出された頂点としてのボルドーとかブルゴーニュはあるものの、世界中を見渡すと、実に多様なワインが実在しています。 実際、ブドウは乾燥地帯の植物なんですが、例えば日本に似て気候の湿潤なニュージーランドなどでも、とても美味しいワインを生み出すといった柔軟性を発揮するわけです。 そういう例をもう一つ挙げますと──これは、すでに亡くなったワイン研究家の浅井宇介さんから聞いた話なのですが──アルゼンチンのワインは非常に濃厚で、荒削りなんだけど、その強い味と香りが、ややどぎついアルゼンチンの牛肉料理にぴったり来るんだそうです。 


それに比べて日本酒の場合は、お米のタンパク質の部分を徹底的にそぎ落とした、芯の真っ白な部分だけで造った酒が理想的だと思われている。 まあ、そのとおりなんでしょうが、しかし、人の味覚や感性にはばらつきがあるわけですから、もう少し多様な味や香りが許容されてもいいのではないかと思うわけです。 


まあ視野を世界に広げると、確かに最近はアメリカ西海岸あたりでも、いろんな味や香りの日本酒が出てきているようですね。 


堀場


それに関連しましてね、ブドウ酒というのは、ソムリエがいるくらいで、産地や醸造元でいろいろ違うと。 それで、お料理を食べる時、ソムリエが来て「この料理やったらこれが合うんですよ」いわれてしもたら、ぼくらは否定できないし、そうかいなと思って、多分千円ぐらいのを8千円ぐらいになっていると思うんですけど、「これがええ」といわれたらもう、騙されてもしかたない。 前から言っているんですけど、日本酒もいずれ、ソムリエを作って、例えば、「このヒラメの刺し身には、この酒がええにゃ」という風にしたら、90%その気になるはずです。 そうやって、めちゃ高いのとか量が飲めるのとか、日本酒と日本料理とが常にペアで行くという習慣を、木乃婦さんと一緒になってやっていくというようなことが必要ではないかと思います。 私、ワインで騙された、騙されたと言いましたけれど、そういう風な精神状態になって、そうなったら楽しいんですよね。 自分で勝手に選んで飲んだら、これ合わへんかった、間違ってたんかなと迷うんです。 そやけど、「これですよ。 こんなマッチングした料理とワインなんてめったにありません。 あなたラッキー」なんていわれると、騙されたというより、そうかいなとなんだか楽しい気になってしまいます


伏木


美味しさというのと香りと味のものというのは全然違うもので、匂いがする味がするというのはセンシングの問題で、美味しさにはこれに「判断」が入る。 美味いか不味いかの判断が入るというのは、最初に座標軸を作った方が勝ちなんです。 つまり、フランスだったらフランスワインには、これがトップでこれは下、こういうバリエーションがあるという精緻な座標軸があり、これが生きているわけです。 だから、世界中でこれがおいしいということが通る。 日本でも清酒に、ある座標軸があるわけですよ。 それは、年とともに変わっていますが、今やったら、途中からすっと抜けてくれる酒がよいといわれるような、そういう座標軸があってみんなが美味い、美味いと言い合って納得する。 つまり、美味しさというのは、ひょっとするとある種の座標軸づくりじゃないかと。 


堀場


座標軸は、ちょいちょい変わるわけですか。 


伏木


修正はしていかないといけませんね。 


堀場


でも、フランスのワインは変わらんのと違いますか。 


伏木


フランスのワインは、ぼく専門家じゃないけど、そうですね。 一級シャトーは味は絶対変えないですね。 一級シャトーは儲からなくても、名誉として座標軸を守ってきた。 


高橋


座標軸のお話ですが、日本では、例えば、佐々木さんの蔵が一級だとか、そういうふうにいうようなことが難しんじゃないですか。 


伏木


それは、グルメの人たちとか、ものすごい権威のある人が、わーと言い始めたらできるんじゃないかなと思いますね。 


山極


日本には、グルメ文化とかないですよね。 


伏木


ただ、特に、大人になってから美味しさがわかるものについては、完全に座標軸は使えます。 初心者はそれにしたがって、これが美味いを学ぼうと、そして、これはいいですねというのが成り立っていくので。 座標軸を誰が作っていったらいいのかわからないですけど、多分、グルメのおじさんとか、鑑評会の審査員とか、お酒は今、金賞を与える人が作っているんじゃないですか。 


堀場


料理は、わりあいブランドがちゃんとあるんじゃないですか。 ただ、酒は、あんまり差がないですね。 ものすごく高い値の付いている焼酎もあるけど、たかだか10倍ほど。 ワインなら100倍、千倍という差がある。 


佐々木


最高の米を使い、ものすごく手間をかけてつくっても、値段をつけているのが全部蔵元なんですよ。 積み上げ算で計算して、こんな原料で、経費がかかってと計算していくと、そんなに高い値段にはならないんです。 ワインは作っている人と売る人が別なんで、賞をとったら市場でこんな値段で売れるだろうと考えると、倍にしたり10倍にしたりとできるんです。 うちの場合でも、今年、「インターナショナルワインチャレンジ」の日本酒部門で金賞をいただいたんです。 普段、3150円で売っている純米大吟醸の「聚楽第」なんですけども、金賞をとったからいうて、高く売れないです。 大体、蔵元はみんなそうです。 


堀場


ワインは、年代というのが大きい。 日本酒は1年制ですわなあ。 これ、何とかならんの。 古酒というのがありますね。 


佐々木


古酒にしてよくなる酒と悪くなる酒があるのです。 大吟醸なんかは、長く貯蔵するとエステルが分解してくるんですよ。 香りが消えてきて、熟成というより劣化のほうが早く進んでしまうんです。 


伏木


日本酒も、びんで売ってるところは一緒かもしれないけど、料理屋さんでいろんなお酒を並べているところは、人気のあるのは高いですよ。 自然に格付けのようなものができている。 


堀場


でも高いと言ってもしれている。 2倍とか3倍でしょう。 ワインはゼロが一つ、二つと違う。 


伏木


やっぱり1年ものというのが辛いですね。 


高田


ただ、紹興酒、つまり老酒は、蒸留酒ではないのに、保存が効きますね。 ああいう日本酒が出来ないのかなあ。 今ひとつ、蒸留酒の場合は、保存が非常に大きな要因で、例えばサントリーの「山崎」を例に価格を列挙してみると、10年が4500円、12年で7500円、18年になると1万8千円、30年はもう10万円ぐらいします。 これは、保存することで時間係数がかかってくるし、「天使の分け前」の分が確実に量も減っていくからなのでしょう。 


堀場


日本酒は、1年制というところが致命的やなあ。 そういえば日本酒でも、古酒として売っている20年もの、あれ、全く紹興酒と同じです。 


伏木


ただ、あのう、ほら、刺し身なんかで飲む時に、紹興酒みたいな味やったら、つらいじゃないですか。 やっぱり、1年もののさわやかなものでないと。 そういう意味で、日本酒の仕組みですね、料理があれやから。 


佐々木


日本酒っていうのは、秋に新米が出て、それで作るお酒だと思いますね。 





山極


ちょっと違った観点から質問したいと思います。 お酒は、もともと料理とは組み合わされてなかったと思うんですね。 その起源を考えると、呪術とか薬の類だった。 酩酊をするということが目的で、魂を飛ばすっていうことでお酒は作られたといわれています。 では、なぜ料理と結びつくようになったのか。 世界でも、お酒をお酒として飲む、栄養補給のために飲む酒もある。 今、常識的にワインとフランス料理、日本酒と和食という組み合わせで考えてしまいますけど、これ、歴史的には新しいことではないか。 そういう時に、料理が主でお酒を考えるのか、お酒というのはお酒としてたしなむために作っているのか、その辺をお聞きしたい。 


佐々木


お酒の種類にもよるんですけども、大吟醸なんかは単独で飲んでいただきたい。 もうちょっと味わいのある酸度の多いお酒は、料理と一緒に。 まあいえば、ご飯の代わりにお米の代わりに飲んでもらうというような感じで。 先ほど、食事に合うとかいうお話がありましたが、原料が米なので、ご飯に合うものならなんでも合う。 これまでから、あんまりこの料理にはこのお酒、というようなことはいってこないようにしてたんです。 ご飯に合う料理ならなんでも合いますみたいな、ワインのように狭い範囲に合わすんじゃなく、もっと広い、ちょっと懐の深いお酒ということでやってきたんです。 


伏木


日本の酒はね、舌を洗うでしょう、食べた後に。 ワインやったら、食べ物と一緒にガチンコ勝負をするような合わせ方をしますが、日本の酒は、どんなものでもええから食べて、それを日本酒でさっと洗ってしまう。 舌を洗う酒なので、だから、何にでも合うと思うんですよ。 逆に、ワインは難しいですね。 


山極


髙橋さん、最近、日本料理を食べる時、ワインを飲むとか、結構見るんですけど、じゃあ、日本酒は西洋料理には合うんですか。 


髙橋


一般的には、日本酒は昆布と塩がよく合うんですよ。 ワインとかの場合は、脂分とか酸とか、そういう組み合わせがよく合うので、日本料理でワインを飲ませようと思えば、その香りが近い酸を合わせると料理が合ってきます。 日本酒は、塩を舐めると美味しくなるという構造になっていて、お醤油とかより塩単独のほうが美味しく飲めます。 それで「加(か)減(げん)酢(ず)」という調味料を日本料理では作るんですけど、これは、お酒を煮切ったところに少しの醤油と塩と柑橘系を入れるんです。 これで美味しい調味料ができるんです。 塩とお酒と刺し身の美味しい構成ができる。 刺し身をこれで食べ、お酒を飲むと、後から、魚のいい香りが鼻から上がってくる。 日本料理は色がついている紹興酒のようなものよりも、素材の香りを引き出す日本酒がいいと思います。 


伏木


一度、日本酒をフランス料亭に持ち込んで、コースを食べるということをやったことがあるんですよ。 純米、本醸造、大吟醸とを向こうで冷やしてもらって料理に合わせてみましたが、大吟醸は合わないですね。 匂いがすごく邪魔をする。 それだけ飲んだらすごく美味いんですが、なんだかどの料理にも合わない。 純米酒あたりが、何にでもあって、フランス料理のコシにもぴったし。 本醸造はちょっと軽すぎて弱いと感じました。 舌を洗うという合わせ方で、純米酒はフランス料理に合うと確信しました。 


逆に、フランス人のシェフ数人を、日本料理アカデミーが京都に呼んだ時のことですが、宝酒造に行って好きなお酒を選んでもらい、自分の料理に合わせてもらうということをしました。 選んだ酒は全員が大吟醸でした。 なぜかと聞くと、香りが華やかですばらしいというんです。 ところが、本番になって、料理に合わせようとすると、どうにもしっくり来なかったようです。 香りがやはり邪魔になる。 大吟醸というのは、なかなか面白い立場にあるなあと思いました。 


山口


私も、フランス人にずいぶん日本酒を飲ませる実験をしましたが、日本酒は、白ワインより赤ワインに似ているといいます。 特に、香りだと思いますが大吟醸を好みます。 これも、また別の実験ですけれど、塩辛とカズノコをですね、赤ワインと一緒に食べると、とんでもないことになります。 これやっぱり、ある種、赤ワインの狭量さを表していると思うんですね。 一方、日本酒ってのは、完璧に全部合うんですね。 フランス料理の中で、日本酒は特に魚とよく合う。 でも、フランス人は赤ワインに似ているといい、非常に面白いお酒だと思います。 


山極


西洋料理にはね、食前酒とか食後酒というのがあります。 日本でも、梅の入ったお酒が食前酒のように出たりするようになっていますが、そういうものを、酒を作る側として、これからきちんと作って行こうというようなことは。 


佐々木


そうですね、ちょっと甘めのにごり酒を食前酒にお使いになったり、とろっと甘い古酒をデザート代わりに、というようなことも増えてきましたね。 ただ、日本酒は、酒税法の中でがんじがらめになっているので、あんまりいろいろできないんですよ。 その範囲内で酵母変えたり米変えたり、精米具合を変えたりという中でやってるんですけど、なかなか突飛なことはできない。 


高田


その縛りで、一番お困りになっていることはなんですか。 


佐々木


何も入れられないことですね。 米、米麹以外は。 


堀場


リキュールなら…


佐々木


そうです。 リキュール、雑酒にしてしまえば別です。 


高田


ドイツのビールも、16世紀に制定されたビール純粋保護法で、大麦の麦芽と水とホップ以外を使ったら、ビールと呼べないということになっています。 それでも、味や色や香りのバリエーションは非常にたくさんある。 日本酒の場合は原料は……。 


佐々木


米と米麹、酵母、醸造用アルコールと水。 


高田


ブドウ酒も同じような制約があるのではないでしょうか。 


佐々木


ブドウは、赤いの白いのいろいろ種類があるが、お米は、品種改良であまり変わらないんですよ。 


高田


日本人が食べる米は最近、ほとんどササニシキとコシヒカリで、これにはまた別の問題があるようですね。 それ以上に日本酒の場合は、バリエーションが少ないようなのですが……。 


伏木


あんまり、日本酒にバリエーション求めていないんですね。 多くの人が、発泡したりなんかするのも出るんですけどねえ。 





佐藤 洋一郎(総合地球環境学研究所副所長)


日本酒の話を聞いていてずっと気になっていたんですけども、われわれは、今の日本酒のことしか話してないですね。 今の日本酒っていうのは、バリエーションの話でいうと、それは山田錦ですよ。 もう一つ人気のある「五百万石」というのも、山田の穂ですからね。 実は、穂を辿って行くと行き着こところは「雄町」という品種一つなんです。 この雄町しか使っていないから個性を発揮できない。


もし、そこのところを増やして、ぜんぜん違う米に変えることで、日本酒は日本酒でまたすごく違ったことになるんだろうと思うんです。 ポテンシャルから言うと、日本酒は米と外側から麹を加えますから、これ別な生き物です。 ワインの場合は、自分が持っている酵素ですからね、その点で、バリエーションからいうと米の方がポテンシャルは大きいはずなんです。 だけど、むしろわれわれの文化、われわれの習慣は、非常に小さいところで、いいの悪いのという話をするので、それで、主観のところがどうしても勝ってしまうのではないかと、ずっと思っています。 


伏木


日本酒の好き嫌いの座標軸が、そうなっているからでしょう。 現在のね。 


佐藤


そういうことがあるかもしれないが、誰かが、そこのところを狭めた。 つまり、0、1、2という座標軸を0、0.1、0.2でやるならね、そりゃもう誤差のほうが大きくなって、客観的評価ができない。 


山極


味というのは、心もとないものです。 でも、作っている側は非常に綿密に計算して、作っているわけですね。 感じる方は心もとないのに、作る方は一定のものを作ろうとしている。 ここにすごいミスマッチを感じるんですけど、味っていうのは、いい加減のものなのか、きちっとこういうものと感じてほしいと思って作るものなのか。 品質、ランクの問題いろいろあろうと思いますが、どの程度の人間の感覚をめどにしておられるのか。 すごく気になるんです。 


佐々木


そうですねえ、毎年、同じようなものを作ろうとしています。 酵母を変えていろいろやっていますが、基本的には同じものを作ろうと目指しています。 米が、ちょっと吸水が多ければ、もろみの段階で吸収して最終的にはおんなじ数値に仕上げます。 ただ、分析している数字上は同じでも、見えない部分では、違っているところがたくさんあるでしょうから、評価には優劣が出ます。 


山極


髙橋さん、酒を飲めば飲むほど味の感覚がにぶっちゃうんではないかという気がするんです。 だから、酒を飲みながら料理を食べるというのは、料理を出す側にとっては、とんでもないことではないかと思うんですが、むしろ、味覚は、お酒を飲むと洗練されていくんですか。 


髙橋


いや、だんだん、アカンようになると思います。 ですので、日本料理の構成自体でも、そういうふうに、最初の3品目、4品目ぐらいまでは、センサーが繊細に働いている部分で美味しいものを食べていただくという仕掛けになっています。 後から、だんだん鈍ってきたら、それなりに味が濃くなったり、酒も濃くなる。 能力が落ちていくのに合わせて、それに合うように料理は作られていきます。 


堀場


基本的に、酒飲みというのには2種類あって、酒を美味しく飲むための料理、料理を美味しく食べるための酒、プライオリティーが違うんですよ。 ぼくは、どっちかというと後者ですが、ぼくの親しい奴は、髙橋さんのところに行ったらもったいない。 初めのあてぐらいでいいんで、出しても突っつく程度で、また、ぐちゃぐちゃ汚い食べ方をするんです。 料理屋は、そんなんじゃなくて、料理を食べるために酒を飲む人を大事にせないかんと思います。 酒を飲むためやったら、しょうもないあてでええんですよ。 


伏木


いや、私は、わりと酒を飲む方なので、酒を飲むために料理がある。 例えば、髙橋さんのところに行って、全く、今日は酒が出ませんというと、全く不味い。 


堀場


そりゃ、ぼくもそうや。 そんな料理屋は、もう馘首やね、もちろん。 


伏木


酒飲まなければ、料理のいいところはわかりませんよ。 ただ、日本料理は、まだ酔わない時にメーンの椀物がちゃんと出てくる。 後は、なんでも良くなるとしても、それに合わせ、うまいことやってくれはりますね。 


髙橋


醤油系が多くなりますね。 


山口


私は、世界の中の日本料理という話題を申し上げたいと思いますが、木乃婦さんの料理を食べる時は、私の中でずれてしまった座標軸を元に戻すために行くんですね。 ああ、これだ、これこそ京都、日本料理だ。 これが原点だということで、また、自由に遊びに行く。 それで思い出したことは、アメリカ人の利き酒師セーラ・マリ・カミングスさんの伝説のことです。 長野県小布施の市村酒造でしたか、一時は安酒ばかりを作っていたのですが、彼女がこれではダメだ、日本酒はもっと気高いものだということで、取締役になって立て直した。 いいお酒を作るよう切り替えて、経営が良くなりました。 


このように、日本酒はまだ戻ることができる。 これは、未だに日本人が日本の中で作っているから、座標軸がちゃんとあるからだと思うんですね。 これが、アメリカやヨーロッパ、中国なんかで作り始めたら、多分座標軸がどんどんずれて、「なんちゃって日本酒」ができちゃうと思うんですね。 日本料理もそうで、木乃婦さんのような、「どまんなか」はこれだという存在があるので、日本で食う日本料理はずれないんですね。 ところが、外国で食う日本料理は、どんどんずれはじめている。 これ、なんとかするべきで、多分、髙橋さんはそのブレを直したいと思っていらっしゃると思うので、フランスでの実験とか、いろいろ教えていただけないでしょうか。 


髙橋


海外に行って、よくイベントとかして海外のシェフとフランス料理の方ともブラジルの人とでもいろんな話をしますけど、それは、別に、向こうの技術を入れようとか、日本料理を何とかしようかということではないんです。 料理って動きますから、彼らの思考とかをちゃんと客観的に把握して、それと棲み分けすることが一番大事だと思ってます。 ですから、それ以外の、世界にある料理以外の土壌で勝負するっていうか。 フランス料理なんか、一番変わりやすいんです。 日本の〇〇?でも簡単に使いますし、日本の発酵食料なんてすぐ使って、インスパイヤーされたなんてことをいって、他国のものを自国の料理風にアレンジして使う。 どんどん変わる、いわゆる変わりゆく文化なんですけど、日本の場合、そういうのはないんです。


すべて型があって、その非常に誠実に作られたものの上で形づくられていくので、あんまり、それまでのものを崩さずに表現方法を変えるとか、上から乗せて行って、足していって、食文化の形態を広げるという文化の仕組みなんです。 ですから、奈良時代が最古の日本料理だと思うんですけど、ぼくは、それぞれの時代の文化を足していって、枠組みを広げていったのが日本料理なので、しかも、それはほぼ海外からやってきたものですから、今も、日本料理の座標軸を崩さず、海外からやってきたもので加えられるものは何か、と考えながらやっているんです。 


伏木


昔、酒蔵のおじさんがね、ずいぶん昔のことですが、一番自分にとって怖いのは、近所のうるさい爺さんたちが、「お前とこの酒、今年変わったな」といわれることやというてはりましたね。 きちっと同じものを作るっていうのが、一番美しいことだったみたいですね。 


佐々木


変わったっていうのは、大概、悪いようにいわれているということですね。 年に一回作りますので、必ず、古酒から新酒に変わる時期があるんです。 その時、新酒と古酒を一定の割合で混ぜ、半々にしてなど、味に変化が出ないよう大変な努力をしていますね。 


山極


そろそろ、時間も迫ってきましたので、世界遺産という話も含めながら討論していきたいと思います。 世界遺産の中には、食にまつわるスタイルとか、立ち居振る舞いとか家屋とか、和食にまつわる総合的文化というものを、根本に据えているんです。 例えば、今、テレビで「酒場放浪記」というのが人気があるらしいですが、〇〇の料理を肴にカウンターで主人と話しながらもちろん日本酒もありますが、ビールやホッピー、酎ハイなどを飲む。 これは、近代のサラリーマンがたくさん増えてできた文化で、まあ、こういうのは世界遺産には入らないだろうと思うんだけれど、和食、その美味しさといった場合、お酒と組み合わせて和食は語るべきなのか、切り離して語るべきなのか、これからどう考えていったらいいか。 世界に売り出していく和食とお酒ということで少し意見をうかがいましょうか。 


山口


ぼくは、酒、すごく弱いんで…。 木乃婦さんでいただく時は、素材の美味さ、料理の美味さを知りたいんで、酒をなるべく飲まないで食べるんですけど。 これ、伏木さんにはダメと言われちゃいますね。 今、ちょっと、飲みながらと飲まないでという両方で、食べ比べてみたいと思いました。 伏木さん、お願いします。 


伏木


日本食と日本酒は切り離せないと思っています。 刺し身なんて、酒がなかったら絶対もったいないと思うんです。 ビールで刺し身とは思わないでしょう。 ここで日本酒がほしいと本心思います。 日本酒は、刺し身の美味しさを本当に味わうための一つの要素として存在していると思います。 


れで、世界遺産の話ですけど、あれ、ようわかりませんね。 無形遺産なんだから、精神性なんだろうと最初思っていました。 最初、何を求められているかがわからないままに、無形遺産というのがワーッと出てきたから、結局どうしていいのかわからないままで今に至っているということがあるんじゃないですかね。 ユネスコは一体何をしたかったんでしょう。 


高田


それを考えるには、世界文化遺産の指定の経緯を考える必要があります。 ユネスコは1972年に世界遺産条を制定して、文化遺産、自然遺産、複合遺産の指定を始めるわけです。 そのうち、文化遺産の基本はヨーロッパの石造構築物でした。 ところが、1992年に日本が加盟して、木造構築物もその対象になり始めた。 


ところが世界を眺めてみると、ブラックアフリカや南アメリカなど、そういう構築物がほとんど残っていない地域が少なくありません。 しかし、そういう地域にも歌や踊りなど、特有の芸能や芸術があるわけです。 そうした無形の文化遺産を顕彰することで、それらの地域の人々の誇りとアイデンティティを高める手助けをしよう。 そういうことで、ユネスコで活躍していた日本人女性の努力が実って、無形文化遺産条約が成立したわけです。 


こう考えると、料理のようなものを無形文化遺産に指定することには、かなり違和感があったのだと思いますが、結果としては無形文化遺産として認められることになったようです。 ただ、その場合には、ある種のオーセンティシティといいますか、きちんと定義された資質が示される必要があると思います。 


そのように考える一方、実際に日本料理が世界に広がっていく過程では、そらあ、むちゃくちゃな料理が現出することになるのでしょうね。 このことは世界中に広がった英語の辿った運命を思い出せば、はっきりします。 というのも、英語は世界に広がることに成功したわけですが、そのかわり、英語国民はおぞましい英語の出現に耐えねばなりませんでした。 その点、フランス人は、そういうことを厭うたのでしょう。 フランス語は遂に世界語になりそこねたといってよかろうかと思います。 


これと同様に今後は、ええかげんな日本料理が世界中に広がっていくでしょう。 そのことによって逆に、日本料理というか和食というか──それらには上等と安物がありうるわけですが──そういう料理の軸をきちんと打ち立てておくことが一層の大事な意味を持つようになると思います。 で、そういう軸さえしっかりしておけば、どんな風に多様化した日本料理や和食が世界に広がっても、それはそれでかまわないのではないでしょうか。 


山口


私、ケンブリッジで面白い実験をしたんです。 大学院生、大学生30人をケンブリッジで一番美味しいとされている日本料理屋に連れていって、さまざまな料理を食わせてアンケートをとったのです。 すると、寿司は、美味い、不味いの違いはあったが、全員、日本料理だとカテゴライズしました。 一方うどんは30人が30人とも不味いと答え、全員が日本料理ではないと答えました。 つまり、ぼくたちの中には、これは日本料理だ、これは日本料理でないという定義がきちんと暗黙知の中にあって、かなり境界がはっきりしている。 フランス料理よりもはっきりした境界線が確固としてある。 境界線が暗黙知の中に確固としてある以上、これを言語化する努力をすべきだと思うんです。 科学、学問が言語化して、どや、これが日本料理だということを出して、その上でユネスコの世界遺産化すべきだと思います。 日本料理は、世界遺産になるべきものだと思っていますが、それをしないのは怠慢ですよ。 


伏木


ぼくは、最初、無形文化遺産と聞いた時、モノやないやろと思ったんですよ。 日本の料理で一番際立っているのは、やっぱり、自然のものをいただいているという感覚で食べてることでしょう。 西洋の人たちが、自然を自分がやっつけてとって来て食べてるというのと違って、自然と一体化しているというか、食べ物と自分の距離が非常に近いという精神性が日本の料理やないかと思ったんですね。 今でもそうで、そこにうどんとかそばとか、いろんな「もの」が出てきても、それではないだろうといつも違和感が残るんです、そこに。 


高田


ジビエは別にして、牛や豚などの家畜や家禽の肉には旬というものがありません。 それに比べると、日本料理に用いる魚や野菜には、きちんと旬がありますね。 で、この旬……じつはわずか10日であるわけでしょ? 本当においしいのは10日間だけ。 まあ最近は流通が発達したので、初鰹なんかでも、おいしい季節が1カ月にも達するわけですが、昔は本当に10日だったのだと思いますね。 


山極


あるアメリカの友人が来日して、しばらくいた事があるんですが、日本人は農耕民族ではない。 狩猟じゃないのはわかるけれども、採集民族だというんです。 それほど、山菜や四季折々の自然のものが食卓に散りばめられ、それにすごく熱中している。 主食以外にすごくいろんなものが食卓にのぼる。 これは、他の地域の農耕民族としては考えられないことだという。 これは、すごく印象に残っているんですけど、日本の食として、とても大切にしていることでしょうね。 


髙橋


そうですね、魚でも品種で三千種類以上あります。 野菜についても、ナス、キュウリというだけで160種類以上あるので、それで千両ナスとか賀茂ナスとか言い出すと、それに5をかけたぐらいの数字の品種になってしまいます。 その上、千両ナス、賀茂ナス、ミズナスそれぞれ、みんな調理法が違うので、料理人としては全部やらないといけない。 つまり、それぞれの食材に対する調理法がみんなインプットされていないといけません。 旬が10日ですので、その美味しいところの10日間で、今年はこないしよう。 また次の年が来ると、10日とか1カ月の間に、その食材とどう向き合うかと…。 自然と向き合ってやってると、このように何年やってても時間が足りない。 いつまでも、扱ったこともない食材がゴロゴロ出てきて、例えば、60歳になってもまだ初めて扱う食材があるほどたくさんあります。 日本は、本当に珍しい風土かなと思います。 


伏木


フランス料理やったら、食材が少ないから、これソースを変えていくんでしょうね。 一生かかってソースをかえ変えていく。 


髙橋


確かに、選ぶ余地のないくらい野菜の種類は少ないですね。 キュウリでも、もっと違うのないかといっても無理ですね。 だから、フランス料理では、素材のよさを引き出すというより、そのもので変化を与えないと、お客さんがあきてくる。 われわれの場合、素材が沢山あるので、順列組み合わせで何千通リ、何万通りとありますから、そういうところにポイント置かなくてもいい。 


山極


日本の日常的な料理でも、毎日メニューを変えますよね。 これ世界の中でも珍しいと思います。 日々だいたい同じものを食べているというのが普通ですから


では、時間が来ましたが、大変盛り上がって面白い話題に展開したと思います。 それで、この後、ワールドカフェに移りますが、今年のクオリアAGORAは「2030年の日本を考える」という共通テーマがございます。 ワールドカフェで、きょう出てきた和食と日本酒を組み合わせて2030年の日本を考えてみる。 また、2030年になったら、和食と日本酒はこうなっているというような想像でもいいですが、日本の未来の中で、日本酒と和食をテーマに考えていただきたいと思います。 


 



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