第2回クオリアAGORA_2013/科学・技術と健康の新たな関係~
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スピーチ1 「臨床疫学とビッグデータが拓く、新しい医学研究の潮流と健康社会」
京都大学大学院医学研究科・薬剤疫学教授 川上 浩司 氏
元々医者の家に生まれ、耳鼻咽喉科の医者となって家を継ぐつもりだったのですが、アメリカのFDA(米国連邦政府食品医薬品庁)に行ったことで人生が変わり、研究者の道を歩むことになりました。 そこのCBER(生物製剤評価研究センター)という、いわゆる生ものといわれる血液とかワクチンや遺伝子治療、再生医療などを所管するところなのですが、そこで、審査官として行政に携わったのです。
そうして、日本がバイオベンチャーブームになったころ、東大に新しくできた先端臨床医学開発講座の客員助教授として呼ばれ、1年半ほど務めた後、2006年に33歳で、京都大学に来ました。
それで、今日のお話ということですが、
まず、この図をご覧下さい。 みなさんも何万回もご覧になったお馴染みのものと思いますが、今から30年後の社会構造を示しています。 ご存知のように、いま世界の人口は70億人に達していますよね。 昔は、アダムとイブしかいなかったこの地球上に、15人の子孫たちがいろんな遺伝子を持って源流として各地に行き、それぞれの人種がスタートしている。 そして、西暦2000年の時点で60億人だったものが、たった10年で10億人も増えたのです。
なぜこれだけ増えたかというと、とりもなおさず、公衆衛生の向上がひとつ。 それともう一つは、抗生物質等が25年間の特許切れを迎え、ジェネリック化されコピー製品が作られるようになり新興国でも使えるようになって、子どもが感染症などで、簡単に死ななくなってきた。 子どものころに死なないと、人間は簡単には死にませんから「長寿社会」へと変わって行ったわけです。
これが、実に1990年代の半ばぐらいからいわれるようになってきました。 この変換をもって、それまでの公衆衛生、あるいは社会的医療政策のミッションは人類対バクテリアとかパラサイト、バイラス(virus)というほかの種族とのあくなき戦いだったのですが、今ではそれが終わり、高齢化するとなるような病気。 つまり、「enemy within(内なる敵)」と,ぼくは呼んでいますが、自分が長生きすると起きてしまう病気―例えば、自分を構成していた細胞がimmortalize(不死化)して自分の体を蝕むようながん、あるいは、脳の神経が変性していくアルツハイマー認知症のような神経変性疾患などというものが疾病の本体となってきました。
それで、今の日本の人口構造ですが、
それで、今の日本の人口構造ですが、この図でご覧になっていただいている通り、ちょうど「団塊」の方々が一番大きい世代としてあって、そしてその子供の世代がいます。 団塊と第二次ベビームーマーがいるという二層性になっています。 ところが、日本の人口は、これから2030年の時代には、今の1億3千万人弱から9千万人を切り、8千万人台になるといわれていて、この図はずい分デフォルメしていますが、二層型からこんなふうにキノコ型になっていきます。
みなさんも、キノコを想像していただくとよいのですが、このキノコをキノコとして存在させるためにはいくつかの方策を打つ必要があります。 例えば、まず、重い傘の部分があって、柄が細いわけですが、キノコとして成り立たせるためには、柄を太くするか、固くするか、あるいは傘の部分を減らすかの三つしかないわけです。 柄の部分を太くするためには、どういう強い産業を作るのか、あるいは教育で一人が何十人も支えられるようなエリート教育を施す必要がある。 これが一つ目で、そうでないと生きていけない社会になります。 二つ目は、子作りによって人を増やすということです。 しかし、これはいろいろ社会的な事情もあり難しいので、ちょっときょうは話しません。
後、もう一つ、傘の部分を減らすということで、年寄りは助けないというのもあります。 でも、これは、文明社会では受け入れがたいことですね。 なので、一つめでお話しした教育の分野、あるいは産業を育てるという中で、例えば医療というものも、さっき長谷川さんも高齢化社会のプラスの側面ということをおっしゃっていましたけども、日本は世界に冠たる健康国家であり、それを実現した医療を、産業として、あるいは価値というものとしてちゃんと世界に提示していけるのか、これは、医学あるいは医学の周辺領域における重要なミッションだと思うのです。
では、日本はこの数十年間、医学をどのように支えてきたのかといいますと、
医学を支えるというのは変ないい方なんですけれども、医学の実践を医療とわれわれは呼んでいます。 その医学というものは、日本の場合はドイツから入ってきたわけですが、ドイツ医学はメカニズムであり、病理であり、そして顕微鏡で見て何が原因であるかということを突き詰めることであるところが、イギリス型の医学というもう一つの潮流があります。
人を対象にして何かと何かを比べる臨床研究、あるいは、現場を見て判断しようという医学っていうのはイギリス型医学なのですね。 イギリス型医学の潮流は、実は臨床研究ですけれども、そもそも、日本の場合、基礎研究だけでなく臨床研究をしなければならない、人を対象にした研究をなのでtranslational研究ということを考え出すわけですね。
そもそもが、ボトムアップ型というか、基礎研究の成果があるから応用せなあかん。 だから臨床研究だ。 なぜなら、自分は内科の医者なんだから、というmindsetで世の中のお医者さんたちは、臨床研究に中核病院だの総合センターだの作ったりしているんですけども、これってすごく正しくない考え方でするというものですが、本来的に重要なのは、シーズがあるからニーズを創出するのではなくて、医療においては何がニーズかを捉えて、そこへシーズ探索研究をすることなんです。 これこそが重要なことです。
何がいいたいかというと、例えばiPhoneとかのように技術が人の行動を変えてきたような科学技術とは違って、医学は科学技術の一つではあるのですが、seeds driven-シーズドリブン(本位、主導)ではなくneeds driven-ニーズドリブンで、完全に、それは何が本当に必要かを捉えないと不幸な研究になるし、そして、基礎研究も医療という実践、医療を支えている医学も間違えることになります。
これが、今まであまり語られてこなかったのです。 医学部がやることは、まさに臨床疫学、臨床研究であって、何をニーズであるかを現場で捉え、そして次の世代の医療に何をもたらすかということを学問にすることこそが、医学部のなすべきことだと、ここ数年、思うように至りました。
それをやるために重要なのが、図に書いてある「Clinical epidemiology―臨床疫学」という領域です。 これは、1990年代ぐらいからできてきた学問領域ですけども、何かというと、現場で何が起きているか。 例えば、医者、薬剤師、看護師が現場で患者さんのケアをしている時において、今までと違う、こういう治療方法、看護方法をやったほうが患者さんがよくなるのではないか、と思うとしましょう。 そうするとそれを構造化し、研究デザインを作ります。 仮説を検証することを研究とわれわれは呼ぶのですけれども、何と何を比較して、どのような患者さんとどのような患者さんを比較して、何人の患者さんを対象として、これは統計学で、そして何をoutcome(成果)指標、つまり最後のゴールにするのか―こういう研究デザインを作るという学問を、これまで、医学において日本は全然教えてこなかったんです。 京大も10年前に、われわれの社会学の専攻ができるまではそういうことを教える方はいなかったと思いますし、未だに、日本全国の大学を見回しても、これを教える先生のいる大学は、片手の指で數えられるぐらいしかありません。 ほんとに重要なのに、イギリス医学ではなく、ドイツ医学を選んでしまった日本は、ここが遅れているわけです。 アメリカの場合は、3兆円ものライフサイエンス予算を持っている強い国ですから、うまいこと乗り換えて両方をやっています。
では、そういった臨床疫学という領域がいかに医療を進歩させてきたのか、ということをお話していきたいと思います。
これは、「 N EnglJ Med( The New England Journal of Medicine)」という世界で最もprestigious(名声のある)な医学雑誌の去年8月号ですが、それに載った、医学の70年間の歴史と医学を下支えした学問は何だったのかということを書いた表です。 これを簡単に紹介します。
まず、1940年代というのは、抗生物質の時代、ペニシリンやストレプトマイシンが出てきたのですが、何が始まったかというと「first large-scale, randomized controlled trial」といいまして、医療、薬はどっちがよかったかを比べてみるということが始まりました。 これは今では臨床試験、日本の行政用語では治験といわれることです。
50年代は、腎移植とかが始まった時代ですね、ポリオワクチンとか。 この時代は「Case-control methodology」とか「Kaplan-Meier曲線」といって、K-M曲線はX軸に時間Y軸に死亡をとるような解析の仕方が発明されました。 心筋梗塞のバイパス手術なんかも始まった。
60年代は、臨床研究の中で「explanatory」と「pragmatic trial」に分かれてきてフェイズ1試験、フェイズ2試験、フェイズ3試験というふうに、臨床試験を分け、始め小さく検証して、後で大規模なスタディーを複数の施設でやるという作法が確立しました。
70年代はCTが発明されました。 この時代は「Cox proportional-hazards model」のほか「meta-analysis」といって複数の臨床試験、研究のデータを統合して、何十万人という患者さんを「N」にしてどの患者層にはどの医療がよかったのかというのをいろんな論文で二次解析するという研究も始まりました。 後に、1990年代以降の「Evidence based medicine (EBM)」というものにつながっていくのですが、エビデンスに基づいた医療の、最高のエビデンスを提示するのが、今いった「meta-analysis」といって統合的にデータを解析する手法なのです
ぼくが「蛋白の時代」と呼んでいる80年代はインスリンが作られたり、人工的に増血剤が作られるようになりました。 この時代には「スコア化」というものが始まります。 例えば「Propensity score」とか「Framingham risk score」といって、簡単にいえば地域の疫学研究の結果から、血圧はどのぐらい、食事量で運動量はどのぐらいとスコアを何点、何点とつけていくと、何点以上でその人の心筋梗塞のリスクは何%というのが出てくるのがありますね。 それがこの時代に始まったわけです。
続く90年代は、冠動脈ステントとかHIVの薬ができてきた時代ですが、EBMが出てきます。 つまりエビデンスに基づいた医療で、これは完全な疫学です。 個人の治療をするにあたって、それまでの何千人、何万人というデータベースを臨床研究することから解析をして、その中央値を考え、中央値があるということはこの医療はこれぐらい効くということを根拠にして「診療ガイドライン」というものが作られるようになってきたのです。 各内科、例えば、アレルギー内科では喘息の治療の診療ガイドラインがあって、この治療方法は「推奨エビデンスレベル」がいくつというようなわけで、「エビデンスレベル」というものができてきています。 エビデンスレベルはどうして決まっていくかというと、一番低いエビデンスは、この国では15年前までは一番高いエビデンスだったんですが、「有識者の意見」というやつです。 それから、症例研究、観察研究といってデータベースを使った研究、そして介入臨床試験。 一番高いエビデンスは複数の良質な介入試験をまとめた、さきほどいいました「meta analysis」です。
2000年代は、「Human Genome Project」というものがあって、人間の約2万個の遺伝子が全部解明されました。 これ、何故解明されたかというと、簡単にいえば、コンピューター技術、IT技術の進歩です。 また、ネットワークの普及。 これによって、これまで輪に閉じこもっていたクローズドの様々な医療データというものを外から解析できるようになります。 これが、様々な「registration-レジストレーション」というものの始まりで、例えばアメリカでは2000年代に「Clinical Trials.gov」というものをFDAが運営するようになって、アメリカ中の臨床試験のデータがリスト化されて公開されるようになっています。 さらには、こないだの大統領選挙で一番の焦点になったのは「オバマ ケア」―いわゆる国民皆保険にするかどうかだったのですが、そのきっかけになったのが「Comparative-effectiveness research(CER)」つまり「費用対効果」なんです。 アメリカもEBM偏重の時代は終わっていて、今ではエビデンスだけでなく、Aという薬とBという手術で同じような医療的な効果があるなら、費用対効果はどっちがいいのか。 計量経済学の考えが医療の世界にも入ってきまして、費用対効果は、現在、世界的なトピックのひとつになっています。
さて、「Post Genome」といわれている10年代ですが、「Patient centered(患者本位 )outcomes research(PCOR)」といわれていまして、患者さんを峻別する。 つまり、この患者さんにはこの薬が効く、この患者さんにはこういう医療がいいというのをどのように提供するのか、という研究。 体の血液からとってきたサンプルと今までの疫学研究とを突合してやるような研究というものが、これから10年間の医学のトレンドになるというふうに考えられています。
ということを考えますと、医学というのは基礎研究から臨床研究へ、そして臨床応用へというのがtranslational研究だったわけですが、これはやや遅れたパラダイムです。 次には臨床現場で個人個人の患者さんの結果を集めて集団として解析する。 この疫学で、エビデンスに基づいた医療というものを切り拓いてきたわけなんですが、さらに、populationをまた、個人に因数分解しなおしていく。 これが、われわれのやっている臨床疫学、薬剤疫学の今後のミッションの一つで、これを、基礎研究の成果ともつなげていく。 ということで、今後は「Translational Medicine」、「EBM」、そして「臨床(clinical)薬剤(pharmaco)疫学」の三つの臨床研究というものが、密着していくというふうに考えています。
では、実際にわれわれがどういう研究をしているかということです。
例えば、いわゆるマイナンバーですが、これは医療には使えませんが、これがもし、医療に使えたらすごいことがおきます。 例えば、生まれるというのは人生の結論ですので、お母さんのお腹の中にいる時から番号を付与されるなら、胎児の時の環境はどうだったか、小学校健康診断の結論があとでどう効いてくるか、成人してからの人間ドックや病気の病院にかかる、老人になってデイケア、介護を受けるとかこれを一つのIDで全部つなげることができると大きな健康情報になります。 個人の健康管理のみならず、地域によっての健康状態の悪さとかわかるわけで、そこへの医師の適正配置もできます。 これは、適切な医療政策や保険負担の無駄を抑えるなど様々なメリットがあります。
こういうことがわかっているので、そのためにわれわれもデータベース研究をやっていて、ビッグデータをいろいろ活用しています。 百万人分の健保組合のデータを使った解析、調剤薬局の年間二千万枚、つまり日本の処方箋の2%分ぐらいのデータからどんな薬が処方されているかを解析していますし、新生児を追っかけるデータなどさまざまなものを使っていまして、これを横串にして「ユニークID」でつなぐというようなことを今考えて研究しています。 実際、小児科の領域でどんな研究をして、どういうふうに医療に貢献できているかとか、大腸がんの診断で、内視鏡が、どれぐらい病理に比べて正しかったのかという研究。 薬の臨床試験では、例えば武田薬品の睡眠薬のプラセボで効いた人についてのデータ、タミフルの事故があった時に処方、や調剤がどう変わったか、膨大なデータをもとに研究するなど、医療技術や薬剤の評価をしております。
しかし、エビデンスに基づいた医療だけではなくて、今、世界の人口は、60億、70億人という時代になってきて、世界中の政府が、今、社会福祉費用の高騰に喘いでいます。 日本でも、国家予算の半分以上が社会福祉でしょう。 こういう時代においては、もう、効いているだけの薬はもう認められません。 もう20年前に崩壊している国民皆保険のシステムの中で許されるかということです。 この皆保険システムでいま何が起こっているかというと、国民から集めたお金対医療に使われている費用は1対2ぐらいになっています。 ほとんど20兆円ぐらい足りないので、税金から投入しています。 それぐらい、医療の高騰は切実な状況になっているのです。
だから、そんな中で、いくら薬が効くからといって、例えば、3カ月間寿命を延長するがんの薬があったからといって、それに600万円かかるとしましょう。 3カ月命を伸ばすために、「うちのおじいちゃんのために新薬を使ってください」というのが、果たして社会的な行為として正しいのか。 こういうのが今、世界的議論となっています。 今話をしたようなことは「health technology assessment(HTA)」という考え方で、図は、「費用対効果」がどういうものかを示しております。 そういうわけで、医療、薬や手術がいいかどうかということだけでなく、費用はどうなのかということもプラスしてやらなければいけない。 ということで、費用を計算する役所が世界中にできています。 2000年代の10年の間に欧州ではほとんど全て、アメリカにも韓国にもできています。
いうぐらいで、社会保障制度を維持するのは、これほど切実なのですが、世界に先駆けてできたイギリスのNICEが、2009年、例えば、大腸がんの薬の多くの使い方に対して「推奨できない」と勧告しました。 自費とか民間の保険でやるならいいが、でも、国が提供する制度では、あれはダメ、これもダメということが始まりました。 すると高い医療を施したり、高い薬を使うことが国の制度の中では難しくなって(日本語でいうところの)混合診療が認められるようになり、英国では2、3年前から医療は大混乱しています。
最後に、リクエストをいただいた先制医療についてお話します。
先にも述べましたように、日本では、メカニズムから始まった基礎医学、そして、医療を下支えするための学問としての臨床医学というのが医学部のミッションでした。 病院でお医者さんがクリニックに座って、病気になったらきたまえ。 わしが診てしんぜるというわけですね。 しかし、来た時にはもう遅いのです。 われわれがもっと考えなければいけないのは、70億人の人類のうち、病気の人はごく少ない。 多くの人が普通に生きています。 その「ブルーオーシャン」、健康な人に対して、医学が何をアプローチできるのか、が極めて重要だとぼくは思っています。 これからの医学で考えなければいけないのは、人間全体を対象とした医学。 つまり社会学のコンテクストなわけですけども、基礎と臨床だけではなくて、社会医学というコンテクストの中で「病気になったらきたまえ」ではなく、「書を捨てよ、街へ出よう」的なアプローチがおそらく必要なんですね。 開業医なんかも、イギリスでは実際そうやっているのですが、給料同じでも、「病気になったらきなさい」ではなくて、病気になる人を減らしたことによって貢献が評価されるようにする。 つまり、予防医療とか健康のコンサルティングっていう方がよっぽど費用対効果がよく、これからはこれを考えないといけない。
これを、古くは「予防医学(preventive medicine)」という言葉で呼んでいたわけですが、最近、因数分解されて二つの言葉で呼ばれるようになってきました。 ひとつが、この人が病気になるのかどうかを予測するような考え方。 採血をして遺伝子を検索して、どういう病気になりますよ、というわけですが、これ「predictive medicine」と呼ばれます。 もう一つは、予測した場合に、前もってどういう先制攻撃をするのか。 つまり、病気になってない人に対してどんな治療、あるいは運動とかサプリメントを処方するのか、「pre-emptive medicine」というものです。 この二つのコンテクストに因数分解されたものが、次世代の医療と考えられるようになってきました。
上のグラフをみていただきますと、X軸が時間でY軸が病気になっていくところを示しています。 病気というのは大体において、遺伝要因と環境要因でなります。 長い時間をかけ、だんだん悪くなっていきます。 ところが、もし、どこかの段階で病気に落ちていく前の段階で、例えば採血をしてこういう遺伝子や蛋白が出ているので、こういう確率であなたは病気になりますよ。 なので、今のうちから予防で介入しましょう、安い薬を飲むことでもいいですが、こういうことをすることで、病気にならずに、簡単にいうと、寿命が来る方が病気が来るより先になればいいわけです。 こういうことが実現できれば、これは、かなりお金がかからないということになります。 こういうことが実際にできないかというのが先制医療のコンセプトです。
医療の今後、健康の今後というのは、多くのビジネスチャンス、社会的チャレンジというチャンスがあって、こういった部分をどうやってリアル ワールドデータから医療の現実、健康の現実を解析し、そこから何をもたらし費用対効果などとして伝えていくのか、あるいは政策を作っていくのかというのが、これからの健康のミッションであり分野になると考えています。 われわれ京都大学は、このような分野の教育を日本で唯一力強くやっているコースを持っていますし、医薬品の開発とか臨床試験の授業も、日本でダントツに強い授業を大学院で提供しています。 社会人の人でも、ご関心のある方はぜひ来ていただきたいと思います。
スピーチ2 「骨髄移植でもらった命―移植前と移植後」
神奈川大学特別招聘教授 元宮城県知事 浅野 史郎 氏
今の川上先生のお話は、病気を治す方のお話でしたが、私の方は治される側でした。
私の病気は、「ATL―Adult T-cell Leukemia」、成人T細胞白血病というんですけども、HTLV-1ウイルスが引き起こすんですね。 発見は1977年、この場で話していることは大変意義のあることなんですが、京都大学の高月清教授が論文に書いて世界で初めて紹介した。 当時は講師だったんですが、白血病の中でも、難治性、致死性が高い。 これは、このことは赤字で書きたいぐらいなんですけども、この難治性、致死性が高いというのは、私、「どんなもんだい!」と誇りに思っているんです。 今、治ってみると「どんなもんだい、おれが戦った病気は強いんだぞ、それに勝ったんだ」と。 病気になった時は大変だと思いましたが、今はガラッと変わりました。 高齢での発症。 Adultと書いてありますが、これ、普通、成人という意味ですが老人という意味なんです。 高齢で発症し、50歳から60歳がピークですね。 これはウイルス性ですから、感染なんです。 私は母親からの授乳で感染しました。 授乳、性交渉、今はもう検査するのでありませんが輸血などで感染します。 治療法は、私が治っているわけですが、今、確立しつつあります。 以上が私のかかった病気です。
それで、発病までのことですが、2004年に、当時、宮城県知事をやってました。 仙台の日赤献血センターで献血したんですけども、1週間、いや、1カ月後ぐらいかな、そこの職員の人が私のところに飛んできて「HTLV-1ウイルス陽性ですよ」といわれたんです。 聞いたことないんで、HIV(エイズウイルス)と似ているので、あれ、おれ、そんなの身に覚えないんだけどと思い、なんだかわからないので、とりあえず、手帳に書き留めておきました。 その時は「うーん?」ということで、というのは、このウイルス陽性の人は120万人いて、このうちの5%が病気になるということをきいたので、「まあ、そんなもんか」と右から左に聞き流し、ほっておいたんです。
ところが、翌年に、今でも存命なんですが、母親が血液の病気になって、血液の検査で、HTLV-1ウイルス陽性ということがわかったんです。 で、これは、授乳で移るわけですから、子どもである私にも移る可能性がある。 二人の姉は陰性だったんですが、それで、史郎はどうだということになった。 その時、そういえば、それ聞いたことあるぞと、いうことで見つかったんです。 それまでは、たいしたことないと思ったし、HIVと間違えられるのも嫌だと思っていたんで、自分だけでとっておきたいというような気でいたんですが、その時は、きょうそこに来ていますが、妻にもいいました。 すると、「なぜそんな大事なことを教えなかったの」と叱られ、06年、東北大学付属病院の血液内科に手を引っ張って連れて行かれ、定期検診を開始しました。 その時は、陽性ですからATLになる可能性はあるわけですが、発症率が5%だから、とタカをくくっていましたが…。
ところがです、
それから3年ぐらい続けた09年5月25日のことでした。 張替秀郎医師から、こういうふうにいわれました。 「浅野さん、ATLの急性型が発症しました。 治療を開始すべき時期です。 完治のためには骨髄移植しかありません」という形で告知されたのです。 その告知を受け止めた時、晴天の霹靂ではないわけですよ。 というのは、陽性とわかっていましたから。 でも、衝撃は大きかった。 普通、発症する人は5%といえば、自分は絶対95%の方に入ると思いますよね。 だから、衝撃ではあったんですね。 告知を受けて、そして1時間して、この言葉が出てきたんです。 「この病気と闘うぞ、必ず勝つ。 支援してくれ」―妻に喫茶店で、このセリフをいったんです。 必ず勝つ、これ、楽天家の言でも、「治るぞ」という決意表明ともちょっと違う。 しいていえば予言でした。 後になってからは、「根拠なき成功への確信」といってます。 この言葉を教えてくれる人がいて、しばらくしてから、ああ、まさにぼくはこうだった、というふうに思っています。 で、この場合、「根拠なき」というのが重要なんです。 ほんとに根拠なんかないんです。 ほとんど死んでしまうんですから。 死ぬほうが確率高い。 だけども、私は、絶対治ると確信した。 これはまさに予言みたいなもので、こういうふうに思って闘病生活に入ったことで、非常に精神的な安定性を得ることができたのです。
それで、すぐに、東京大学医科学研究所付属病院に入院しました。 その時、主治医の内丸薫先生からいわれたのは「生存年数中央値13カ月」、この時は実は、11カ月といわれたのですが…。 これは、余命11カ月、え、年単位じゃなくて1カ月単位、11カ月したら死んじゃうんだと思ったんですが、パッと思いが切り替わった。 それはなんだかというと、でも、発症して13カ月経っても半分が生きている、おれはその半分に入るぞ、とあくまでこれは楽天的に考えたんです。 それで、4カ月、抗がん剤治療だけを受けて、次に築地のがんセンターで骨髄移植という流れになっていきます。 で、患者の心のありようということなんですが、「根拠なき成功への確信」を持ちながら入院していましたので、「困るなあ」とか「怖いなあ」とかいささかも思わず精神的な安定性を保ちながら、治療を続けることができたのです。
もう一つの心のありようとして、
「足下に泉あり」ということを思いました。 これゲーテの言葉らしいですが、もちろん日本語でいったわけではないでしょうが…。 これは、病気で思ったことではなくて、役人生活23年間やってきましたけども、その時に、自分を戒めたっていうわけではないですが、思ったことです。 役人は、2年とか1年で次々職場が変わるんですね。 一般の会社もそうですが、人事異動ですね。 その仕事をしている時、次にどこへ行くんだろう、この仕事は辛いけど、ここで2年頑張れば、プロモーションして次いいとこ行けるかな。 これ「専門用語」で「スケベ心」というんですが、こんなように仕事やってきた私にとって、障害福祉の仕事というのが重要なキーワードになるんですが、1987年に、障害福祉課長になりました。 もちろん、自分でやりたくてなったわけではなく、人事課長の気まぐれなんでしょうが、その時、私は、そこで「ところを得た」と思ったんです。 これは運命なんですね。 たまたま任された仕事が、やってみたらとても面白かった。 ここで「足下の泉」ということなんですけど、自分の足元をグーっと掘って行ったら必ず水は湧いてくるんです。 これを実感し、処世訓みたいなもので、実は、新入者研修なんかでよくいっていいるんです。 面白くないとかいうより、とにかく、その仕事の足元を掘ってみろ、必ずそっから泉が湧いてくるよ、と。
れを、違う文脈で、この病気の時に思ったんですね。 つまり、病気と闘うだけに集中する。 自分の今のミッションというか、今やるべきことは、病気と闘うことだけ。 自分の真下のことだけだ、と。 で、これがどういうことをもたらすかというと、ほかのことは考えない。 これ、大事なことなんですね。 ほかのことを考えるべきではないといっているわけじゃなくて、自分の場合には、ほかのことを考えないということだったんです。 大体、死ぬかもしれないという病気になったらですね、いやあ、このまま死んでられない。 残したこの仕事があるんだと、いうようなことをたくさん思うものでしょう。 市川團十郎さんも同じ病気だったんですけれども、「絶対、歌舞伎に復帰するぞ」という強い心があるからこそ、病気と戦う勇気をもらうというんですが、私の場合は反対です。 てのは、元々ですね、私はそれまでの人生においても今でも、絶対、これだけはやんなくちゃいけないというのはないんですよ。 行き当たりばったりの人生を歩んできて、来る球を打つっていうほうで、自分からあそこにボール投げるということはしてなかったんですけども。 ま、結果的に病気と闘うということだけに集中するということができて、これは、精神的な安定を得ることにつながったのです。
さらにもう一つ、患者の心のありようとして「The Challenged」ということをちょっと紹介します。
障害者ということを表す言葉で、ある人が、「浅野さん、今、アメリカでね、障害者のことをDisableとかHandicappedとかいわないで、The challenged というんだって」と。 これ受身になってます。 主語がいるんですね。 主語はThe Godなんです。 つまり、The God challenges a person.というわけで、A person who is challenged by the God.なんですね。 神様から苦難とか障害というもの、これ目が見えないとか足が動かないとかなんですが、神様から、これをはね返してご覧というメッセージ付きで与えられたという存在が「The challenged」で、これが障害者というわけですね。 これを聞いてすぐに、私はその気になって「あ、おれも『Challenged』だ」というふうに思ったんです。 こう思うことはいろんな効果があるんですよ。
一つには神様がある。 おれは神様から選ばれたんだ、と。 さっきもいったように、陽性者の5%だけ発病するんだから、おれはなるはずないと思っていたのに5%に当たっちゃった。 なんだこのやろう、と悔やむよりは、神様はおれを選んでくれたんだ、そういうふうに思いましたよ。 それから、これを跳ね返してごらんと挑戦を受けているんだ。 「なら、やってみようじゃないか」ということで、まさに闘病です。 で、闘いってことになると、病気と闘うこと以外は考えないとさっきいいましたが、さっきもいったように、「これを治して絶対歌舞伎に復帰するんだ」という思いは、私は、意外とそれは辛いんじゃないかと思うんですよ。 私は、なんにもそういうことを思うことはなかったし、そんな人生も歩んできたこともなかったので、ほかのことを考えなくてすんで楽だったんです。 それで、闘いですから、闘いというのは燃えるんですよ。 闘いで、武者震いというのは別に怖くて震えるわけではなく、燃えているんですね。 しかも強敵であるほど燃える。 私の場合、難治性、致死性が高い白血病、強敵なんですよ。 だからこそ燃えた。 それと、闘いっていうのは一人ではないんです。 ラグビーでスクラムを組んでいるという感じがね、障害福祉の仕事をやっている時もそういう感じがあったんですが、病気になっても一人ではない、支援の輪がある。 もちろん家族もいますけども、友人、いろんな形でメッセージを送ってくれました。 おれひとりじゃないな。 だから、先をいっちゃいますが、治った後の達成感の誇り、喜びということは非常に大きいですね。
それで、治療で闘うぞといっても、患者のできることはこれしかない。 つまり「いい患者になろう」ということです。 特に、後から振り返って、私は、なんで助かったんだろうかということで「right time, right person, right pace」ということをいいました。 その中で「right person」でいうと、信頼できる医師と巡りあったのがラッキーだったというふうに、助かった要因をいっていたのですが、それはちょっと違って、そこに書いてみたのですが、信頼できる医者は患者が作るという面もあると思っています。 信頼は、信頼関係、相互性なんですね。 一方的に信頼するっていうのではなく、そちら側から見てもこちらが信頼されているって事の中で醸成される状況というのが相手に対する信頼性。 これがどうやって信頼ができるのかというと、突き詰めていくとコミュニケーションなんです。 正常なるコミュニケーションがある中で、信頼は醸成されていく。 当たり前ですけども、コミュニケーションの基本は情報のやりとりだと思いました。
それで、その中の一例ですが、インフォームドコンセント。 これは、ご存知のように、よく説明された上で、患者さんに対して同意を得るというプロセスのことをいっています。
例えば、新薬を治験的にやるという時、医師がやるんですね。 被験者にこれを飲めばこういう効果があります。 ただ、もう一つ副作用があります。 何%か死ぬかもしれません、というようなものです。 私も骨髄移植の手術を行う前夜に内丸先生から受けました。 ベッドサイドに文書を持ってこられて、私の目を見て,読み上げるというより、説明されたのです。 ちょっと、その文章を読んでみましょう。 「急性GVHDで肝臓の細胞が破壊され、黄疸が出たり、重症の場合には昏睡状態になってしまうこともあります。 腸管が攻撃されると、1日に2~3リッターの水様便が出現し、引き続き脱水症状や栄養不良となり、いずれも重症になるとか患者様は死に至ることがあります」ここなんですね。 「患者様は死に至ることがある」、患者様といわれても困るんですけれども、死に至ることがありますというのが何度も出てくるんですよ。 「え、おれ、骨髄移植を受けたら死んじゃうんだ」と、これ可能性をいってるんですが、かなりビビったことがありましたけども。 あ、これもそうですね。
「アデノウイルスやヘルペスウイルスによる感染症は、重篤な場合は死に至ることがあります」。 ほかにも「心臓の不整脈、心不全…も死に至る」というように延々と続くんですが、これが大事なことなんですね。 悪い情報の事前開示というのが大切で、インフォームドコンセントは、悪い情報をあらかじめ対象者にいっておく。 その時、患者は、お医者さんの表情とか話し方、声音まで見ています。 それで、悪い情報まで開示するということは相手の信頼感にも通じます。 こんなことまで話してくれるんだ、と。
ちょっと、話は変わりますが、
東日本大震災で原発事故が起こった直後のころ、SPEEDI(スピーディ)の問題があったでしょう。 放射能の拡散状態を予測するものなんですが、当初開示しなかったことについて、文科省の担当者は「パニックが起きるから」といったんですね。 アホかと思いました。 私は、知事をやっている時から、宮城県は情報公開度ナンバーワンといわれたんですよ。 「情報公開の浅野」といわれたぐらいなんですが、情報公開というのは危機管理なんです。 インフォームドコンセントもそうです。 スピーディーの場合、情報を流せば、パニックになる、それは確かでしょう。 でも、これは、私の造語と思っているんですが、ノンインフォームドパニックなんですね。 情報を伝えることによってもパニックになります。 でも、これは性質が違い、ウエルインフォームドパニックなんですね。 どっちが収拾がつきやすいかというと、わかりますね。 ノンインフォームドパニックはどうしようもありません。 ウエルインフォームドパニックなら対処の方法があるんですよ。
それで、話は元に戻りますが、私もインフォームドコンセントを受け、小規模なパニックになりました。 だって、死んじゃうんだ、死んじゃうんだといっぱい出てくるんです。 そりゃ、パニックに近い状態になりました。 だけど、これは、いわば、ウエルインフォームドパニックだったんです。 ここまで、真摯に事前説明をしてくれたのかということに感銘を受けて、それが医療側への信頼を増す結果になったと結論づけています。
こうして、骨髄移植を受けました。 で、そこには「ミニ移植」と書きましたが、10年前までは治験状態というか、おっかなびっくりでやっていました。 それ以前は、骨髄移植は受けられませんでした。 というのは、これはとてもシビアな治療で、移植を受ける前に、自分の骨髄にある血液をつくる幹細胞を全面的に破壊するんです。 ものすごく強い抗がん剤を使い、強力な放射線をあてて自分の幹細胞のある骨髄の働きをゼロにしちゃうんです。 これは、50歳を超えたら体力が持たないということで、私は61歳でしたから、10年前なら、そもそも骨髄移植の対象にならなかった。 ところが、そこに救世主としてミニ移植というのが出てきた。 さっき破壊といいましたが、これは、完全に自分の骨髄を壊さず残した上で移植を受けるんです。 こうして、がんセンターで田野崎隆二先生から、今でも受診していますが、ミニ移植を受けました。
それで、移植なんですが、
ドナーが見つかるかどうか、心配ですね。 HLA(ヒト白血球型抗原)も合わなければいけなくて、きょうだいが4分の1の確率で合うんですが、私の場合、姉二人のものとはダメでした。 ただ、HLAの適応率は95%なんです。 バンクの登録者は40万人いますから、その中には、自分と合う可能性のある方は95%の確率なので、まあ、あまり心配はしていなかった。 ところが、移植に至る率は60%以下なのでここが、問題なんですね。 が、有り難いことにうまく、ドナーさんは見つかって、いよいよ決戦前夜となりました。
前処置、これに入ったらもう後戻りできません。 骨髄を破壊するのですから。 それで、看護師さんとお医者さんからもう1回、いわれたんですよ。 「骨髄移植を受けると、致死的な合併症が10~30%以上出ることをご了承ください」という同意書なんです。 同意しないわけにいきません。 ただ、これのいいことは、10~30%という数値を出していることです。 私の考え方でいうと、なんだ、70~90%はなんでもないんだと思って「はい、はい、わかりました」と同意したわけです。 その後、お医者さんからは「気力で乗り越えなさい」と励まされましたが、骨髄移植自体はですねえ、輸血と同じです。 痛くもなんともなく、私の場合、40分ほどで終わりました。
それが終わって、ドナーさんありがとうというわけですが、どこの誰かわからないんですよ。 40歳男性、関東在住、血液型Oとまでは知らされているんですが、ありがとうという思いで、このドナーさんには足を向けて寝られないなという気持ちなんですが、どこに住まわれているかわからないので、どっちに足を向けていいのか…。 これは冗談で、でも、実際、直接会ってお礼もしたいと思っても、本当に会えないのです。 ところで、この移植で、私の血液型はBからOになり、すっかり性格も変わってしまい、Bだったころは、こんな人前で話をするなってことはできなかった、とまあ、これは半分ホントで半分は嘘ですよ。 Bに変わったことはホントでも、性格が変わったなんてことはもちろんありません。
と、こうして2010年の2月、移植の2カ月後、がんセンターを退院しました。 その時に、田野崎先生に聞いたんです。 マラソンランナーなので、この退院は、どのぐらいの地点ですかと。 すると、なんと、「10キロ地点です」っておっしゃる。 え、と思ったんですね。 普通退院するというんだから、35キロ地点とか「浅野さんもう少しですよ」とかいわれるかと思っていたが、10キロ。 これからの方が長いということなんです。 ただ、「まだまだですよ」といわれるより、「10キロ」といってもらった方が、患者としてはわかりやすく、よかったと思っています。
それで病院を出ましてから、GVHD(graft-versus-host disease)、日本語では移植片対宿主病と訳しますが、これが発症しまして、退院した年の5月から6月、9月から10月に、それぞれ約1カ月ずつ2回入院しました。 私の骨髄へのドナーさんの造血幹細胞を私の骨髄に移植することによって、そこでできたリンパ球が私のがん化したT細胞を攻撃するんですが、このドナーさんのリンパ球は非常に強くて、めでたくみんな退治してくれたんです。 ところが、仮にこの白血球に人格があるとするなら、とても真面目で、融通が利かないんですね。 それで、その白血球が私の正常細胞まで敵とみなして攻撃するんです。 これで発症するのが、GVHDで、私の場合は肺炎になりました。 GVHDは、移植を受けた人は、軽重はあっても必ずかかり、私も例外なく発症してしまったんです。 本人はなんでもなかったんですが、このころは死ぬかもしれないといわれていたそうなんです。
予後(病後の経過)ですが、昨年の5月に、闘病記というか「運命を生きる―闘病が開けた人生の扉」という本を出版したので、その出版パーティーを開いたんですね。 その時、主治医の田野崎先生にスピーチしてもらったら、今度は「マラソンなら35キロ地点です」とおっしゃったんです。 これ悲喜交々ですよね。 もうこれ、ゴールといってもらえるかと思っていたら、まだ、7キロあるよ、と。 でも、もう35キロも来ちゃったんだよということでもあるんですね。 え、と、今日、その本10冊持ってきていますので、よかったら買ってください。
それで、2011年5月に、職場復帰しました。 2カ月前は東日本大震災ですね。 2006年から慶應大学のSFCで教えていましたが、2年ぶりの復帰です。 大学は待っていてくれました。 学生も待っていてくれました。 病気からの生還を実感しましたねえ。 大学には、ほんとに足を向けて寝られません。 なぜかというと、慶應は自前で健康保険組合を持っていたのです。 とにかく、日本の国民皆保険というシステムはすごいものですよ。 病気は治ったとしても、うちは破産していました。 多分、医療費そのまま裸でやったら何千万円とかかっていたはずです。 が、それが何十万ですんだんです。 しかも、それは慶應大学が持ってくれたおかげなわけですからね。
こうして今は、ATLを克服したと思っています。
「難敵」に打ち勝った達成感と誇りを感じています。 「病気になり損にはしないぞ」とこれはきれいですけど、自分では「転んでも只では起きない」といっているんです。 つまり、転んで起き上がる時に、新しい使命をもらったという気になったんですね。 で、そのミッションというのを書いて見ました。 まず、同病の患者に勇気を与える「還暦ATL患者の星」といわれています。 私に向かって、浅野さんにATLになってもらってほんとによかった、という人がいるんですよ。 普通聞いたら、「ふざけんじゃねえよ」というとこなんですが、その通りなんですね。 自分でいうのもなんですが、浅野さんは一応有名人だったんです。 だから、新聞でも報道されテレビでも映った。 闘病中も、治った時も報道してもらったんで、同じような病気を持っている人で、私が助かっているんだと、感動して、足が震えるような思いになった人とかいて、とにかく私が存在しているだけで、「ATL患者の星」ということになるんですね。 もうちょっと積極的にやろうということで、「ATLネット」というのも作りました。 会員は20人ぐらいなものですが、同病の人に情報を与えるといものです。 それから、昨年9月、「骨髄移植推進のための法律」ができました。 骨髄移植の推進は国の責務であるということを決めた画期的な法律なんですが、まだ、施行されていません。 施行までにその実施の基本計画をつくる必要があり、それに患者の立場から意見をくださいといわれ、委員になりました。 これもミッションですよね。
「還暦ATL患者の星」といってもらったり、今いったようなことをしたりして「病気になり損にはしない」「転んでも只では起きない」という事なんですが、病気になってですね、得たものばかりなんです。 病気になって、さすがによかったねとはいえませんですけれども、失ったものっていうのは、髪の毛だけなんですよ。 といいながら、この帽子はこの話をするための小道具で、もうだいぶ生えて来ました。 一時は、すっかり抜けて1、2本だけとなり「けなげ」と呼んでいたんですが…。 まさに「before-after」でしょう。 それはともかく、この病気で得るものはいっぱいあって、失うものはなかったのです。
そして、今は、3週間に1回、田野崎先生のところへ外来受診に行っています。 先生からは「移植後5年のゴール」といわれているんですね。 5年経ってなんともなければ、何をやってもいい。 それまでは慎重運転、と。 今は3年半というところですから、もうちょっとありますね。 きょう一緒に来ていますが、妻の厳しい「教育的指導」にしたがっています。 俗称「ダメダメおばさん」で、あれやっちゃダメ、これやっちゃダメっていわれているんですけども、きょうは許しを得てここで話をしているというわけです。
それで、これからの目標です。 まず、「移植経験者枠」で「東京マラソンの10キロに挑戦!」を掲げています。 実は私はマラソン坊やだったんですが、2009年5月に発症の告知を受けたその2カ月前、東京マラソンに出場して完走しているんです。 タイムは4時間15分でしたが、実はその後も、なんでもなかったんですねえ。 そのマラソンに、もう一回出たいと思い、フルマラソンは無理なんで、せめて10キロをと考えているんです。 そして最後の目標は、大きく赤字で書いています。 「100歳超まで生きのびる」です。 これでギネスブック。 ATLというあれだけの難病を克服して、しかも100歳超まで生きたって、今から何年後かにそういう新聞ニュースが出ると思います。 でも、多分、みなさんの方が生存していないんじゃないか、と。 まあ、これは確かめようがありませんね。 ということで、どうも、ご清聴有り難うございました。
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