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「おもしろおかしいこと」に熱中したり、「遊び」というと、日本人は悪徳みたいに考えます。我が社も「おもしろおかしく」を正式の社是にしたとき、からかわれたり馬鹿にされたり、また注目もされました。そして「そのような会社で働いてみたい」と言ってくれる人もいて、人を集める力は滅茶苦茶ありました。
キャッチフレーズとしてはいいのですが、でも私は非常に危険に感じるのは、「この会社に入れば、おもしろおかしく仕事をさせてくれるようなプログラムがあるのだろう」と、受動的に考える人がいることです。「おもしろおかしい」というのは、自らが持ってくるもので、自動的に「おもしろおかしい」道が拓けているわけではありません。
ただし、できる限り社員の希望ややりたい仕事ができるような仕組みなどは積極的に取り入れています。しかし会社に入った途端、そう簡単に「毎日おもしろおかしい」というわけにはいきません。
日本人の一つの固定観念で、「おもしろい」や「おかしい」というと、「いや、仕事というのはもっと神聖なもので、歯を食いしばってしかめっ面をしてするものだ」とおもしろおかしくするのは、「不遜だ」「チャラチャラしている」というようにとられがちです。だから、「歯を食いしばってやるような大変な仕事の時間は、短ければ短いほどよろしい」と、労働者のためだとして時短を進めます。
しかし、現実はそうではなくて、労働している人がいかに楽しく愉快に職場で働いているかどうかということの方が、私は遙かに大事だと思うのです。
私のその考え方は、自分自身の体験から生まれました。私は、嫌なことをするのが嫌いなのです。好きなことをするのが大好きなのです。だから、周りの人も仕事を面白くやって欲しいですし、面白くやらなかったら誰も進歩しないですし、嫌々やってはダメだ、と思っているからです。現在では、段々と日本も「仕事を面白くしなければ」という空気になってきていると思います。
高校・大学になると、自分の好きな専門分野がある程度分かってきます。そうなると、その分野におけるいいティーチングプロにつくことが大事です。そうすれば、素晴らしいプロフェッショナルになれます。
ゴルフにも、ティーチングプロとツアープロというのがあります。あのタイガーウッズでさえ、ティーチングプロがいるのですよ。
ティーチングプロはツアープロよりも上手いかというと、決してそんなことはありません。ただし、教えることについてはプロフェッショナルなのです。
大学の先生も一緒です。その生徒よりも潜在能力は低いかもしれませんが、ティーチャーとして立派な方はおられます。教える能力のない人がいっぱい教授にいるから、それでダメなんです。研究者として立派でも、教える能力がなかったら、大学は成り立ちません。
ティーチングプロの質という意味からは、私は初等教育の現場ほど人間的にも能力的にもスケール的にも優れた人材がいて欲しいと思います。そういう意味において、小学校の低学年では、本当に社会的に酸いも甘いも知った年配の先生が教えるべきではないでしょうか。
仕事の場合も同様です。その人の資質に不向きな部門に配属されたら、どんないいティーチングプロがつこうが、その人はもう二流、三流で一生終わってしまうでしょう。そんな人が、世の中にごまんといます。
小さいときに、自分は一体何が得意なのかということを自覚させてもらえるようなエデュースを受けた人間というのは、得をしています。
教育現場にはそのような先生がいないわけではありません。しかし、少ないように思います。
「君な、絵を描くのもいいけど、ちゃんと数学やれ」
資質と能力の混同が招いた悲劇だと思います。
私が仕事を始めて早々の頃、アメリカのある一流の大企業に我が社の製品を売り込みに行ったのですが、会社の規模には関係なく、良い製品であれば驚くぐらい正当に評価してくれるのです。日本とは、決定的にそこが違います。
日本は保守的というのでしょうか、堀場製作所のような中小企業の製品を、特に企業の中枢に関わるところにはなかなか採用しようとしません。しかし、外国の会社は、その製品が本当によいものであれば、開発した会社がどこであろうが、製品とその技術に対して正当な評価をしてくれます。だから、新しく開発したものはまずアメリカが使ってくれました。
堀場製作所が海外進出をした昭和30?40年頃といえば、日本企業はまだあめりか詣でをしていた時代でした。そしてアメリカの研究所などを視察して、堀場の製品が使われていたりすると、「この製品はどこのものだ?」「あなたの国、日本の商品ですよ」となると、その人は国に帰って、アメリカで使われていたくらいだからいい製品に違いない、「その堀場とかいう会社の製品を使おうか」ということになるのです。
日本の会社は、基本的にベンチャー的な意識は低く、どこか大きな会社が使っていたらよろしい、となります。いわば、ブランド志向なのです。採用を決定する人もブランド品を使っておけば、少々高くても、悪くても、その人の失点にはなりません。そこで何かあった場合「堀場の製品です」「堀場ってどこだ?よくぞそんないい加減な会社のものを!」と、その人にバッテンがついてしまいます。
日本でベンチャーが育たない理由の一つは、購買する側がリスクを背負わないからです。なぜリスクを背負わないかというと、減点方式だからです。
しかしバブル崩壊後、長期不況に耐えきれず、色々な企業がこの減点方式を取りやめようとしています。そこでみんなが「減点の恐れがあろうとも関係ないよ、好きなことをやるんだ」という働きをすれば、日本のアクティビティが上がるのではないか、と思います。
減点方式では「パーフェクト」であった人も、加点方式になれば「ゼロのまま」というケースも出てくることになります。
つまり、「キジも鳴かずば撃たれまい」から、「鳴かないキジは殺される」ということでしょうか。鳴かない鳥は、鳥ではないのです。
私はよく「いやならやめろ!」というのですが、それは学校教育が嫌だから教育をやめろ、というものではなくて、妥協しながら卒業しようという考えはいけませんよ、ということです。自分のフィロソフィーに忠実になって、自分の納得する道を歩みなさいということであって、日本の国が嫌だから日本人をやめるとか、教育が嫌だから教育をやめるとか、親が子どもの世話が嫌だから育児を放棄するとか、そういう問題ではありません。自分のフィロソフィーを確立させることによって、それに忠実に生きなさい、ということを言いたいのです。
不登校や引きこもりが問題になっていますが、例えば今の教育は特定の学校があり、そこに毎日、決して自分が選んだわけでもない先生の授業を受けて、そういう学校には行きたくないだろう、といっているのです。「そんなもの、いやならやめろ」とね。
その代わり、それに変わるべきものとして、自分が好きなときに好きなものを勉強する。しかしやがて社会人として食べていかなければいけませんから、自分の好きなものでそのために必要なものを身につけて、それが正当に評価を得られれば、その人はそれなりの職業を選べることになります。
そこを「何とか卒業だけはしてくれ」といっても、問題は解決しません。
会社は決まったスケジュールで動いていますから、人はジェネラリストの方がいいんです。何でもソツなくこなせる方が良いのです。そして、会社ではそういった人がどんどん偉くなっていくのです。そして「これは100点だけど、これは0点」という人が会社にいると、困るわけです。そしてジェネラリストがいかに沢山いるかということが、その企業のエネルギーみたいなものでした。今までは。
しかし、今は違います。
私は、教育というのは完全なフィードバックシステムがなければ絶対にいけないと思うのです。つまり、こういう方法で教育した人間が社会へ出て、これは非常に良いという面については、元の教育現場へ戻ってそれを助長するようにする。一方こういう方法をやって悪いというのは、元に戻ってそれを補正していく。
そのようなシステムと能力のある人がいて、完全なフィードバックサーキットがある上で教育がされていたらいいんですが、今まではそのフィードバックが全然ないわけです。
偏差値主義で教育をしていって、一流大学へ入れて、いい会社に入ったり高級官僚になったらもうこれで良いだろうと、ここで生じている色んな問題を彼らを育てた教育現場に戻していません。
フィードバックは、早ければ早いほど、そしてその帰還率が高ければ高いほど、出来上がったものは現実に即したものがでます。そして遅ければ遅いほど、帰還率が低ければ低いほど、出来上がったものはマーケットに対して機能しません。でも教育はフィードバックが遅いどころか断ち切られていたわけです。そして可哀想なのは、出来上がった人間。出来上がった頃には「いらん」と言われるんですから。まさに、不良在庫を作っているわけです。
フィードバックの際の大本は何かというと、持って生まれた人間の「資質」です。教育というのは、ある程度能力を大きくすることはできるけれど、基本的な資質というのは、生まれたときには既に備わっているのです。資質は能力ではありません。誰もが持っている個性のようなものです。だから生まれながらに好きなものと嫌いなものってあるんです。
例えば、音感とか味覚とか聴覚とか視力なんていうものは、ある程度決まっています。音感の弱い人は努力しても音痴のままですし、どんなに目のトレーニングをしても、アフリカにいるような視力4.0の人にはかないません。ですから、人間の資質とはそういうものだということを前提にしないと始まらないのです。
全く資質のつがう人に同じ味付けをし、同じような完成品にしようとするのが今の教育でしょう。決まった答えの出し方を教えて、差を付ける。そしてそこからはみ出た人は、はみ出たままで大人になるのです。
備わった資質を生かして、好きなことをさせてあげるということが、子どもの幸せに繋がると思うのです。そしてそれを見つけてやるのが、初等教育です。その子の最も得意とするところを伸ばすにはどうしたらいいかを導いてやれるのが、ティーチングのプロなんです。
小学校の教育は大事です。そして、教師そのものも非常に大事です。
私は、教員免許の国家試験に通ったら、ただちに先生になれるということには、絶対に反対です。特に小学校の先生には、団塊の世代や世の中のことを色々知っている人になって欲しい。本当に基礎になる社会での経験が豊富な人が教えた方が良い。あるいは語学のようなものは、英語の先生ではなく、海外勤務をしていた人に教えて貰う方が良い。
というのは、それぞれの事象についてそれがどういう意味かと言うことを教える側が理解していなければいけないからです。ただ「覚えなさい」と暗記するようなものでは無いはずなのです。
理科にしても、本当に興味がある子供に教科書通り暗記させるだけでは、興味を失ってしまうかもしれない。「世の中ではこのように使われている。その大本の原理がこの教科書に書かれている。だから勉強したらいいよ」と行ってあげることができれば、興味もわいてくるでしょう。それを、大学出たての教員にさせようとしても、難しいのではないでしょうか。
歴史も同じです。年号を覚えるだけでは、面白くありません。そうではなくて、当時の時代背景はこうで、こういう勢力があり、このような経過を経てこうなった、と聞くと興味も沸くでしょう。結果としての事実を覚えなさいと言うだけでは、面白くもありません。
一人ひとりの人間が、自分はどう生きるか、どういう人生を送りたいかを考えることは、生まれてきたことに対する真摯な関わり方だと思うのです。それが、「こうやればあなたは成功者ですよ」といった線路が社会によって引かれていて、その上をひたすらに、いかに速く、しかも完璧に進ませるのかというのが、戦後の教育だったと思います。
本来、教育とは子どもを幸せに導いてやるためのものです。
メジャーリーグのイチローのように、国際社会で活躍する日本人が増えてきました。国際社会で活躍している人は、有る意味で好き嫌いや生き方がはっきりしていると思います。「とにかくアメリカで野球をするんだ。年棒なんて関係ない」など、目的意識や価値観がはっきりしています。
彼らの大活躍のおかげで、個性や価値観という言葉でなくても、「僕は僕でいいんだ」というような社会になってくる可能性があります。
今までの日本人は、自分を過小評価していた傾向が強かったように感じます。日本人は、他流試合をしないから、自分を本当に評価するというか、そういう機会が少ないのではないかと思います。
1億2000万人の日本人のほとんどが、自分の力の限界を知らずに死んでいっているのではないでしょうか。またそのような場に自分を持っていくということすら、あまりにもデンジャラスでやっていない。私は、100%とまでとはいいませんが、せめて90%ぐらいは、その力を出してみてもらいたいと思います。
意図を持って自分の能力を発見していく方法というものがあれば、人間は変われると思います。その一つは、やっぱり好きなことをすること。好きなことなら、自分の能力の限界に相当近づけるのです。
そして、それぞれのジャンルで、多様なサクセスストーリーが必要だと思います。
評価には「減点評価」と「加点評価」があるのですが、実は、親も子どもをいつの間にか減点評価で見ているような気がします。社会全体も、人間を減点評価で見ているのではないでしょうか。
ところが加点評価は、プラス面で公平な評価をする以外にも、「褒める」「のせる」ことによって、その人間により活力を与える効果も大きいと思います。つまり、うまくのせて、「お母さんもあれだけ言ってくれた」「先生がこんなに褒めてくれた。よし!もっと頑張ろう」という気になってくれることが期待できるわけです。
だから加点というのは(その人が何かアクションを起こすということが前提ですが)、起こしたアクションが未来に向かって、その人の可能性をどれだけ引き出せるかと言うことも含んでくると思います。
小学校の通知票は「できる・できない・もう少し」。これは加点評価とは言えませんね。
しかし、加点評価というのは非常に難しい。加点をした人がそこからリスクを背負わなければいけません。だから、加点評価をするのが嫌がられる面があります。また、その人のことをよく知り、見ていないとできないことでもあります。
戦後、日本の企業が成長し、発展するために、護送船団方式がとられました。同業が集まって、そしてみんな下手な喧嘩をせずに仲良くやっていこうと。そしてそれが最大の利益をもたらすのだ、という考え方でした。もちろん、会社それぞれの競争はありました。
日本ほど、同業が集まって護送船団方式で動いたところは、世界の中ではないと思います。
そして、そこに従事する人間も、企業格差を持ち出すことをせずに1つのパターンにいかに上手く入れ込むかということが、経営の基本でした。従って、しっかりしたマニュアルを忠実に実行する人間が求められました。
そのような時代でしたので、企業としては一流大学を、しかも優秀な成績で出た人を採用しておけば間違いがないと考えられていました。そのような人達は、いわゆる偏差値狂的な成績が良かったから、正しいマニュアルさえ渡せば、忠実に、しかもレベルを高く守ってくれますので、企業としては非常にありがたい人材だったのです。そのような背景から、大学のブランドというのも非常に効いていました。
今の大学は何のためにあるのでしょう。大学そのものが、もうほとんど目的化されてしまっています。大学へ行くということが、本人の目的になってしまいました。本来、大学というのは、そこでより多くの情報やより深い知識を得て、それをベースに社会への貢献や、自分の能力を発揮し、生きがいを学び、感じるための手段としてあるべきなのに。
目的と手段が、ひっくり返ってしまったのです。
戦前の日本は平均的に貧乏でしたし、やりたいこともなかなかできませんでした。その中で自分で色々目標を立てて、自己実現のために努力をしてきました。しかし、戦後の日本人は、一つのレールに乗っかってしまったら、それでその人の人生は概ね決まってしまうようになりました。工程表が決まってしまった。個の存在を必要とせず、自ら求めようともしなかった、とも言えるのではないでしょうか。
しかし、バブルが崩壊して価値観が変化しました。護送船団方式で国際社会に乗り込んできた日本でしたが、今度は個性や創造性が重要視され、人間を幸福にするような生き方が模索される時代が来ました。それに企業が気付き、行政が気付き、そしてやっと働いている親たちも気づいてきました。しかし、ブランド志向がまだ強い親がいることも確かです。
しかし、一流大学を出ても、「品質保証」はされません。
幼稚園は有名な小学校にはいるため、小学校は有名な中学校にはいるため、というふうに子どもを育ててしまっていませんか。
企業の本来の役割とはなんでしょうか。様々にありますが、その一つに一定の教育を受けてきた人材に、その能力に応じた具体的な行動を起こさせて、付加価値を生むシステムです。
ところが、今の学校や家庭、あるいは社会でそれまで受けてきた教育を現在の企業サイドから見るとね様々な欠陥があります。本来の教育がされておらず使い物にならないので、仕方なく、企業の中で教育をしなければならないのです。あいさつの仕方まで、会社で教えている状況です。
大学教育のレベルも疑いたくなる事態があります。大学院のレベルの低下です。
最近は、ドクター過剰という問題が起こっています。文部科学省が予算を付けて、多くの大学でマスター、ドクターコースができています。その一方で、ドクターの就職難が生じています。会社にも「ドクターを採れ」とうるさく言われます。しかし、学部卒生に比べて5年間も勉強ばかりしているはずなのに、とにかく能力がない。論文を読む速度も遅い。
では、なぜそうなってしまうのか。かつてであれば、自分が研究を深めたいテーマを持って、それを指導してくれる先生の教室に行きました。ところが今は「修飾するのも気が進まないな」とマスターへ行き、「このまま修飾しても今ひとつだな。あと3年」とドクターへ行く。そしてその間も、先生から与えられたテーマの研究を進める。これは、会社の食堂で「今日はカレーだ」と、食べたくもないのに仕方なく出されたから食べる、というようなものでしかありません。さらに、自分が書いた論文が、その論文がその分野の研究のポジションや果たした役割などを理解していないケースもあります。
特別な学者で特別な研究をして、ノーベル賞級の研究をする人もいます。しかし、日本の国力を維持し、発展させるための専門教育、高等教育について大学だけに任せて、もし、企業が真剣に教育していなかったら、日本のレベル、国力はすごく落ちていると思います。