2008年10月アーカイブ
会社は決まったスケジュールで動いていますから、人はジェネラリストの方がいいんです。何でもソツなくこなせる方が良いのです。そして、会社ではそういった人がどんどん偉くなっていくのです。そして「これは100点だけど、これは0点」という人が会社にいると、困るわけです。そしてジェネラリストがいかに沢山いるかということが、その企業のエネルギーみたいなものでした。今までは。
しかし、今は違います。
私は、教育というのは完全なフィードバックシステムがなければ絶対にいけないと思うのです。つまり、こういう方法で教育した人間が社会へ出て、これは非常に良いという面については、元の教育現場へ戻ってそれを助長するようにする。一方こういう方法をやって悪いというのは、元に戻ってそれを補正していく。
そのようなシステムと能力のある人がいて、完全なフィードバックサーキットがある上で教育がされていたらいいんですが、今まではそのフィードバックが全然ないわけです。
偏差値主義で教育をしていって、一流大学へ入れて、いい会社に入ったり高級官僚になったらもうこれで良いだろうと、ここで生じている色んな問題を彼らを育てた教育現場に戻していません。
フィードバックは、早ければ早いほど、そしてその帰還率が高ければ高いほど、出来上がったものは現実に即したものがでます。そして遅ければ遅いほど、帰還率が低ければ低いほど、出来上がったものはマーケットに対して機能しません。でも教育はフィードバックが遅いどころか断ち切られていたわけです。そして可哀想なのは、出来上がった人間。出来上がった頃には「いらん」と言われるんですから。まさに、不良在庫を作っているわけです。
フィードバックの際の大本は何かというと、持って生まれた人間の「資質」です。教育というのは、ある程度能力を大きくすることはできるけれど、基本的な資質というのは、生まれたときには既に備わっているのです。資質は能力ではありません。誰もが持っている個性のようなものです。だから生まれながらに好きなものと嫌いなものってあるんです。
例えば、音感とか味覚とか聴覚とか視力なんていうものは、ある程度決まっています。音感の弱い人は努力しても音痴のままですし、どんなに目のトレーニングをしても、アフリカにいるような視力4.0の人にはかないません。ですから、人間の資質とはそういうものだということを前提にしないと始まらないのです。
全く資質のつがう人に同じ味付けをし、同じような完成品にしようとするのが今の教育でしょう。決まった答えの出し方を教えて、差を付ける。そしてそこからはみ出た人は、はみ出たままで大人になるのです。
備わった資質を生かして、好きなことをさせてあげるということが、子どもの幸せに繋がると思うのです。そしてそれを見つけてやるのが、初等教育です。その子の最も得意とするところを伸ばすにはどうしたらいいかを導いてやれるのが、ティーチングのプロなんです。
小学校の教育は大事です。そして、教師そのものも非常に大事です。
私は、教員免許の国家試験に通ったら、ただちに先生になれるということには、絶対に反対です。特に小学校の先生には、団塊の世代や世の中のことを色々知っている人になって欲しい。本当に基礎になる社会での経験が豊富な人が教えた方が良い。あるいは語学のようなものは、英語の先生ではなく、海外勤務をしていた人に教えて貰う方が良い。
というのは、それぞれの事象についてそれがどういう意味かと言うことを教える側が理解していなければいけないからです。ただ「覚えなさい」と暗記するようなものでは無いはずなのです。
理科にしても、本当に興味がある子供に教科書通り暗記させるだけでは、興味を失ってしまうかもしれない。「世の中ではこのように使われている。その大本の原理がこの教科書に書かれている。だから勉強したらいいよ」と行ってあげることができれば、興味もわいてくるでしょう。それを、大学出たての教員にさせようとしても、難しいのではないでしょうか。
歴史も同じです。年号を覚えるだけでは、面白くありません。そうではなくて、当時の時代背景はこうで、こういう勢力があり、このような経過を経てこうなった、と聞くと興味も沸くでしょう。結果としての事実を覚えなさいと言うだけでは、面白くもありません。
一人ひとりの人間が、自分はどう生きるか、どういう人生を送りたいかを考えることは、生まれてきたことに対する真摯な関わり方だと思うのです。それが、「こうやればあなたは成功者ですよ」といった線路が社会によって引かれていて、その上をひたすらに、いかに速く、しかも完璧に進ませるのかというのが、戦後の教育だったと思います。
本来、教育とは子どもを幸せに導いてやるためのものです。