philosophy & message: 2008年6月アーカイブ
評価には「減点評価」と「加点評価」があるのですが、実は、親も子どもをいつの間にか減点評価で見ているような気がします。社会全体も、人間を減点評価で見ているのではないでしょうか。
ところが加点評価は、プラス面で公平な評価をする以外にも、「褒める」「のせる」ことによって、その人間により活力を与える効果も大きいと思います。つまり、うまくのせて、「お母さんもあれだけ言ってくれた」「先生がこんなに褒めてくれた。よし!もっと頑張ろう」という気になってくれることが期待できるわけです。
だから加点というのは(その人が何かアクションを起こすということが前提ですが)、起こしたアクションが未来に向かって、その人の可能性をどれだけ引き出せるかと言うことも含んでくると思います。
小学校の通知票は「できる・できない・もう少し」。これは加点評価とは言えませんね。
しかし、加点評価というのは非常に難しい。加点をした人がそこからリスクを背負わなければいけません。だから、加点評価をするのが嫌がられる面があります。また、その人のことをよく知り、見ていないとできないことでもあります。
戦後、日本の企業が成長し、発展するために、護送船団方式がとられました。同業が集まって、そしてみんな下手な喧嘩をせずに仲良くやっていこうと。そしてそれが最大の利益をもたらすのだ、という考え方でした。もちろん、会社それぞれの競争はありました。
日本ほど、同業が集まって護送船団方式で動いたところは、世界の中ではないと思います。
そして、そこに従事する人間も、企業格差を持ち出すことをせずに1つのパターンにいかに上手く入れ込むかということが、経営の基本でした。従って、しっかりしたマニュアルを忠実に実行する人間が求められました。
そのような時代でしたので、企業としては一流大学を、しかも優秀な成績で出た人を採用しておけば間違いがないと考えられていました。そのような人達は、いわゆる偏差値狂的な成績が良かったから、正しいマニュアルさえ渡せば、忠実に、しかもレベルを高く守ってくれますので、企業としては非常にありがたい人材だったのです。そのような背景から、大学のブランドというのも非常に効いていました。
今の大学は何のためにあるのでしょう。大学そのものが、もうほとんど目的化されてしまっています。大学へ行くということが、本人の目的になってしまいました。本来、大学というのは、そこでより多くの情報やより深い知識を得て、それをベースに社会への貢献や、自分の能力を発揮し、生きがいを学び、感じるための手段としてあるべきなのに。
目的と手段が、ひっくり返ってしまったのです。
戦前の日本は平均的に貧乏でしたし、やりたいこともなかなかできませんでした。その中で自分で色々目標を立てて、自己実現のために努力をしてきました。しかし、戦後の日本人は、一つのレールに乗っかってしまったら、それでその人の人生は概ね決まってしまうようになりました。工程表が決まってしまった。個の存在を必要とせず、自ら求めようともしなかった、とも言えるのではないでしょうか。
しかし、バブルが崩壊して価値観が変化しました。護送船団方式で国際社会に乗り込んできた日本でしたが、今度は個性や創造性が重要視され、人間を幸福にするような生き方が模索される時代が来ました。それに企業が気付き、行政が気付き、そしてやっと働いている親たちも気づいてきました。しかし、ブランド志向がまだ強い親がいることも確かです。
しかし、一流大学を出ても、「品質保証」はされません。
幼稚園は有名な小学校にはいるため、小学校は有名な中学校にはいるため、というふうに子どもを育ててしまっていませんか。