第3回クオリアAGORA_2013/古人骨・古代の色からみる~
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スピーチ1 「身体史観でたどる日本人の原像」
京都大学名誉教授 片山 一道 氏
「日本人論」、あるいは「日本人とは何ぞや」というテーマで、私なりに手短に話してみたいと思います。 もとより雲をつかむような芒洋とした話ですから、時間内にまとまるのか、自信はありません。
今思い出しましたが、20年以上前、キャンベラにあるオーストラリア国立大学で、日本学(ジャパノロジー)の国際シンポジウムが開かれたときのことです。 メルボルン大学の社会学の先生が「日本人とは、『日本人論』が大好きな人たちのことである」と冗談めいた話をしておりました。 なるほどなあ、うまいこと言うなあ、と感激して聞いた覚えがあり、今でも強くインプットされています。 それに比べると、私の話はどうか。 みなさんの興味をひくようなものになるかどうか、いささか心配です。 配布物には、いっぱい書きこんでおりますが、みんな話すわけではありません。 後のワールドカフェのときにでも話題にしていただければ、幸いです。
はじめは、私たちの稼業である「骨屋(ほねや)」についてです。 「古人骨」、つまりは、考古学の遺跡で発掘される人骨を多角的に研究するのです。 われわれは一皮むけば「骨格」ですが、私ども「骨屋」という存在は、この写真(資料)のようなものです。 人骨が読書しています。 古い人骨を見ています。 私よりは、ちょっと足が長そうですが、これぞ、「骨屋」が骨を埋める姿なのです。
つぎに、なぜ古人骨を研究するのか。
これは、考古学の遺跡から出てきた人骨から、いったい何がわかるのか、と関係します。 資料(1)は、考古学の遺跡から出た人骨を調べることで明らかにしうる事項を並べたものです。 ともかく、骨を残した人間の人物像や生活像について、いろんなことがわかります。 もちろん、どの人骨も良好な状態で残るわけではありません。
だから、残り方によって、よくわかる場合とわからない場合はある。 等身大の人物像、生きかたや死にざま、などなどが、くわしくわかることも希ではありません。 古人骨を研究しなければならない理由です。 古代人、あるいは江戸時代の頃の人についてもそうですが、彼らの等身大の実像を探るには、骨しかないのです。 肖像画や壁画があるじゃないかとおっしゃる方もいますが、実は、あんなもの役に立ちません。 あとで再びふれます。
資料(1)に挙げる26項目ほどのことがわかったら、当時の人間の実像が浮かび上がるのは当然です。 それから資料(2)。 新聞やテレビの報道も、このことについて、ある程度のリテラシーが望まれますが、困った例もあります。 この新聞記事が、その例です。 古人骨研究に理解を示さない頑迷な某考古学者の言い分を垂れ流しており、記事を見て、髪の毛が逆立つような思いがしました。 テレビでも、たとえばニュース番組などで、人骨が話題になると、わけ知る顔の解説者が「DNAを調べたらすぐわかりますね」などと気楽にやる。 たっぷりと眉に唾を付けてください。 たしかに新しい骨なら、多くのことがDNAで分かるでしょう。 でも、考古学の遺跡から出てくる人骨については、資料(1)で挙げる項目のうち、血液型とか性別とか除けば、たとえDNA配列が詳しくわかっても、なにも解読できないのです。
骨屋でも、生身の人間の骨格を透視するのは難しい。 X線装置のようにはいきません。 でも逆に骨からは、生身の人間の顔立ちや体形が容易に翻訳できます。 この頭骨の主は生前、鼻が大きかったか、おちょぼ口であったか、などは推測できます。
ところが、実際に遺跡で見つかるときは、バラバラに壊れた状態ですから、まずは、頭骨などを復元しなければなりません(資料)。 この作業は楽しいものです。 三次元の立体ジグソーパズルのようなものです。 やり始めたらやめられない。 やり慣れた骨屋なら1日で一人分くらいできます。 最近では、コンピューターの中で仮想的に接合することもできるから、より難しいことが可能になりましたが、面白みが半減したように思います。
さて、タイトルにある「身体史観」ですが、これは私の造語です。 どういうことか。 われわれの「身体(からだ)」もまた実は、文化や社会と同じように「歴史的産物」なのです。 ひとり一人の人間が、何千年、あるいは何万年の歴史を背負って産まれ、生き、歩んでゆくわけです。 どの時代の人間も歴史的必然なのです。 だから、その時代その時代の人間の等身大の身体形がわかれば、そこからも一つの歴史学を構築できるのではないかという発想です。 その発想で、日本人の歴史を見てやろうということで、久しぶりに最近、拙著(7月22日刊「骨考古学と身体史観―古人骨から探る日本列島の人々の歴史」)を刊行しました。 ここからは、その本をネタにして話を進めていきます。
順次、時代ごとに、日本の歴史をになった人々のことに触れていきます。 まずは旧石器時代人。 日本列島には中期旧石器時代の7万年ぐらい前から人間が住んでいただろう、との見方が今や有力です。 10万年ぐらい前にさかのぼる遺跡を見つけたと主張する考古学者もいますが、悩ましいところです。 ようわかりません。 ともかく、7万年ないし6万年前ぐらい前から1万5千年~1万3千年ぐらい前にいた人たちが旧石器時代人です。 そのころは概ね氷河期、今の日本とは地形が違います。 氷河期には、地球が寒冷化、氷河が広がるから海水が減少、海面が下がるわけです。 そうしたら日本は、列島ではなくなる。 今の大陸棚までもが陸地化していたために、日本列島ではなくて、本州半島で朝鮮半島と陸続き、北海道半島がサハリンの方から北海道まで伸びていた。 そして、沖縄半島が、完全に半島化しないものの、台湾の方から伸びていた。 日本の旧石器時代人は、そういうところを陸伝いに移動してきたみたいです。 おそらくは東アジアの西の方から、あるいは北の方から、吹きだまりのように来て住み着いた人々だろうということです。
それでは、いったい、どういう人たちだったのか。 本州地域では、残念ながら、彼らの身体を復原できるほどに良い化石人骨が見つかっておりません。 でも沖縄諸島では、いくつか見つかっております。 その代表例が「港川人」(資料)です。 涙が出るほどに良好な人骨が含まれています。 全部で9人分ほど見つかっており、うまいことに、1号人骨は成年男性骨、4号人骨は成年女性骨です。 この写真は1号人骨に基づき復顔した男性の肖像です。
この港川人のような人々が、つぎの縄文時代人の祖先となったのでしょうか。 これについては、最近では、否定的な見方が有力です。 港川人骨を研究した鈴木尚先生(東京大学)は1963年に、縄文人の骨に似ていることを指摘しました。 ところが、最近のいくつかの研究は、沖縄の港川人は本州の旧石器時代人と流れを異にし、縄文人につながらない、と推論しています。 当時、東南アジアにいた人たちが台湾方面から一時的に広がっていたのだろう、とのことです。 そんなわけで、たとえば柳田國男の「海上の道」との連想で常識化してきた「縄文人南方起源説」に懐疑の目が向けられるようになりました。 つまり、かならずしも縄文人は東南アジアにルーツをもつわけではなさそうです。 ともかく、港川人と縄文時代人とはつながらない。 琉球諸島と九州の間にある海域は荒れ狂う海。 1万年以上も前のことですから、たやすくは渡れず、こえがたい障壁となったかもしれません。 そうなると、埴原和郎先生(国際日本文化研究所)の「日本人二重構造論」仮説は雲行きが怪しくなります。 なぜかというと、この仮説は、縄文人が東南アジアに起源したことを前提にしているからなのです。
ところで御年配の方、40代、50代、60代の人などは、「明石原人」という言葉を御存知だと思います。 それから「高森原人」、あるいは「東北原人」という言葉も御存じかも。 かつて、前者は1985年ぐらいまで、後者は2001年ぐらいまで、高校の日本史の教科書に出ていました。 今から何十万年もの昔、つまり中国大陸に「北京原人」がいたころ、すでに日本列島にも人類がいたのだろうという話です。 今では、どうもおかしいということで、教科書から消えてしまいました。 ことに後者のほうは、「遺跡の捏造」が関わる話ですので、えらいことになったわけですね。 いずれにせよ、日本列島には7万年ないし6万年ぐらい前から人間が住み始めた。 東アジアの方から、ふきだまりのように集まってきたのだろう、というのが定説のようになりつつあります。
次に登場するのが縄文人です。 今から1万5千年ないし1万3千年ぐらい前から2千5百年ほど前の縄文時代にいた人々のことです。 愛知県の伊川津遺跡から出てきた縄文人骨の写真(写真)と、それをもとに作成した復元像です(写真)。 どうです、格好いいでしょう。 連れている犬も可愛い。 今の日本人とはかなり身体が違います。 どう違うか。 なんとも寸詰まり体形ですし、顔立ちも違います。 大顔で、鼻の骨がやたら大きい。 それに顎の骨はエラが張っています。 鼻骨と顎骨の法則というのがあり、すぐに縄文人だと見わけられます。 それに歯が変でしょう。 わざわざ何本かを抜いています。 抜歯です。 それに、上の前歯(切歯)を研いでいます。 縄文時代の後期の頃には、全国的ではないのですが、こういうことをする風習が広くありました。 根もとの大きな犬歯を抜くのは,今の歯医者さんも大変なのです。 抜歯や研歯を施す身体加工風習は、お洒落のためではなく、おそらくは通過儀礼として、あるいはシンボリックな意味合いで、はたまた身分証明書のような意味で行われたようです。
縄文人は、縄文時代の長さの割に、非常に均質な人たちと言えます。 もちろん、すこしは時期差がありますが、それほど変化しなかった。 地域によってもそんなには違わない。 おそらく、日本列島の各地にいた旧石器時代人が融合するようにして誕生した人々だろうと思います。 採集狩猟が生活の中心だったでしょうが、ところにより、園芸農耕活動も盛んであった。 それと、非常に漁撈活動が活発で「海の民」的な性格も強かった。 日本が列島化したことと関係するのでしょうが、豊富な海産資源を積極的に利用していたようです。 おそらくは世界でも一番古いか、二番目かに古い海の民です。 園芸や漁撈活動のために定住生活が基本であり、大きな集落もあった。 そのためもあろうが、独特の土器文化が育まれた。 豊穣な時代かどうか、それはともかく、「静の時代」だった。 つい最近、建築家の上田篤先生は「縄文時代には、持続可能な社会のモデルがあった」などと、えらい賛辞をおくっておられます。 そやろうか、と考えてみたのですが、たぶんそんなことはなかった。 というのは、縄文人は日本列島全体でも20万人程度の人口規模だったようです。 せいぜい「食い、寝て、出す」だけの日々を送っていたのでしょう。 尊敬すべき祖先ではありますが、現代人とは違いすぎるユニークな人たちだったようです。
次は弥生時代の人々です。
いっぱい渡来人が朝鮮半島から来て、それまでの縄文人に取って変わったのだろうと、常識のように言われたりしますが、そんなことはなかったようです。 日本列島の人口は、この時代になると、100万人~200万人規模に増大するのですが、渡来人が雲霞のように押し寄せたからではない。 別の理由があったようです。
私のレジュメには、弥生人にカギ括弧を付けています。 弥生時代の人々は多様性が強く、地域性がめざましいから、ひとくくりにできないのです。 そもそも地域により、人口密度が違っていたわけではないのに、この時代の遺跡で発掘された人骨の量には非常に大きなバラツキがあります。 これまで出た人骨の90%以上は、福岡平野を中心にした北部九州と山口県西部の遺跡からです。 そしてその大半は、いわゆる渡来系弥生人の骨です。 渡来人につながる人々のものなのでしょう。 しかしながら、それ以外のところ、たとえば西北九州や近畿地方では様子が異なります。 前者は、まるで縄文人の骨です。 近畿地方では、よく研究できる人骨は30体分ほどしか見つかっておりませんが、それでも一筋縄ではいきません。 いろんなタイプの人がいたことが判っています。 縄文人のような人、渡来人系の人、これらがミックスしたような人、さらには古墳時代人のような人までいて、まさに「弥生人さまざま」なのです。
なぜこんな現象が生じたか。 ひとつには、社会構造や社会様式などが変化、多様化したこと。 ひとつには、弥生時代になって、対馬海峡と朝鮮海峡を舞台に人間と文化の行き来する道、回廊地帯ができ、イギリス海峡のような状況が生まれたことです。 つまり、人間とともに、新しい外来の文化や生活様式が入ってきたことが、日本列島の人々や社会を複雑にしたのです。 でも縄文人が、新たな渡来人に入れ替わったわけでも、縄文人と渡来人とがサンドウィッチのようになったわけでもない。 中世の頃まで続く回廊地帯が生まれ、大陸とのつながりが強くなったということでしょう。 神戸の「新方遺跡」の人骨などを見るかぎり、依然として、「縄文人もどき」が広く分布していたことを物語っています。
弥生時代は「争乱の時代」でもあり、西日本を中心に、かなり国が乱れたようです。 この時代の遺跡からは、殺傷痕(死亡時にできた傷)をもつ人骨、あるいは、矢尻や刃物の破片が刺さった人骨なんかが見つかります。 ともかく、傷つき倒れた人たちの骨がいっぱいいたのです。 赤い色をした骨も見つかりますが、不気味さが漂いますが、事件性とは関係ありません。 たぶん死者を埋葬するときに水銀朱をバラマキ、それが骨に染みこんだのです。
時間がないので、古墳時代人については、藤ノ木古墳の石棺をお見せするにとどめます(資料)。 奈良県辺りの大型古墳に埋葬された人たちは、一風変わった人たちだったようです。 ともかく背が高い。 高松塚、藤ノ木、マルコ山などの古墳の被葬者は、みんな背が高い。 当時の人々の平均身長は、全国レベルでは160㌢くらいですが、そうした古墳の被葬者は、高槻の阿武山古墳の藤原釜足なども含めて、166~167㌢くらいあったようです。 おそらくは、階層性が顕在化したためでしょうが、国家形成のプロセスで社会構造が複雑化、身分が分化したのでしょうか。 ところで、藤ノ木古墳の二人の被葬者は、権謀術数が渦巻く時代の犠牲者であった可能性が指摘されております。
ちなみに、
中世から近世にかけて、なぜか日本人の身長は低くなっていきます。 どうして低くなったか、興味が尽きません。 ある人は、食物が悪くなり、栄養状態が悪くなったためだろうと想定しますが、どうも、そんな単純な問題ではないようです。 私の師である池田次郎先生は、通婚圏が狭まって、近親婚の割合が高くなったせいではないか、と考えておられましたが、どうも、こちらのほうに説得力がありそうに思います。
京都との関係で、江戸時代の人骨にも触れておきます(資料)。 伏見城遺跡で発掘されたものです。 伏見区役所の拡張工事の際、大規模な発掘調査が行われたのですが、そこに、江戸時代の寺の古墓地がり、なんと630人分もの人骨が出土しました。 ありがたい貴重な資料です。 おかげで江戸時代の京町民の実像を描くことができます。 ともかく背が低い。 寸詰まりの丸顔の人が多い。 それに口が出て、おちょぼ口が多い。 なかには長い顔をした貴族顔の人もいました。 現代人と違い、才槌頭が普通であり、絶壁頭はほとんどいない。
平均身長は低いが、当時の日本人としては普通。 大顔で小足、胴長短脚、下肢が短いのですが、これも当時としては相場。 戦前ぐらいまでの日本人を少しオーバーにしたぐらいです。 こうした当時の京町民の身体像が浮かび上がってきました。
江戸時代の京都は、すでに都市化が随分と進んでいたのでしょう。 梅毒などの流行病に罹った痕跡を残す人骨が少なからず見つかりました。 それから、当時の京町民の出生時平均余命、つまり「寿命」は、40歳近くと推定できました。 「人生40年」ですが、みんな40歳あたりで死んだわけではない。 乳幼時や未成年で死ぬ人が多かったので、40歳程度と低く計算されるだけの話です。 長生きする人は80歳とか、それ以上も生き、長寿をまっとうしていました。 それと今は、女性の方が長生きする傾向にありますが、江戸時代の人を見るかぎりでは、男性の方が長生きする傾向にあったようです。 このことについては、伏見人骨が特例なのかどうか、もう少し詳しく調べる必要があります。
余談ですが、ひとつ日本史の教科書に注文を付けておきます。 こういう絵を教科書に載せるのは、なにか抵抗をいだきます(資料)。 織田信長にも聖徳太子にも会ったことはないですから、つつましい言いかたをしますが、どちらの肖像画も写実的ではないでしょう。 後者は頭でっかち、足が小さすぎます。 顔をアップしますと、耳の位置が高すぎます。 これでは、メガネはかけられません。 こんな人間はいない。 虚構です。 また前者は鼻が大きすぎます。 私の知るかぎり、バルカン半島の人は一般に大鼻ですが、それでも顔の6分の1程度の大きさ。 それに口が小さすぎる。 こちらも、とても人間の顔とは思えません。 こんなのが、美術や芸術の教科書ではなくて、日本史の教科書に出ているわけです。 こんなフィクションを、ノンフィクションであるべき歴史学に登場させてはいけないのではないか。 もっとリアルなもの教科書に登場させてもらいたい。 たとえば、弥生時代の女性像(資料)。 奈良の長寺遺跡で出土した人骨から復顔したものです。 こちらは、滋賀県の打下古墳の男性骨から復顔した古墳時代人の肖像です(資料)。 こういう復顔像は、今なら簡単にできます。 CTスキャンと3Dプリンターで骨のコピーを作り、軟部組織を張り付けるわけです。 もちろん古代人でも多少は個人差があったでしょうが、筋肉や脂肪や皮膚の厚さは、現代人ほどではなかったはずです。 こうした現実的に人間の顔立ちや体形をもつ人物を登場させるほうが、日本人の歴史を忠実にたどれそうです。 これぞ、私が申すところの「身体史観」なのです。
最後に、まとめです。
縄文時代から現代まで5千年ほどの間に、日本人の身体は、時代とともに随分、変化してきました。
「日本人の原像とはなにか」、これが今日の話のテーマですが、実際に日本人は非常に複合的な人々です。 そもそも旧石器時代の頃からそうであった。 たとえば「日本人二重構造論」、そんなモデルで語れるほどに単純なものではありません。 ともかく、東アジアの「行き止まり」のような日本列島で「ふきだまり」のように混合を重ねてきた。 もうひとつのポイントは、縄文時代の列島風土で適応的に誕生した縄文人を基盤とすることです。
その時日本人が生まれたと考えてよい。
その後、弥生時代から中世にかけて、海峡時代を迎えた。 つまり朝鮮海峡と対馬海峡とが人間の混合化と多様化に果たした役割は大きいようです。
ともかく日本人の身体特徴は、時代とともに変化しました。 鴨川の流れは同じならず、まるで油絵具をかき混ぜるがごとく変化しました。 おそらくは古墳時代と明治以降とが、日本人の歴史において二つのエポックとなったであろう、と申し上げて、スピーチを終わります。 ご静聴ありがとうございました。
スピーチ2 「日本の色を探る」
染師 染色史家 「染司よしおか」五代目当主 吉岡 幸雄 氏
私どもは、簡単に言いますと染め屋なんです。 京都は、古い時代から染色の仕事が発達しておりましたし、染色に携わる人は昔からたくさんいました。 大体、権力者ができて、国が興隆していくと、非常に色を欲するわけで、これは日本ばかりではありません。 先ほどのお話の中で、シルクロードのパルミラ遺跡の写真が出てきましたが、私も現地へ行って発掘されたものを見させていただき、多分、2千年ほど前のものなんでしょうが、大変華やかな染織品が残っておりまして、それも、そこでできたものばかりでなく、はるか中国から来たものもあったんですね。
日本でも、大体2千年ぐらい前から、色彩のある服を着るという文化ができ上がっていったと考えられると思います。 もともと、縄文とか弥生の初めのころまでは、衣服を着たり、着るものを作ったりしていたとしても、それはどちらかというと保温や身を守るためのもので、おしゃれとか色を楽しみ、豪華にするというような考えはなかったと思うんですね。 国家というものができてまいりまして、例えば、卑弥呼のような女王がいて、その下に誰々、何々、更に庶民と、階級というものができあがってくると、色に対する概念というか、そういうものが非常に強くなっていったということではないだろうかと考えています。
まあ、私のような一介の染屋が、なんでこういう古いことを勉強しているかということになるわけなんですけども、染織の仕事も世界のターニングポイントは、やはり「産業革命」なんですね。 われわれ、染色のことで申しますと、非常に簡単なんですが、1850年代ぐらいに、それまでは、そこそこの文明の高い国家を形成している国々ではどこでも、ここに持ってまいりました植物のどっかの部分、つまり、花、根っこ、実、皮だとかから色をとって、それで染めて華やかな衣装にして、おしゃれをしたんです。
ところが、イギリスとかドイツで石炭、コールタールなどから色を人工的に作るということが発明されてからは、これが急速に普及しました。 日本でも、明治初年になりますと、これが入ってきまして、なんといっても化学合成で随分簡便でありますから、それまでの自然のものをとって染色するというのは、面倒くさい、辛気臭い仕事でありまして、特に20年代、30年代から、化学合成のものにとって変わられ、旧来の染め方はどんどん廃れていった。
私どもの家は、二百数十年も染色の仕事をしておりまして、私で五代目なんですが、初代と二代目っていうのは、江戸時代で、植物染料しかなかったし、当然ずっとやっておったんです。 そのころ、四条の堀川あたりは、同じような染屋がいっぱい並んでいたんですね。 ところが、明治10年ぐらいになって、例えば、ドイツやスイス系のチバガイギーとかバイエルあたりが、便利な化学染料を盛んに売りに来たんですね。 これに三代目が飛びついた。 とにかくよそとの競争に勝たんといけませんから、人がしないことを早くせんとダメなわけで、高い染料を贅沢に買い、染色を始めたんです。 こうやって、わが家も化学的な染めに変わっていきました。 こうして、明治時代の中頃から大正時代は、日本人も大変カラフルなものを着るようになり、庶民も、それまでの大概が紺の綿のもの一辺倒だったものから、だんだん華やかなものへと風俗が変わってまいりました。 それで、染屋も活気づいて、いい生活をしていたようです。
ところが、私の父の代になって、第二次大戦後なんですが、「化学染料だけでは良くないんじゃないか」と思い始めるんです。 それは、何がきっかけかといいますと、正倉院の一般公開だったのです。 昭和24年あたりから、正倉院の宝物を一般の人に見せるようになった。 それまでは、特定の人にしか見せなかったんですね。 それを見ると、1200~1300年前の宝物は、1000年以上経っているとは思えない、非常にきれいな色が残っていた。
父は、これにショックを受けた。 最初は、自然染料だったのが、明治以降、化学染料となった。 これ、もう一度、きついけれど元のやりかたに戻ったらどうか。 そのほうが、われわれ日本人の色彩観を理解する上でもいいことではないか。 ということで、古典というか、古い技法に戻って行ったんです
私は、学生時代から、染屋を継ぐという気持ちは全くありませんでした。 興味もなかったんですね。 そんなふうに家業がいいものだとは少しも思わなかったので、長男ですが逃げておりました。 それが、40代になって、家業を誰も継ぐ者がないということで、長くやってきた商売でもあり、どうしてもということになり、家に戻ってまいりました。
学生時代と勤めてからも東京で生活しておりましたが、京都で育った環境から比べると、公害問題というか街が汚く、例えば隅田川の臭いなんかも、鴨川や宇治川と比べたら耐えられない。 そのように東京の生活で、公害とか科学や化学がもたらした弊害というものに感じ入るところがありましたので、私は、戻ってからは、一切そういう化学的なものはやめることにしました。 それで、父が研究しておりましたことを基に、できるだけ、日本人が弥生時代、2千年くらい前から作ってきた色彩の文化といいますか、そういう事実をもう一回勉強し直してですね、古いものに戻ろうというか、古い技法を踏襲しようということにしたわけです。 と申しますのは、(写真)ここにも持ってきていますが、植物染料で染めたものの方が、色が非常に美しい。 それから、色の深さって言いますか、色が浸透する力が違う。 それと、植物から作っている安全性、環境に優しいというような事がございまして、それに徹するようにしたのですね。
この造花をご覧ください。 (写真)椿の造花なんですが、赤と白と真ん中が黄色。 これは、50年近く、東大寺の方からご用命を受けているものです。 手漉きの和紙を、私どもが、紅花で赤に、梔(くちなし)で黄色く染めたものです。 東大寺で造花はお作りになるのですけれど、ここに穴があいておりまして、本物の椿の木に差し、本当の椿の花が咲いているようにされ、「御水取り」の時に使われます。 3月1日から14日間、松明が上がると同時に選ばれた僧が十一面観音にお祈りされる時、飾られるのです。 これが、なぜ、紙の造花になったのか、いつごろ、どうして始まったかというと、記録はないのですが、私が調べたところでは、大仏開眼の時には、「種々造花を献ず」ということが「続日本記」に書かれていて、この時にはもう造花があることがわかります。 後々、調べますと、シルクロードの遺跡を調査したオーレル・スタインが大英博物館に持ち帰ったものの中にも、造花がございまして、新疆でも発掘されており、相当古い時代から造花というものがあったことがわかってまいりました。
東大寺、薬師寺、京都では八幡の石清水八幡宮―ここの放生会という平安時代からの行事―でも、造花が使われております。 こういう世界的、歴史的な仕事を、私どもは担っておるのです。 古典的、非常に長く続いてきた行事には、やはり、そういう古典的な技法で飾っていただきたい、花を作っていただきたいとの思いで、造花になる紙を毎年染めて納めています。 今年で1262回を数える御水取りですが、1000年以上きょうまで休まず続いている伝統の行事です。 毎年、この継続する仕事を十分に遂げたいという思いで、植物染めの色彩の美しさを強調するように頑張っております。
それで、私は家に戻りましてから、できるだけ日本の古い時代の染屋さんというか、私ところの家系だけではなくて、多くの古い時代の染屋っていうものがどういう技術をやっていたのかを知ることが大事だと思いました。 そして、それを探求することが、自分たちの一番の教科書であろうというふうに考えまして、様々にやってまいりました。
日本の国の特徴は、発掘ということがひとつあります。 それにもう一つ、正倉院とか法隆寺の蔵で見つかるものを加えてみますと、大変たくさんの染織品が残っておる事なんです。 つまり、日本は、例えば奈良時代の染めは、これだけの色があった。 こういう技法があったということが理解できる国なんです。
さらに、「正倉院文書」などの記録というものを紐解いまいりますと、その中には、どのような染料を使っていたのか、それはどこから運んできていたか、どんな技法でやっていたか、というようなことがかなり書いてある。 もちろん、それは、今日の料理の本のように細かく詳しく書いてあるわけではありません。 が、材料とかのことが書いてありますと、毎日、植物染料と接しておりますわれわれには、これがどのような技法で、どのように使っているかということが、読めてくる。 行間が読めるわけなんです。 こういうことを大事にしながら、仕事をしています。
それから、「源氏物語」とか「万葉集」「古今集」など、古典文学を読んでまいりましても、どのような色をどのように染めていたのか、ということがわかってきます。 例えば、「万葉集」で「紫は灰さすものぞ」と。 これは、つまり「紫」で染める時には、灰がいるということが書いてある。 文学を紐解くと、どんどん面白いことになってくる。 「源氏」の中で「この人は紅梅の衣を着ておる」というようなことが書いてある。 紅梅は真っ赤な梅のことでありますが、紅梅の花を使って染めたわけではないんです。
みなさんは、植物染めとか草木染めと申しますと、その花が咲いている通りに色が移るとか、緑の葉っぱがたくさんあるから、緑の葉っぱの色がそのまま移るだろうと思われるかもしれませんが、それは子どもの遊びとしての花摺り、草摺りの技術のレベルです。 ある種の文明ができ上がってからの植物染めは、はるかにレベルの高いものでありまして、水のヌルヌルしているから酸性、アルカリ性を判定したり、あるいは、舐めてみて酸性だなと、経験や勘で、堀場さんところのPHメーターのような判断ができます。 また、アルカリでは灰を使いますが、灰でも椿の灰、藁灰、櫟(くぬぎ)の灰といろいろ使い分けなければならないんです。 こうしたことが、何回も失敗を重ねてわかってくるんですね。
さっき、紅梅色といいましたが、これは、梅の花で染めるのではなく、「紅花」とか「蘇芳(すおう)」とかという赤の染料で、非常に濃く染めて紅梅の花のような色を出すのです。 ほかに、「蘇芳の襲(かさね)」というような言葉が出てまいります。 蘇芳は、日本では生育せず、熱帯地方だけでしか育たない染料なのです。
ところが、正倉院の蔵の中には、蘇芳染めの木製品が残っています。 それは黒柿の木で作ってあるんですが、「蘇芳で染める」ということが書いてある。 ということは、日本人は、8世紀には、蘇芳という染料を南方から輸入して染めておった、ということがわかってくる。 それだけではなくて、正倉院に残っておる薬物の中にも、蘇芳の木の材料があります。 また、鑑真和上の渡航記「唐大和上東征伝」を読みますと、中国のところで、蘇芳がうずたかく積まれていて、これを売ったらすごく高く売れるということが書いてある。 こうしたことから、日本人は、国際的な材料も早くから知っていて、買ってきて自分たちの色として使っていたということがわかってきます。 また、「苅安(かりやす)」という芒のような植物がございますが、正倉院文書には、「苅安紙」という苅安で染めた紙のことが書いてあります。 その刈安は「延喜式」では、近江と丹波の国から納められると書かれていて、また「紫」は、大分県の阿蘇山の麓から入ってくると書いてあります。 その場所には、太宰府から役人が行って、税金の取立てのために生育を監視しているということも書いてある。
このように、いろいろ調べたことで、古代から江戸時代まで、化学染料が入ってくる以前の日本人が、どのような色を染めてどのようにおしゃれをしてきたのか、というような、材料的なこと、色彩感覚がなんとなく読めるようになってまいりました。 これで、最初、面白くないと思っていた家業の染めが、極めて面白くなってきました。 家を継いで30年近く歳月が経ちましたが、今は、大変、こういう仕事に喜びを感じております。
このようにいろいろ感じる中で、今、われわれ、中国と仲が良くないようなんでありますが、(写真)ここに繭を持ってまいりまして、白い絹糸もございます。 これ、ご存知のように桑で育てたお蚕さんが吐いて作った繭からこういう糸にしております。 この養蚕、絹糸が発明されたのは、3千年前、4千年前の中国と言われておりますが、絹糸は、紅花なんかで真っ赤な色にきれいに染まるんです。 これ絹糸だからです。 木綿とか麻では全然きれいに染まらない。 紫なんかもそうで、絹糸と植物染めの相性は、非常に優れたものがあります。
これは、世界のミュージアムに残っている染織、例えば、エジプトの古代の布、あるいはヨーロッパの中世のタペストリーが残っておりますが、それらは、とても絹と植物染めの鮮烈さというものには勝てない。 こんなに鮮やかに染まる絹糸はすごいもので、だからこそ、絹を知らなかった西域の遊牧系の人が、絹を求めて馬を駆って中国に交流を求めた。 そのシルクロードができた大きな理由は、文字通り、中国で発明された絹を求めての道だったわけですけど、絹はそれほど優れたもので、またその染の鮮やかさもすばらしかったんですね。
面白いことに、中国の人は、西の方にはその技法について、大変防衛的に対応しているのですが、朝鮮半島と日本には、絹のことをいとも簡単に教えてくれております。 例えば、日本では、2千年ぐらい前から、その技法は固まっておったと言われております。 「魏志倭人伝」にも「蚕桑緝(さんそうしゅう)績(せき)し絹を産する」ということが書いてあり、また、赤や青の錦を、中国に朝献する人に持って行かせたということも記載されています。 これを裏付けるように、奈良県の纏向遺跡では、紅花の花粉がいっぱい出ております。 この紅花は、私どもも、毎年、東大寺に納めるために100キロ近い紅花を使って仕事をするんですけども、水で洗ってまいりますと、排水路のところにたくさん花粉が溜まっていきます。 つまり、そのころ、纏向遺跡のところには、われわれのような染屋か、あるいは、紅花は、口紅やほほ紅の素でもありますので、化粧品を作る工房があったのではないか、と思うぐらいたくさんの量の花粉が出ております。
それまでは、明日香村の酒船石のそばだとか、藤ノ木古墳のそばなんかに花粉が出ておって、それは大体5~6世紀のものでした。 纏向で花粉が発見された地層は、2世紀から3世紀で、魏志倭人伝のころに絹を織り、赤の錦に染めていたということも大いにリアリティーがあります。 加えて、紅花は、エチオピアが原産地であり、逆に、シルクロードを東へ東へと来た植物で、これは輸入するものではなく、栽培しながら普及させていったことがわかっておりまして、そう意味では、紅花や蘇芳など赤に対する執着、これは日本だけではなく世界的に、赤とそして紫に対する執着度が高かったんだと感じられます。
日本の特徴としては、飛鳥から奈良時代にかけて律令国家ができて、たくさんの染屋の職人たちが集められ、国家を形成する位の高い人たちに、華やかなものを着せようという文化が発達し、それが平安時代に京都に移ります。 そして、江戸時代の終わるまでは、京都の堀川を中心とした染織の文化―糸を染める、染めた糸を西陣で織る―そういう文化が、少なくとも明治の10年ぐらいまでは、植物染めで行われてきて、日本人の伝統的な色というものを育んできたと言えるのではないかと思います。 ところが、先程も言いましたように明治の初めから、化学染料になりまして、今では、みなさんがお召になっている衣料は、99%が化学染料で染めたものになっています。
これは、致し方ないことでしょう。 しかし、われわれのところは、この1%の部類のところにいるんですが、日本人が育んできた衣料の文化をなくさないためにも、できるだけ古法にのとってやろうと思っています。 たくさんの田んぼから藁灰をいただいたり、椿の木を育ててもらったり、いろいろな協力をいただき、いろんな工夫をして、まあ、続けておるわけです。 幸い、日本は、ドイツやイギリスなど西欧のように、全て植物染めがなくなったというわけではなく、ほそぼそとでも途切れず続いていた。 記録というものが残っておるという意味でも、日本は優れた国だと思います。 それと、布とか着たものを大事に残すという文化がございまして、例えば400年前の秀吉や信長の衣装とかです。
また、私は、衹園祭の山鉾装飾品等の審議委員もしておるのですが、衹園祭で残されているものは、例えば胴懸は日本で作ったものもありますが、南蛮船でやってきたものを買って、自分たちの鉾にかけたんですね。 この発想で今でも続く祗園祭が、染めや織りの職人に刺激を与えたのではないか。 衹園祭は、ただ大きなものが動くだけではない。 そういう数百年前の国際的な美術工芸品、染織品が、それぞれの鉾町に今もなお守られているんです。 こういうことを知って、もう一度自然から得られる色に興味を持ち、日本人の色彩観を理解していただきたいと思います。
それから、日本の色とか日本人の特徴というと、とかく「わび」とか「さび」とかになりがちなんですが、そういう発想は全く間違っていると思っています。 日本でもどこの国でも、透明感のあるすばらしい色をつくるということに大変努力してきたというのが、根本的な考え方でありまして、わびとかさびというのは、そういうものが時を経て色が退色していったもの。 あるいは、精神的な、都で活躍した西行のような武士が流浪の旅に出る、芭蕉もそうですが、そういう「わびさび」の精神は、確かに日本にはありますが、実は、もう一方で、昔から美しい色があったり、「源氏物語」や「古今集」のように華麗な色彩を歌い上げるものがあったからこそ、わびとかさびが成り立ったんだろうと思っています。 「日本の文化は枯淡の味である」というようなことを言われると、私は、「それは問題にならないぐらい不勉強です」というふうに申し上げたいと思っております。
まあ、一介の染屋でありますが、こういうものを少しでも残していきたいと思って仕事を続けておりますが、今、深刻な問題が起こっています。 例えば、紙を漉く技術でありますとか蚕を飼う文化というか仕事が、毎年、雪崩のように急速に減っておるのです。 染屋は染料も技術も持っているのですが、いよいよ、染める対象がなくなりつつあるということになっておりまして、悩ましいことです。 ぜひ、心ある方々に、伝統的な技術に対するご理解、ご協力をお願いするものです。
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